全回顧録 20250413作成

【回顧録】 備忘 20210425
2025年4月13日 10:45:00 作成

2024.08.082025.03.19
【回顧録】 備忘 20210425

2021年4月25日 9:49:20 作成
中学生のころに言った初めての伊豆旅行
無線を持って行った?
台湾旅行
シンガポール 出張と家族
中国旅行、
会社に入った頃に ワンチップ CPU の論文を見つけて会社のゴミ箱をあさって ゲートとカウンターと小さなメモリーで CPU を作ろうとしたことを思い出す メモリーは除くか CPU 本体を作ろうとしたことを思い出す
スバルサンバー改造のバギーを作った
最初のトランジスタ2 SA 110
3勝1敗の話を書く 人生全体
ワシントンの黒人タクシー運転手
george hara の話
主税、主計、税務調査の話
回顧録

【回顧録】 経歴
2025年4月13日 10:42:47 作成

【回顧録】 経歴
2024年2月1日 9:55:14 作成

ウキペディアを大幅に修正したら、クレームが付いたので、バックアップとして

収録しておく。

増田 清(ますだ きよし、1947年 ? )は大阪府出身の実業家。

生い立ち

八尾市中河内郡高安村で1947年に生まれる。貴族議員であった久保田真吾の隣家に当り、交流があった。4代前の増田清兵衛が江戸後期に造り酒屋を開業し免許は140石であった[1]。当時の中河内地区で4箇所あった造り酒屋のうちの一つであったが、明治政府の酒増税により廃業してしまった。名前の「清」は清兵衛に由来するとのことである。

地元の小学校より、高津中学校、高津高等学校へと進学。 1972年に大阪府立大学電子工学科修士課程を修了した後、オムロン株式会社(当時の立石電機株式会社)に入社し、主にシステム関連の開発に従事する。

主要プロジェクト

CAT開発 1981年ごろに 信用照会端末(CAT クレジットオーソライゼーションターミナル、クレジットカード認証端末)アメリカ仕様「CAT100」を概念や伝票フォーマットから開発。 超短期(外観は製品と同じプロト開発3ヶ月)で、その後米国SOM80%を達成。当時のオムロン米国販売会社はオリジナルブランドの製品を持っていなかったが、CAT100が初のオリジナルブランド品となる。 社員の士気も上がり、積年の赤字を一掃するまでになった。 超短期の開発過程は社内外のモデルとなり、大学の研究対象にもなり、インタビューを受けた。

Wnn(うんぬ) ワークステーション開発に際して、多言語対応が必要となり、日本語入力システムのWnn(ウンヌ)カナ漢字変換ソフトの開発管理担当となった。 当初はフリーソフト(PDSと言った)だったが、途中からWnn6として商用化を行い、USサンマイクロ、シリコングラフィクス等にライセンス。その後、携帯電話にも搭載され、Unix系WSのデファクトスタンダートとなる。MITがプロジェクトを推進した Xウインドウシステムのデストリビューションテープにも収録される。 Wnn4まではフリーソフトだったが、その後用意したWnn5はリリースされず幻となり、大幅に改良したWnn6が商用バージョンとなる。

Unixとカーネギーメロン大学 Unixワークステーション(Lunaシリーズ)の開発に際して、通産省の推進するUnix SystemVと技術者の間で評価の高かったバークレー版Unixの両方を開発することになり、さらに両方のUnixが動作する「デュアルUnix」もシリコンバレーのベンチャーから導入した。 さらにマルチCPUワークステーションの核となるMachOSを、開発していたカーネギーメロン大学より導入した。 カーネギーメロン大学には同ワークステーション40台を寄贈。 この過程で、TV向けのコマーシャルフィルムを撮影。

MachOSのプロジェクトトップである Richard Rashid氏をはじめ、当時のコンピュータサイエンス界の主要メンバーが出演していて話題となった。 さらに寄贈したワークステーションで作成したCGがNHK番組のアインシュタインロマンに採用される。 この時にデジタルガレージの伊藤 穰一氏が間接的に関わっていたことが、後に偶然面談した時に判明する。

Omron Advanced Systems, Inc オムロンは70年代に大規模な現地開発を行い、他社の半額の低価格電卓 OMRON800[2] の開発のベースとなったこともあり、社内のアセットとなっていた。 しかし当時は活動も低下し、逆に新たな活動の妨げになっていたので、新規の法人を設立した。事務所の選定から事務用品やデスクの購買まで自分自身で行う。 その後のオムロンのシリコンバレーにおける基礎となった。

在宅勤務 技術本部IT研究所長時代に、本社、研究所、工場など国内30の事業所におけるイントラネットの構築で主導的な役割を果たし、従来のLocal Area Network (LAN)ではできなかった経営管理や組織間での情報共有化などを可能にしたが、これは京都の企業に於ける「産業情報化」の先駆けと位置づけられる。同時にイントラネットでは管理職の在宅勤務(書類決済など)の実験も行い、当時はサービスが始まったばかりのISDNを各管理職の自宅に接続した。

M2Mセンサネット 2000年ごろから、事業開発本部において「M2M センサネット」ビジネスを立ち上げる。 安価な端末とローコスト通信、クラウドによるサービスで、現在のIoTにの先駆けとなる。 安価なハードウエア端末とクラウドによるサービスの統合で新しいビジネスモデルを確立。 タンクやサイロの残量監視システム、灯油残量監視システム、ミリ波利用の液面計、キュービクル電力監視システム、ピーク電力警報システムなど 多数のビジネスを展開[3]した。 契約者数の増大を目指すDocomoとの連携も盛んに行った。

京都試作センター株式会社設立[4] 2006年に京都を代表する企業の出資により京都試作センターを設立。ファブレスの試作サービスビジネスとして新しいビジネスモデルとして構築。 設立2年目で単年度黒字を達成。 当時の設立出資会社は以下の通り。

オムロン株式会社、京セラ株式会社、株式会社京都銀行、京銀リース・キャピタル株式会社、株式会社島津製作所、株式会社村田製作所、京都信用金庫、京都中央信用金庫、大日本スクリーン製造株式会社、村田機械株式会社、大阪ガス株式会社、京都北都信用金庫、関西電力株式会社、株式会社 ジーエス・ユアサ コーポレーション、ダイキン工業株式会社、西日本電信電話株式会社、日新電機株式会社、ニチコン株式会社、日本電産株式会社、株式会社堀場製作所、ローム株式会社、株式会社イシダ、サンコール株式会社、株式会社日進製作所、株式会社最上インクス、サムコ株式会社

会社法の改正の時期と重なったが、各社取締役会のスケジュールを調整し、連休を挟んでの設立手続きとなった。 出資総額は、2億1,600万円となった。

業績と役職

1972- ロックウエル製PPS4マイコンを使った機器の開発。ソフトチームのリーダー。業界初4ビット工業用マイコン開発、 業界初プログラム式PROMライタ開発し、書き込み時間を桁違いに短くして、ビジネス的にも、ソフト開発の効率化にも貢献した。

大阪市内交通管制システムの現場管理に従事、 JTの東北工場の現場管理に従事。

成田空港パイプライン[5]漏洩検知システムのシステム設計と開発

POSシステムの開発、 オムロン金融システム工場工務管理システム開発、8ビットマイコンシステムのハードやOSを含む開発、16ビットミニコンシステムの開発。

この間に米国ではマイクロソフトがMS-DOSを開発したことを知り、米国の情報の重要さを認識して、後の現地法人の設立につながっていく。

1981- 信用照会端末(CAT クレジットオーソライゼーションターミナル、クレジットカード認証端末)開発から量産まで担当。 その後 日本向け仕様を開発。 アメリカと日本の製品仕様に対する考え方の違いから多くを学ぶ。

1983- 当時最高速のUnixワークステーションである Super Mate シリーズの主にハード開発を担当。 その後、当時の通産省シグマプロジェクト参画により、シグマワークステーションのハード開発に従事。 この中で、開発の大きな力となった京都大学学生らによる校外グループ KABA(Kyoto Artificial Brain Association) の活動支援を行う。

1986? Unixワークステーション(Lunaシリーズ)の開発責任者となり基本設計を行う。 100人規模。 課長職のち主席技師兼務。

1989- Luna-2ワークステーション開発。 この開発を通じてサンマイクロシステムズ、MIT、カーネギーメロン大、モトローラ、 データジェネラルなどとの関係がさらに深まる。

4マルチプロセッサWSで世界最高速度性能のLuna/88K ワークステーション を発表。

Omron Advanced Systems, Inc をシリコンバレーに設立。 副社長のち社長に就任。

中国上海、シンガポールへの開発会社設立支援。

米国データジェネラル社の日本子会社日本データゼネラル社の買収参画。非常勤取締役。

ワークステーションの国内販売会社を設立。 ルナ販売株式会社 非常勤役員。

88オープン、OSF、UIに参画。 88オープンのボードメンバー。

グラフィクス関連の技術強化のため ShoGraphics社に出資。ボードメンバー。

1992- 技術本部システム総合研究所 所長就任。 130人規模。勤務地は京都研究所および町田研究所。 コンポを担当する中央研究所と2分するコーポレートレベルのシステム分野の研究所となる。 主な研究開発テーマは以下の通り。

感性情報処理、音声認識、Wnn漢字入力システム、アジア言語処理、インターネット検索エンジン、 言語識別。

リアルタイムJava、PC-ATM、オープンPLC、スマートセンサ、FAミドルウエア。

ミリ波、スプレッドスペクトラム無線、キーレスエントリ、ITS用通信。

ソフト生産性向上、CMM、オブジェクト指向。

1996‐ 技術本部IT研究所 所長就任。 京都高度情報化推進協議会・委員。

1997- 中国上海に設立した上海計算機有限公司-非常勤董事就任。

1998- 技術本部戦略技術提携担当となる、 米国制御機器最大手のR社との戦略提携事前交渉、無線技術スタートアップの カナダP社への投資および提携。 シリコンバレーにおける新しいスタイルの研究所設立計画立案。アメリカ(主にシリコンバレー、ボストン)、ベルギー、ドイツ、イスラエル、中国、シンガポールなどを拠点とする。

2000- 事業開発本部にてM2M センサネットを立ち上げ、2001年に sVMI(センサー オリエンテッド ベンダーマネジメント インベントリー) 事業グループ長に就任。

2004- 財団法人京都産業21 理事就任。 京都試作センターの設立準備を開始。 2005年に京都試作産業シンポジウム開催。300名以上の参加で、センター設立の機運が高まる。

2006‐ 京都を代表する企業の出資により京都試作センターを設立。 代表取締役副社長就任。 2008年 代表取締役社長。

2010年9月9日 京都試作センター株式会社 株主総会にて取締役退任。 その後はITコンサルタント業や農業に従事、同時に不動産業も営み現在に至る。 村社である八幡神社奉賛会会長も務める。

回顧録

【回顧録】 時系列
2025年4月13日 10:41:55 作成

時系列
2025.03.19
増田 鼎 父 1921/08/05 死去 1998/11/26
増田 寿子 母 1923/01/14 死去 1996/05/05
増田 治子 配偶者 1951/01/19 誕生
増田 康之 長男 1980/08/08 生誕
増田 照子 妹 1950/01/06 生誕
阿部 満智子 義母 1928/11/09 生誕

高津高校   普通科 高校 1965年 卒業
大阪府立大学 工 電子工 大学 1970年 卒業
1970 大阪府立大学 電子工学科 卒
大阪府立大学 工 電子工 院修士 1972年 卒業
1972 大阪府立大学 電子工学科 大学院 修士課程 卒

オムロン株式会社(当時は立石電機株式会社)入社
1972- マイコンを使った機器の開発。ソフトチームのリーダー
19741130 結婚
1981- クレジットカード認証端末の開発。開発全体の責任者。
1981- クレジットカード認証端末の開発。開発全体の責任者。
1983- Unixワークステーション(Lunaシリーズ)の開発責任者。 100人規模、

2 Super Mate シリーズの開発(当時最高速のUnixワークステーション)

シグマワークステーション開発/通産省のシグマプロジェクト参画

Lunaワークステーション開発 Luna/88K ワークステーション (世界初のマルチCPUのワークステーション)

1983- Unixワークステーション(Lunaシリーズ)の開発責任者。100人規模、20億円予算/年。
1986 主幹(課長職)
1988 オムロン株式会社の主席技師
1989- 会社設立および買収などを手がける(開発責任者と同時に)。

Omron Advanced Systems, Inc をシリコンバレーに設立。 オムロンのエリア統括会社OMCAに先んじを自分で行う。 副社長のち社長。

中国上海、シンガポールへの開発会社設立支援。非常勤役員。

米国データジェネラル社の日本子会社の買収参画。非常勤取締役。

ルナ販売(株)非常勤役員。 88オープン、OSF、UIに参画。 88オープンのボードメンバ。 ShoGraphics社投資。ボードメンバ
1991-04-17 LUNA-2発表会
1991-11-05 13:00-15:00 Steave Jobbs Meeting

1992 参与(部長職)

1992- IT研究所(元システム総合研究所)所長
<1993/09/16> (木) 1993-09-16 0:00- 9:10 ●T81/E9 Geneve ? Barcelona(Fra) PABLO CASALS
1993-09-16 18:00 ●Barcelona Hotel
1993-09-23 0:00-15:30 ◎SFO ? OSA UA809
1996年5月5日 母親死去
1998- 戦略技術提携担当となる
1998- 戦略技術提携担当となる “
R社との戦略提携事前交渉 “
P社への投資および提携 ” シリコンバレーにおける新しいスタイルの研究所設立計画立案 ” アメリカ(主にシリコンバレー、ボストン)、ベルギー、ドイツ、イスラエル、中国、シンガポールなどを拠点とする。
1998年11月30日 父親死去 <1998/11/26> (木) 病院と銀行と臨終

2000- 事業開発本部にてM2M センサネットを手がける 事業グループを立ち上げ、新しいビジネスモデルを確立。 収益性確保。
2001年10月  事業開発本部ビジネスインキュベーションセンタ事業グループ長
2003 から 2004 に農業を始める

2004年4月 財団法人京都産業21 理事就任
2004年4月 財団法人京都産業21 理事 (現職)
2005年6月10日 京都試作産業シンポジウム開催
平成17(2005)年 10月20日 京都試作産業推進会議設立総会開催
平成18(2006)年7月19日 午前10時 京都試作センター(株) 創立総会 代表取締役副社長
2006年9月 京都試作センター株式会社 代表取締役副社長
2007年9月6日 京都試作センター株式会社 株主総会
2008年9月2日 京都試作センター株式会社 株主総会にて代表取締役社長
2008年9月 京都試作センター株式会社 代表取締役社長
2009年9月 京都試作センター株式会社 取締役 (現職)
2010年ごろ温室を作る
2010年3月11日 京都産業21理事退任
2010年9月9日 京都試作センター株式会社 株主総会にて非常勤取締役退任 鳥羽マンション購入

2010年 洋らん展
2012年 畑のつづき加入 このころから本格的に畑を始める
作業ハウスを作る
たんぽぽが建設
2011 康之結婚
20121109 Misao Ishitaniさんがあなたのアルバム「咲くやこのはな館の洋ラン展」
満智子死去
2013年3月 EHS山本建設
2014年12月 レクサス売却 Bmw購入
20141224 光莉 誕生
20170423 畑整理、大阪愛蘭会、西岡さん訪問
20180105 悠生誕生
20180826 大阪愛蘭会、お宮で太鼓解体、台所日除け

【回顧録】 2018年の5日になってやっと回顧録を書き始める
【回顧録】 2018年の5日になってやっと回顧録を書き始める
2025年4月13日 10:46:12 作成

2018年の5日になってやっと回顧録を書き始める。
2025.03.02
2018年の5日になってやっと回顧録を書き始める。 以前に選択したアウトラインプロセッサが行方不明で、よく考えたら、Evernoteで代用できることがわかった。 いずれにしてもEvernoteで共有しないといけないので、同じ事になる。
今日はやっと男の子の孫が出来るので、昼から見に行く。 これで大きな出来事は終わった。 生命保険も6年目に入ったので、あと5年。 なんのかんの言っている内に5年が過ぎた。 治子の病状は安定しているし、しばらくは大丈夫。
少しEvernoteで文章を書いてみることにする。 使い方がイマイチ分からない。 ツリー構造にはできなくて、タグを付けるだけかな。
訂正の方法も分かった。 日記もこれで書けば良いのかも知れないがテンプレートの使い方がイマイチ分からない。

Everbnoteの目次。 よくできている。

【回顧録】 はじめに

【回顧録】 幼少期の記憶
【回顧録】 山の墓地の話
【回顧録】 山の墓地
【回顧録】 酒屋の清兵衛
【回顧録】 清兵衛 その2
【回顧録】 清兵衛 その3

【回顧録】 祖父安平
【回顧録】 祖父安平 【追記】

【回顧録】 祖母 タカ
【回顧録】 祖母タカ その2
【回顧録】 祖母タカその3
【回顧録】 ニワトリと犬と蚊取り
【回顧録】 門屋の建屋
【回顧録】 万願寺墓地
【回顧録】 屋敷の裏側、屋敷の境界
【回顧録】 読書
【回顧録】 お風呂
【回顧録】 井戸館

【回顧録】 幼稚園と松尾家、ニコラス
【回顧録】 小学校の先生たち
【回顧録】 越境入学の小学校、中学・高校
【回顧録】 越境入学の小学校、中学・高校 【修正】
【回顧録】 小学校時代 その2 電気科学館
【回顧録】 子供のころの初めての本
【回顧録】 答志島などの思い出

【回顧録】 子供のころの旅行
【回顧録】 初めて一人で行った伊豆旅行 とミリ波の話
【回顧録】 中学時代の思い出の追記
【回顧録】 天文少年
【回顧録】 四條畷
【回顧録】 近鉄八尾駅と周辺
【回顧録】 大和実業、ニコラス、葬儀、ロータリークラブ

【回顧録】 趣味の音楽
【回顧録】 ハミーハンターのアルバイト
【回顧録】 スキーについて
【回顧録】 スキーの話
【回顧録】 鉄砲を作った話
【回顧録】 アマチュア無線等の資格
【回顧録】 アマチュア無線 と解体屋

【回顧録】 アポロ11号
【回顧録】 学生運動
【回顧録】 耳鼻咽喉科
【回顧録】 高校・大学時代のクラブ

【回顧録】 大阪府立大学
【回顧録】 大阪府立大学 その2
【回顧録】 大阪府立大学 その3 大学院
【回顧録】 大阪府立大学 その4 大学院
【回顧録】 大学時代の通学とスバルサンバー

【回顧録】 北海道旅行
【回顧録】 60日間東日本一周 その1
【回顧録】 60日間東日本一周 その2
【回顧録】 60日間東日本一周 その3
【回顧録】 60日間東日本一周 その3 【追記】
【回顧録】 60日間東日本一周 その4
【回顧録】 60日間東日本一周 その4
【回顧録】 60日間東日本一周 その5

【回顧録】 病気とけが
【回顧録】 病気とけが
【回顧録】 病気とけが その2
【回顧録】 ケガ 追記
【回顧録】 自動車 その1
【回顧録】 自動車 その2
【回顧録】 自動車 その3

【回顧録】 結婚式と新婚旅行
【回顧録】 立石電時代の余暇とスキー
【回顧録】 立石電機入社 その1
【回顧録】 立石電機入社 その2
【回顧録】 三島事業所
【回顧録】 三島事業所 その2、残業手当

【回顧録】 立石電機入社からCATまで
【回顧録】 立石電機入社からCAT直前まで (再修正、改行をいれる)
【回顧録】 立石電機入社からCAT直前まで 途中からは別校 完了
【回顧録】 立石電機入社からCATまで 修正その3
【回顧録】 立石電機入社からCATまで(修正版)
【回顧録】 立石電機入社からCATまで 修正その4

【回顧録】 シカゴ シャンバーグ
【回顧録】 CAT以降 修正1
【回顧録】 CAT以降 修正2 完了
【回顧録】 CAT追記 ボブガウディオとベンポメランツ
【回顧録】 CATの金型とその後の金型
【回顧録】 CAT追加、OEIとハイアット
【回顧録】 CAT追記 その2 CATの仕様 と評価
【回顧録】 CAT追記
【回顧録】 備忘 今まで抜けていたところ
【回顧録】 CAT以降 スーパーメイト

【回顧録】 ヒューマンアセスメント HA と ガバナンス、テレワーク、決裁権限
【回顧録】 まるト、組合統一、出世の話、義雄さん
【回顧録】 応接室のサウンドとかオーディオについて

【回顧録】 OMRAC-16とトータリゼータ
【回顧録】 電力線通信とスーミンチェン
【回顧録】 モトローラとインテル、日立
【回顧録】 中国旅行
【回顧録】 天安門事件と初めての中国訪問

【回顧録】 懸賞論文とその後、決裁権限
【回顧録】 ゼロックスALTO
【回顧録】 スパーメイト
【回顧録】 スーパーメイトとシグマワークステーション、ソニーNEWS
【回顧録】 オムロンの CRT ターミナル、ORD、IBM-PC、マイクロソフト

【回顧録】 Wnn開発 と顛末
【回顧録】 G90とCエリア、インターネット
【回顧録】 GridのPCを作る話
【回顧録】 ハノ ーバーメッセ とドイツ旅行
【回顧録】 オランダとベルギーに行った 話
【回顧録】 OASの設立と駐在員、その後
【回顧録】 ボブ・ジェームス

【回顧録】 Apple クローン、ジョブズ、ビルジョイ、ゴスリン
【回顧録】 ユニフォーラム、COMDEX
【回顧録】 サンフランシスコの大地震
【回顧録】 OSの採用
【回顧録】 ルナの命名
【回顧録】 イスラエルに行った話
【回顧録】 I have a dream とTakさん
【回顧録】 デュアル OS

【回顧録】 シリコンバレーだより復刻版 目次
【回顧録】 シリコンバレーだより(1)
【回顧録】 シリコンバレーだより(2)
【回顧録】 シリコンバレーだより(3)
【回顧録】 シリコンバレーだより(4)
【回顧録】 シリコンパレーだより(5)
???
【回顧録】 シリコンパレーだより(7)
【回顧録】 シリコンバレーだより(8)
【回顧録】 シリコンバレーだより(9)
【回顧録】 シリコンパレーだより(10)
【回顧録】 シリコンバレーだより(11)

【回顧録】 台湾旅行
【回顧録】 シンガポール旅行

【回顧録】 リフレッシュ休暇前後とインターネット黎明
【回顧録】 リフレッシュ休暇前後とインターネット黎明
【回顧録】 リフレッシュ休暇 1
【回顧録】 リフレッシュ休暇 2
【回顧録 リフレッシュ休暇 3 中国編
【回顧録】 スペインで地球の歩き方を見て行ったフラメンコの店
【回顧録】 スペインの話の続き、マンションスッカラカン

【回顧録】 データゼネラルとモトローラ
【回顧録】 ゼブラプロジェクト
【回顧録】 アーレンブラッドリー/ロックウエル
【回顧録】 リアルタイム OS とマイクロソフト

【回顧録】 ショーグラフィックスの話
【回顧録】 911と中東政策
【回顧録】 アメリカの自動車免許試験 【追記】
【回顧録】 ルナ開発 と収束

【回顧録】 熊本の足立さんとポートランド
【回顧録】 ワキタのカラオケマシン

【回顧録】 母親の入院と死去、葬儀
【回顧録】 父親の死去と葬儀と墓地
【回顧録】 大和実業とディージェシー

【回顧録】 IT研究所の終焉とオージス総研と自前ビジネス
【回顧録】 IT研究所の顛末

【回顧録】 アメリカでの活動の総括
【回顧録】 アメリカでの活動の総括【修正】

【回顧録】 サイバード とその顛末
【回顧録】 M2Mまでの流浪期間、ザクソン、イモタニ、ソリデック
【回顧録】 おもろ祭りとAI、M2M新規事業の話
【回顧録】 M2Mプロジェクト
【回顧録】 金沢の堂下君 【訂正追加】
【回顧録】 金沢の堂下君
【回顧録】 残量検知 廣田石油、キャノン、醤油、三谷など

【回顧録】 イーサネット
【回顧録】 PaloAlto研究所 回顧録
【回顧録】 ハーフムーンベイのレストランの話
【回顧録】 Bluetooth と綺麗なスチュワーデス の話
【回顧録】 アメリカの出張予約とレンタカー
【回顧録】 サンフランシスコの観光ルートと射撃ツアー
【回顧録】 飛行機のFクラス
【回顧録】 ファーストクラスと食事
【回顧録】 アメリカ活動を支えた人々
【回顧録】 Rocki Ozaki
【回顧録】 飛行機の話とアメリカの訪問先

【回顧録】 京都試作センター
【回顧録】 試作センター 会社の仕組み
【回顧録】 試作センターの立ち上げ その1
【回顧録】 試作センターの立ち上げ その2
【回顧録】 試作センターの立ち上げ その3 募集設立と出資
【回顧録】 試作センターの設立 その4 会社スタート
【回顧録】 試作センターの設立 その5 リタイヤ
【回顧録】 試作受発注システム
【回顧録】 京都産大 大西君、先端大 永守氏
【回顧録】 試作センターの退社と鳥羽マンション
【回顧録】 増田文化建て替えと増田マンションリノベーション

【回顧録】 農業のスタート
【回顧録】 農作業
【回顧録】 畑
【回顧録】 畑 その2
【回顧録】 井戸掘り
【回顧録】 井戸掃除
【回顧録】 屋敷の水道工事と電気工事

【回顧録】 八幡神社奉賛会と夏祭
【回顧録】 奉賛会と境内地
【回顧録】 ラン栽培
【回顧録】 大阪愛蘭会
【回顧録】 円光寺
【回顧録】 用木家
【回顧録】 立石義雄さんを偲んで

【回顧録】 中百舌鳥電気クラブ45号誌 畑先生追悼記事
【回顧録】 セカンドシステムと製品開発の極意
【回顧録】 プログラミングと数学
【回顧録】 クラウド アジャイルなどの開発手法について
【回顧録】 物作りについての考察
【相続メモ】 土地の利活用方法
【相続メモ】 不動産の法人所有と個人所有 【追記】
【相続メモ】 不動産の法人所有と個人所有
【回顧録】 アメリカの自動車免許試験
【回顧録】 人物の観察
【回顧録】 回顧録再開
【回顧録】 北の前栽と排水
【回顧録】 お稲荷さん
【回顧録】 松の木
【回顧録】 ものつくり

【回顧録】 里やう物語
【回顧録】 里やう物語 「内容更新」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その2」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その3」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その4」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その5」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その6」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その7 中途」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その8」 2021年03月08日(月曜日)14時32分36秒
【回顧録】 里やう物語 追加
【回顧録】 相続 資産運用上の注意点
【回顧録】 経歴
【回顧録】 回顧録追記メモ
【回顧録】 10年目のご挨拶

【回顧録】 備忘 20210425
【回顧録】 備忘 20210425
【回顧録】 備忘 20210425
2025年4月13日 10:45:00 作成

2024.08.082025.03.19

【回顧録】 備忘 20210425
2021年4月25日 9:49:20 作成

中学生のころに言った初めての伊豆旅行
無線を持って行った?
台湾旅行
シンガポール 出張と家族
中国旅行、
会社に入った頃に ワンチップ CPU の論文を見つけて会社のゴミ箱をあさって ゲートとカウンターと小さなメモリーで CPU を作ろうとしたことを思い出す メモリーは除くか CPU 本体を作ろうとしたことを思い出す
スバルサンバー改造のバギーを作った
最初のトランジスタ2 SA 110
3勝1敗の話を書く 人生全体
ワシントンの黒人タクシー運転手
george hara の話
主税、主計、税務調査の話
回顧録
【回顧録】 経歴
【回顧録】 経歴
2025年4月13日 10:42:47 作成

【回顧録】 経歴
2024年2月1日 9:55:14 作成

ウキペディアを大幅に修正したら、クレームが付いたので、バックアップとして

収録しておく。

増田 清(ますだ きよし、1947年 ? )は大阪府出身の実業家。

生い立ち

八尾市中河内郡高安村で1947年に生まれる。貴族議員であった久保田真吾の隣家に当り、交流があった。4代前の増田清兵衛が江戸後期に造り酒屋を開業し免許は140石であった[1]。当時の中河内地区で4箇所あった造り酒屋のうちの一つであったが、明治政府の酒増税により廃業してしまった。名前の「清」は清兵衛に由来するとのことである。

地元の小学校より、高津中学校、高津高等学校へと進学。 1972年に大阪府立大学電子工学科修士課程を修了した後、オムロン株式会社(当時の立石電機株式会社)に入社し、主にシステム関連の開発に従事する。

主要プロジェクト

CAT開発 1981年ごろに 信用照会端末(CAT クレジットオーソライゼーションターミナル、クレジットカード認証端末)アメリカ仕様「CAT100」を概念や伝票フォーマットから開発。 超短期(外観は製品と同じプロト開発3ヶ月)で、その後米国SOM80%を達成。当時のオムロン米国販売会社はオリジナルブランドの製品を持っていなかったが、CAT100が初のオリジナルブランド品となる。 社員の士気も上がり、積年の赤字を一掃するまでになった。 超短期の開発過程は社内外のモデルとなり、大学の研究対象にもなり、インタビューを受けた。

Wnn(うんぬ) ワークステーション開発に際して、多言語対応が必要となり、日本語入力システムのWnn(ウンヌ)カナ漢字変換ソフトの開発管理担当となった。 当初はフリーソフト(PDSと言った)だったが、途中からWnn6として商用化を行い、USサンマイクロ、シリコングラフィクス等にライセンス。その後、携帯電話にも搭載され、Unix系WSのデファクトスタンダートとなる。MITがプロジェクトを推進した Xウインドウシステムのデストリビューションテープにも収録される。 Wnn4まではフリーソフトだったが、その後用意したWnn5はリリースされず幻となり、大幅に改良したWnn6が商用バージョンとなる。

Unixとカーネギーメロン大学 Unixワークステーション(Lunaシリーズ)の開発に際して、通産省の推進するUnix SystemVと技術者の間で評価の高かったバークレー版Unixの両方を開発することになり、さらに両方のUnixが動作する「デュアルUnix」もシリコンバレーのベンチャーから導入した。 さらにマルチCPUワークステーションの核となるMachOSを、開発していたカーネギーメロン大学より導入した。 カーネギーメロン大学には同ワークステーション40台を寄贈。 この過程で、TV向けのコマーシャルフィルムを撮影。

MachOSのプロジェクトトップである Richard Rashid氏をはじめ、当時のコンピュータサイエンス界の主要メンバーが出演していて話題となった。 さらに寄贈したワークステーションで作成したCGがNHK番組のアインシュタインロマンに採用される。 この時にデジタルガレージの伊藤 穰一氏が間接的に関わっていたことが、後に偶然面談した時に判明する。

Omron Advanced Systems, Inc オムロンは70年代に大規模な現地開発を行い、他社の半額の低価格電卓 OMRON800[2] の開発のベースとなったこともあり、社内のアセットとなっていた。 しかし当時は活動も低下し、逆に新たな活動の妨げになっていたので、新規の法人を設立した。事務所の選定から事務用品やデスクの購買まで自分自身で行う。 その後のオムロンのシリコンバレーにおける基礎となった。

在宅勤務 技術本部IT研究所長時代に、本社、研究所、工場など国内30の事業所におけるイントラネットの構築で主導的な役割を果たし、従来のLocal Area Network (LAN)ではできなかった経営管理や組織間での情報共有化などを可能にしたが、これは京都の企業に於ける「産業情報化」の先駆けと位置づけられる。同時にイントラネットでは管理職の在宅勤務(書類決済など)の実験も行い、当時はサービスが始まったばかりのISDNを各管理職の自宅に接続した。

M2Mセンサネット 2000年ごろから、事業開発本部において「M2M センサネット」ビジネスを立ち上げる。 安価な端末とローコスト通信、クラウドによるサービスで、現在のIoTにの先駆けとなる。 安価なハードウエア端末とクラウドによるサービスの統合で新しいビジネスモデルを確立。 タンクやサイロの残量監視システム、灯油残量監視システム、ミリ波利用の液面計、キュービクル電力監視システム、ピーク電力警報システムなど 多数のビジネスを展開[3]した。 契約者数の増大を目指すDocomoとの連携も盛んに行った。

京都試作センター株式会社設立[4] 2006年に京都を代表する企業の出資により京都試作センターを設立。ファブレスの試作サービスビジネスとして新しいビジネスモデルとして構築。 設立2年目で単年度黒字を達成。 当時の設立出資会社は以下の通り。

オムロン株式会社、京セラ株式会社、株式会社京都銀行、京銀リース・キャピタル株式会社、株式会社島津製作所、株式会社村田製作所、京都信用金庫、京都中央信用金庫、大日本スクリーン製造株式会社、村田機械株式会社、大阪ガス株式会社、京都北都信用金庫、関西電力株式会社、株式会社 ジーエス・ユアサ コーポレーション、ダイキン工業株式会社、西日本電信電話株式会社、日新電機株式会社、ニチコン株式会社、日本電産株式会社、株式会社堀場製作所、ローム株式会社、株式会社イシダ、サンコール株式会社、株式会社日進製作所、株式会社最上インクス、サムコ株式会社

会社法の改正の時期と重なったが、各社取締役会のスケジュールを調整し、連休を挟んでの設立手続きとなった。 出資総額は、2億1,600万円となった。

業績と役職

1972- ロックウエル製PPS4マイコンを使った機器の開発。ソフトチームのリーダー。業界初4ビット工業用マイコン開発、 業界初プログラム式PROMライタ開発し、書き込み時間を桁違いに短くして、ビジネス的にも、ソフト開発の効率化にも貢献した。

大阪市内交通管制システムの現場管理に従事、 JTの東北工場の現場管理に従事。

成田空港パイプライン[5]漏洩検知システムのシステム設計と開発

POSシステムの開発、 オムロン金融システム工場工務管理システム開発、8ビットマイコンシステムのハードやOSを含む開発、16ビットミニコンシステムの開発。

この間に米国ではマイクロソフトがMS-DOSを開発したことを知り、米国の情報の重要さを認識して、後の現地法人の設立につながっていく。

1981- 信用照会端末(CAT クレジットオーソライゼーションターミナル、クレジットカード認証端末)開発から量産まで担当。 その後 日本向け仕様を開発。 アメリカと日本の製品仕様に対する考え方の違いから多くを学ぶ。

1983- 当時最高速のUnixワークステーションである Super Mate シリーズの主にハード開発を担当。 その後、当時の通産省シグマプロジェクト参画により、シグマワークステーションのハード開発に従事。 この中で、開発の大きな力となった京都大学学生らによる校外グループ KABA(Kyoto Artificial Brain Association) の活動支援を行う。

1986? Unixワークステーション(Lunaシリーズ)の開発責任者となり基本設計を行う。 100人規模。 課長職のち主席技師兼務。

1989- Luna-2ワークステーション開発。 この開発を通じてサンマイクロシステムズ、MIT、カーネギーメロン大、モトローラ、 データジェネラルなどとの関係がさらに深まる。

4マルチプロセッサWSで世界最高速度性能のLuna/88K ワークステーション を発表。

Omron Advanced Systems, Inc をシリコンバレーに設立。 副社長のち社長に就任。

中国上海、シンガポールへの開発会社設立支援。

米国データジェネラル社の日本子会社日本データゼネラル社の買収参画。非常勤取締役。

ワークステーションの国内販売会社を設立。 ルナ販売株式会社 非常勤役員。

88オープン、OSF、UIに参画。 88オープンのボードメンバー。

グラフィクス関連の技術強化のため ShoGraphics社に出資。ボードメンバー。

1992- 技術本部システム総合研究所 所長就任。 130人規模。勤務地は京都研究所および町田研究所。 コンポを担当する中央研究所と2分するコーポレートレベルのシステム分野の研究所となる。 主な研究開発テーマは以下の通り。

感性情報処理、音声認識、Wnn漢字入力システム、アジア言語処理、インターネット検索エンジン、 言語識別。

リアルタイムJava、PC-ATM、オープンPLC、スマートセンサ、FAミドルウエア。

ミリ波、スプレッドスペクトラム無線、キーレスエントリ、ITS用通信。

ソフト生産性向上、CMM、オブジェクト指向。

1996‐ 技術本部IT研究所 所長就任。 京都高度情報化推進協議会・委員。

1997- 中国上海に設立した上海計算機有限公司-非常勤董事就任。

1998- 技術本部戦略技術提携担当となる、 米国制御機器最大手のR社との戦略提携事前交渉、無線技術スタートアップの カナダP社への投資および提携。 シリコンバレーにおける新しいスタイルの研究所設立計画立案。アメリカ(主にシリコンバレー、ボストン)、ベルギー、ドイツ、イスラエル、中国、シンガポールなどを拠点とする。

2000- 事業開発本部にてM2M センサネットを立ち上げ、2001年に sVMI(センサー オリエンテッド ベンダーマネジメント インベントリー) 事業グループ長に就任。

2004- 財団法人京都産業21 理事就任。 京都試作センターの設立準備を開始。 2005年に京都試作産業シンポジウム開催。300名以上の参加で、センター設立の機運が高まる。

2006‐ 京都を代表する企業の出資により京都試作センターを設立。 代表取締役副社長就任。 2008年 代表取締役社長。

2010年9月9日 京都試作センター株式会社 株主総会にて取締役退任。 その後はITコンサルタント業や農業に従事、同時に不動産業も営み現在に至る。 村社である八幡神社奉賛会会長も務める。

回顧録
【回顧録】 時系列
【回顧録】 時系列
2025年4月13日 10:41:55 作成
時系列
2025.03.19
増田 鼎 父 1921/08/05 死去 1998/11/26
増田 寿子 母 1923/01/14 死去 1996/05/05
増田 治子 配偶者 1951/01/19 誕生
増田 康之 長男 1980/08/08 生誕
増田 照子 妹 1950/01/06 生誕
阿部 満智子 義母 1928/11/09 生誕

高津高校   普通科 高校 1965年 卒業
大阪府立大学 工 電子工 大学 1970年 卒業
1970 大阪府立大学 電子工学科 卒
大阪府立大学 工 電子工 院修士 1972年 卒業
1972 大阪府立大学 電子工学科 大学院 修士課程 卒

オムロン株式会社(当時は立石電機株式会社)入社
1972- マイコンを使った機器の開発。ソフトチームのリーダー
19741130 結婚
1981- クレジットカード認証端末の開発。開発全体の責任者。
1981- クレジットカード認証端末の開発。開発全体の責任者。
1983- Unixワークステーション(Lunaシリーズ)の開発責任者。 100人規模、

2 Super Mate シリーズの開発(当時最高速のUnixワークステーション)

シグマワークステーション開発/通産省のシグマプロジェクト参画

Lunaワークステーション開発 Luna/88K ワークステーション (世界初のマルチCPUのワークステーション)

1983- Unixワークステーション(Lunaシリーズ)の開発責任者。100人規模、20億円予算/年。
1986 主幹(課長職)
1988 オムロン株式会社の主席技師
1989- 会社設立および買収などを手がける(開発責任者と同時に)。

Omron Advanced Systems, Inc をシリコンバレーに設立。 オムロンのエリア統括会社OMCAに先んじを自分で行う。 副社長のち社長。

中国上海、シンガポールへの開発会社設立支援。非常勤役員。

米国データジェネラル社の日本子会社の買収参画。非常勤取締役。

ルナ販売(株)非常勤役員。 88オープン、OSF、UIに参画。 88オープンのボードメンバ。 ShoGraphics社投資。ボードメンバ
1991-04-17 LUNA-2発表会
1991-11-05 13:00-15:00 Steave Jobbs Meeting

1992 参与(部長職)

1992- IT研究所(元システム総合研究所)所長
<1993/09/16> (木) 1993-09-16 0:00- 9:10 ●T81/E9 Geneve ? Barcelona(Fra) PABLO CASALS
1993-09-16 18:00 ●Barcelona Hotel
1993-09-23 0:00-15:30 ◎SFO ? OSA UA809
1996年5月5日 母親死去
1998- 戦略技術提携担当となる
1998- 戦略技術提携担当となる “
R社との戦略提携事前交渉 “
P社への投資および提携 ” シリコンバレーにおける新しいスタイルの研究所設立計画立案 ” アメリカ(主にシリコンバレー、ボストン)、ベルギー、ドイツ、イスラエル、中国、シンガポールなどを拠点とする。
1998年11月30日 父親死去 <1998/11/26> (木) 病院と銀行と臨終

2000- 事業開発本部にてM2M センサネットを手がける 事業グループを立ち上げ、新しいビジネスモデルを確立。 収益性確保。
2001年10月  事業開発本部ビジネスインキュベーションセンタ事業グループ長
2003 から 2004 に農業を始める

2004年4月 財団法人京都産業21 理事就任
2004年4月 財団法人京都産業21 理事 (現職)
2005年6月10日 京都試作産業シンポジウム開催
平成17(2005)年 10月20日 京都試作産業推進会議設立総会開催
平成18(2006)年7月19日 午前10時 京都試作センター(株) 創立総会 代表取締役副社長
2006年9月 京都試作センター株式会社 代表取締役副社長
2007年9月6日 京都試作センター株式会社 株主総会
2008年9月2日 京都試作センター株式会社 株主総会にて代表取締役社長
2008年9月 京都試作センター株式会社 代表取締役社長
2009年9月 京都試作センター株式会社 取締役 (現職)
2010年ごろ温室を作る
2010年3月11日 京都産業21理事退任
2010年9月9日 京都試作センター株式会社 株主総会にて非常勤取締役退任 鳥羽マンション購入

2010年 洋らん展
2012年 畑のつづき加入 このころから本格的に畑を始める
作業ハウスを作る
たんぽぽが建設
2011 康之結婚
20121109 Misao Ishitaniさんがあなたのアルバム「咲くやこのはな館の洋ラン展」
満智子死去
2013年3月 EHS山本建設
2014年12月 レクサス売却 Bmw購入
20141224 光莉 誕生
20170423 畑整理、大阪愛蘭会、西岡さん訪問
20180105 悠生誕生
20180826 大阪愛蘭会、お宮で太鼓解体、台所日除け
題名 2018年の5日になってやっと回顧録を書き始める。 以前に選択したアウトラインプロセッサが行方不明で、よく考えたら、Evernoteで代用できることがわかった。
2018年の5日になってやっと回顧録を書き始める。 以前に選択したアウトラインプロセッサが行方不明で、よく考えたら、Evernoteで代用できることがわかった。 いずれにしてもEvernoteで共有しないといけないので、同じ事になる。
今日はやっと男の子の孫が出来るので、昼から見に行く。 これで大きな出来事は終わった。 生命保険も6年目に入ったので、あと5年。 なんのかんの言っている内に5年が過ぎた。 治子の病状は安定しているし、しばらくは大丈夫。
少しEvernoteで文章を書いてみることにする。 使い方がイマイチ分からない。 ツリー構造にはできなくて、タグを付けるだけかな。
訂正の方法も分かった。 日記もこれで書けば良いのかも知れないがテンプレートの使い方がイマイチ分からない。

【回顧録】 はじめに

【回顧録】 幼少期の記憶
【回顧録】 山の墓地の話
【回顧録】 山の墓地
【回顧録】 酒屋の清兵衛
【回顧録】 清兵衛 その2
【回顧録】 清兵衛 その3

【回顧録】 祖父安平
【回顧録】 祖父安平 【追記】

【回顧録】 祖母 タカ
【回顧録】 祖母タカ その2
【回顧録】 祖母タカその3
【回顧録】 ニワトリと犬と蚊取り
【回顧録】 門屋の建屋
【回顧録】 万願寺墓地
【回顧録】 屋敷の裏側、屋敷の境界
【回顧録】 読書
【回顧録】 お風呂
【回顧録】 井戸館

【回顧録】 幼稚園と松尾家、ニコラス
【回顧録】 小学校の先生たち
【回顧録】 越境入学の小学校、中学・高校
【回顧録】 越境入学の小学校、中学・高校 【修正】
【回顧録】 小学校時代 その2 電気科学館
【回顧録】 子供のころの初めての本
【回顧録】 答志島などの思い出

【回顧録】 子供のころの旅行
【回顧録】 初めて一人で行った伊豆旅行 とミリ波の話
【回顧録】 中学時代の思い出の追記
【回顧録】 天文少年
【回顧録】 四條畷
【回顧録】 近鉄八尾駅と周辺
【回顧録】 大和実業、ニコラス、葬儀、ロータリークラブ

【回顧録】 趣味の音楽
【回顧録】 ハミーハンターのアルバイト
【回顧録】 スキーについて
【回顧録】 スキーの話
【回顧録】 鉄砲を作った話
【回顧録】 アマチュア無線等の資格
【回顧録】 アマチュア無線 と解体屋

【回顧録】 アポロ11号
【回顧録】 学生運動
【回顧録】 耳鼻咽喉科
【回顧録】 高校・大学時代のクラブ

【回顧録】 大阪府立大学
【回顧録】 大阪府立大学 その2
【回顧録】 大阪府立大学 その3 大学院
【回顧録】 大阪府立大学 その4 大学院
【回顧録】 大学時代の通学とスバルサンバー

【回顧録】 北海道旅行
【回顧録】 60日間東日本一周 その1
【回顧録】 60日間東日本一周 その2
【回顧録】 60日間東日本一周 その3
【回顧録】 60日間東日本一周 その3 【追記】
【回顧録】 60日間東日本一周 その4
【回顧録】 60日間東日本一周 その4
【回顧録】 60日間東日本一周 その5

【回顧録】 病気とけが
【回顧録】 病気とけが
【回顧録】 病気とけが その2
【回顧録】 ケガ 追記
【回顧録】 自動車 その1
【回顧録】 自動車 その2
【回顧録】 自動車 その3

【回顧録】 結婚式と新婚旅行
【回顧録】 立石電時代の余暇とスキー
【回顧録】 立石電機入社 その1
【回顧録】 立石電機入社 その2
【回顧録】 三島事業所
【回顧録】 三島事業所 その2、残業手当

【回顧録】 立石電機入社からCATまで
【回顧録】 立石電機入社からCAT直前まで (再修正、改行をいれる)
【回顧録】 立石電機入社からCAT直前まで 途中からは別校 完了
【回顧録】 立石電機入社からCATまで 修正その3
【回顧録】 立石電機入社からCATまで(修正版)
【回顧録】 立石電機入社からCATまで 修正その4

【回顧録】 シカゴ シャンバーグ
【回顧録】 CAT以降 修正1
【回顧録】 CAT以降 修正2 完了
【回顧録】 CAT追記 ボブガウディオとベンポメランツ
【回顧録】 CATの金型とその後の金型
【回顧録】 CAT追加、OEIとハイアット
【回顧録】 CAT追記 その2 CATの仕様 と評価
【回顧録】 CAT追記
【回顧録】 備忘 今まで抜けていたところ
【回顧録】 CAT以降 スーパーメイト

【回顧録】 ヒューマンアセスメント HA と ガバナンス、テレワーク、決裁権限
【回顧録】 まるト、組合統一、出世の話、義雄さん
【回顧録】 応接室のサウンドとかオーディオについて

【回顧録】 OMRAC-16とトータリゼータ
【回顧録】 電力線通信とスーミンチェン
【回顧録】 モトローラとインテル、日立
【回顧録】 中国旅行
【回顧録】 天安門事件と初めての中国訪問

【回顧録】 懸賞論文とその後、決裁権限
【回顧録】 ゼロックスALTO
【回顧録】 スパーメイト
【回顧録】 スーパーメイトとシグマワークステーション、ソニーNEWS
【回顧録】 オムロンの CRT ターミナル、ORD、IBM-PC、マイクロソフト

【回顧録】 Wnn開発 と顛末
【回顧録】 G90とCエリア、インターネット
【回顧録】 GridのPCを作る話
【回顧録】 ハノ ーバーメッセ とドイツ旅行
【回顧録】 オランダとベルギーに行った 話
【回顧録】 OASの設立と駐在員、その後
【回顧録】 ボブ・ジェームス

【回顧録】 Apple クローン、ジョブズ、ビルジョイ、ゴスリン
【回顧録】 ユニフォーラム、COMDEX
【回顧録】 サンフランシスコの大地震
【回顧録】 OSの採用
【回顧録】 ルナの命名
【回顧録】 イスラエルに行った話
【回顧録】 I have a dream とTakさん
【回顧録】 デュアル OS

【回顧録】 シリコンバレーだより復刻版 目次
【回顧録】 シリコンバレーだより(1)
【回顧録】 シリコンバレーだより(2)
【回顧録】 シリコンバレーだより(3)
【回顧録】 シリコンバレーだより(4)
【回顧録】 シリコンパレーだより(5)
???
【回顧録】 シリコンパレーだより(7)
【回顧録】 シリコンバレーだより(8)
【回顧録】 シリコンバレーだより(9)
【回顧録】 シリコンパレーだより(10)
【回顧録】 シリコンバレーだより(11)

【回顧録】 台湾旅行
【回顧録】 シンガポール旅行

【回顧録】 リフレッシュ休暇前後とインターネット黎明
【回顧録】 リフレッシュ休暇前後とインターネット黎明
【回顧録】 リフレッシュ休暇 1
【回顧録】 リフレッシュ休暇 2
【回顧録 リフレッシュ休暇 3 中国編
【回顧録】 スペインで地球の歩き方を見て行ったフラメンコの店
【回顧録】 スペインの話の続き、マンションスッカラカン

【回顧録】 データゼネラルとモトローラ
【回顧録】 ゼブラプロジェクト
【回顧録】 アーレンブラッドリー/ロックウエル
【回顧録】 リアルタイム OS とマイクロソフト

【回顧録】 ショーグラフィックスの話
【回顧録】 911と中東政策
【回顧録】 アメリカの自動車免許試験 【追記】
【回顧録】 ルナ開発 と収束

【回顧録】 熊本の足立さんとポートランド
【回顧録】 ワキタのカラオケマシン

【回顧録】 母親の入院と死去、葬儀
【回顧録】 父親の死去と葬儀と墓地
【回顧録】 大和実業とディージェシー

【回顧録】 IT研究所の終焉とオージス総研と自前ビジネス
【回顧録】 IT研究所の顛末

【回顧録】 アメリカでの活動の総括
【回顧録】 アメリカでの活動の総括【修正】

【回顧録】 サイバード とその顛末
【回顧録】 M2Mまでの流浪期間、ザクソン、イモタニ、ソリデック
【回顧録】 おもろ祭りとAI、M2M新規事業の話
【回顧録】 M2Mプロジェクト
【回顧録】 金沢の堂下君 【訂正追加】
【回顧録】 金沢の堂下君
【回顧録】 残量検知 廣田石油、キャノン、醤油、三谷など

【回顧録】 イーサネット
【回顧録】 PaloAlto研究所 回顧録
【回顧録】 ハーフムーンベイのレストランの話
【回顧録】 Bluetooth と綺麗なスチュワーデス の話
【回顧録】 アメリカの出張予約とレンタカー
【回顧録】 サンフランシスコの観光ルートと射撃ツアー
【回顧録】 飛行機のFクラス
【回顧録】 ファーストクラスと食事
【回顧録】 アメリカ活動を支えた人々
【回顧録】 Rocki Ozaki
【回顧録】 飛行機の話とアメリカの訪問先

【回顧録】 京都試作センター
【回顧録】 試作センター 会社の仕組み
【回顧録】 試作センターの立ち上げ その1
【回顧録】 試作センターの立ち上げ その2
【回顧録】 試作センターの立ち上げ その3 募集設立と出資
【回顧録】 試作センターの設立 その4 会社スタート
【回顧録】 試作センターの設立 その5 リタイヤ
【回顧録】 試作受発注システム
【回顧録】 京都産大 大西君、先端大 永守氏
【回顧録】 試作センターの退社と鳥羽マンション
【回顧録】 増田文化建て替えと増田マンションリノベーション

【回顧録】 農業のスタート
【回顧録】 農作業
【回顧録】 畑
【回顧録】 畑 その2
【回顧録】 井戸掘り
【回顧録】 井戸掃除
【回顧録】 屋敷の水道工事と電気工事

【回顧録】 八幡神社奉賛会と夏祭
【回顧録】 奉賛会と境内地
【回顧録】 ラン栽培
【回顧録】 大阪愛蘭会
【回顧録】 円光寺
【回顧録】 用木家
【回顧録】 立石義雄さんを偲んで

【回顧録】 中百舌鳥電気クラブ45号誌 畑先生追悼記事
【回顧録】 セカンドシステムと製品開発の極意
【回顧録】 プログラミングと数学
【回顧録】 クラウド アジャイルなどの開発手法について
【回顧録】 物作りについての考察
【相続メモ】 土地の利活用方法
【相続メモ】 不動産の法人所有と個人所有 【追記】
【相続メモ】 不動産の法人所有と個人所有
【回顧録】 アメリカの自動車免許試験
【回顧録】 人物の観察
【回顧録】 回顧録再開
【回顧録】 北の前栽と排水
【回顧録】 お稲荷さん
【回顧録】 松の木
【回顧録】 ものつくり

【回顧録】 里やう物語
【回顧録】 里やう物語 「内容更新」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その2」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その3」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その4」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その5」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その6」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その7 中途」
【回顧録】 里やう物語 「内容更新その8」 2021年03月08日(月曜日)14時32分36秒
【回顧録】 里やう物語 追加
【回顧録】 相続 資産運用上の注意点
【回顧録】 経歴
【回顧録】 回顧録追記メモ
【回顧録】 10年目のご挨拶

【回顧録】 備忘 20210425

【回顧録】 はじめに
【回顧録】 はじめに
2018年1月10日 12:29:16 作成
男の孫の誕生を機会に、やっと回顧録を本気で始めることにした。
結局いろいろ考えたが、やはり慣れているメールで作ることにした。
バックアップも出来るし、Evernoteで編集することにする。

今日は日記にも書くが、財産の集計をしてみた。
現金預金で1.4億ぐらいになった。 以前は2014年に集計した時は1億ぐらいだっ
たが、贈与を繰り返しても、車を買っても何とか維持できるようだ。
【回顧録】 オランダとベルギーに行った 話
【回顧録】 オランダとベルギーに行った 話
2024年2月22日 17:39:19 作成

オランダとベルギーに行った 話

アメリカのOASを起ち上げた時に数日遅れてOMCA ができて、その後に OMCE とか OMCP が出来たと思う。 OMCP はマイクがやっていたが、 それと似たような地位にあったのがOMCEの のオセ—ランだった。 ヨーロッパはほとんど知らなかったので一度お話をしようと思って、日本へ来た時に言ったのか忘れたが、 とりあえずオランダに行ってみた。 結構いいところで晩飯を食わしてくれて、行くまでの道も非常に綺麗だった。 オランダは フランス料理の影響があるので 非常に美味しい料理があるのではないかと思った。 次の日は当時はXX君が居たので、彼が案内してくれて 美術館にも連れてってくれて 例の夜警の絵を見せてくれたが、その時は絵に全然興味がなかったので、あんまり興味がなかったのですぐに出てきた。 博物館の費用も出してくれたので ちょっと悪いことしたなと思っている。

他にはベルギーに行ったが、これは言語変換の関係でアメリカの会社が ベルギーにも関係してるということで 行ってみたが、 割と雑然としたところで以前にもブルージュに行ったけどが、あの時も バスの料金は間違えるし 自販機のお釣り も間違えるし、タクシーも間違えるし、碌な所ではないな、と思った。 良く覚えていないが夜は 例のごとく 食べに行ってバケツにいっぱいのムール貝みたいなものを出すところ、 例のグランパレスの横のレストランで食べたことを覚えている。 ブルージュに行ったのが この時なのか リフレッシュ休暇なのか、何か判然としないが、いずれにしても ベルギーは 例のポアロのイメージであんまり まともではないという感じがしたしている。
【回顧録】 ハノ ーバーメッセ とドイツ旅行
【回顧録】 ハノ ーバーメッセ とドイツ旅行
2024年2月22日 17:26:29 作成

ハノ ーバーメッセ とドイツ旅行

いつ のころか忘れたが ハノーバーメッセと言う展示会が、 3月の末 ぐらいにドイツで盛大に行われていて、いつか行ってみたいと思っていた。 ハノーバーの会場は、そんなに大きくない町 なので 宿屋は全部満室で、 要するに 民宿に泊まった。 息子の部屋を開けてもらってそこに 2段ベッド か何かで泊ったような気がする。 それで夜になると、そこのおじさんが出てきてワインをどんどん薦めてくれて、 俺の酒が飲めんのか、という感じのノリで、英語が少し喋れるので、何とか喋れる相手が来たというので、どんどん ワインを開ける。 奥さんは またまた そんなことをやって、悪い癖が出てきたみたいなことを言っていた。

これの深酒が祟って、次の日に北極の上空を越えてアンカレジ経由で帰ってきた時には北極の上空で失神してしまった。He is very tired. という医者の言葉が耳に入って、やっと気がついた。 一緒に行った人見君は土産を大量に買い込みすぎて荷物の重量オーバーで追加料金を取られていた。 後で JAL に その話をしたら 「JAL は鬼ではございません」と言っていた。

メッセの会場は非常に広くて全部見るのは無理だし、どこを見たのか あまりよく覚えていない。 びっくりしたのは高速道路の混む方は両方通行 かもしくは 片側1車線にしてしまって 片側を反対 通行にするのを一瞬でやるの やってしまっていた。 ドイツ人も結構きちっとできるもんだと思った。

夜はカジノが許可されているので、カジノに行ってルーレットとスロットマシンをやった。 これでコインを大量に持って歩いていたら、ポロポロ落としてしまって、店のおじさんに拾ってもらったのを覚えている。 この時にデザインの小林君とか金井さんとか色々いたと思う。 オムロンでも良い時代だったということだ。

ハノーバーに着く前はアメリカをサンフランシスコから 点々と 東へ行って東海岸も 点々と毎日ミーティングして毎日 移動して、それで最後は大西洋を渡って ドイツに行ったんだと思うが、東周りにしたせいで、その時の疲れが溜まったのか 北極の上で失神してしまった。 この頃は 若かったのでかなり無理をしていたと思う。

ドイツは リフレッシュ休暇の時に ミュンヘンからずっと上がって行って ブリュージュをまで抜けてそこから フランス、イギリスと 船で渡ったと思う。 ミュンヘンからは BMW を借りて、 ずっと走っていった 途中のアウトバーンは 速度無制限 なので 目いっぱい 走ったけど、 やはり 170キロか180キロぐらいしか出せなかった。 その横をベンツの500とか600が、あっという間に追い越していくと言う そういう道だった。

最初の白鳥の城は結局 混んでて行けなかったので、 そこの シルク街道をずっと上がって行って、 途中の城 街道のところをちょっと 西へ入ったところで民宿を見つけて、そこで泊まることにした。 街道を離れると全く英語は通じないところなので、 どうなるかと思ったが、ドイツ語はよく聞いてるとなんとなく 英語に似ているので、なんとかなった。

それで夕食は近くの村のレストランに行ったがお金がなくなってきたので、テーブルに全部お金を出して、これでビールは必須で、他は適当にくれと言ったら適当に出してくれた。 それで 次の日の朝 宿賃を払う 段になってお金がないことに気がついて、当日は日曜日だったので銀行も休みでクレジットカードも使えなく使えずにどうしようかと思っていたが、 荷物をひっくり返してる と、やっとお金がギリギリ出てきたので、それでやっと 払えた。

そんなこと言ってると宿のおばさんはえらいこっちゃ、宿賃はもらえないかもしれん と思ってうろうろしていた。 朝はその家の娘と一緒に朝食を食べた。 ドイツの朝食はチーズとパンとで 冷たいものだけだが、なかなか美味しかった。 それで 次の宿泊地はずっと北に上がってケルンだったが、ホテルの場所が分からない。 とりあえず高速から電話したけど 話が通じない。 宿屋がドムドム というので ドムとはドームのことで 要するにケルンの大聖堂を目指してこいと言ってたらしい。

それで ケルンの街中に入って、当然 大聖堂は見えるが全然近づけない。 どうやって行ったらいいのかわからない。 一人なので地図を見てもらう人もいないし、間違えても U ターンもできずに離れて行くということを繰り返してやっと着いた。 本当にドームの右横の宿屋 だった。 それで レンタカーを返しに行かないといけないが、営業所の場所ががわからない。 通りの名前がやたらと長いので 地図を見てもよくわからない。 横を見ていると 前が見えないし 地図を見ないといけないので大変だったが、 なんとか行きつけたと思う。 しかし店は閉まっていて、どうやって返したのか覚えていないが、とりあえず返して、その時に持って行ったワインも割れてしまって散々な目にあったことを覚えている。

その後で行ったのは シーメンス を 尋ねて2回ほど行ったような 気がするが、ニュールンベルグの空港 降りてからタクシーで行ったが、何か 田舎の空港 みたいで、その後もすごく細い道を女の運転手のタクシーで ビューっと走って最終的にはちゃんと宿屋まで送り届けてくれたが、その時は 心細かった。 狭い 小さな空港でおまけに 狭い道路をどんどん走っていくのでどこ行くのか と 非常に心配だった。 結局 シーメンス とは あまり話が進まなかったので 社員食堂で一緒に昼食を食べて帰ってきたような気がする。

それで 時間があったのでニュールンベルグの山手の城までタクシーで行って、あとはずっと歩いて帰ってきた。 下の方に 門前町 みたいなのがあって観光地になって、裁判で有名なとこだがまあ割とこじんまりしたところで、オムロンの本社が長岡にあるようなものだと思った。
【回顧録】 セカンドシステムと製品開発の極意
【回顧録】 セカンドシステムと製品開発の極意
2024年2月22日 15:02:42 作成

セカンドシステムと製品開発の極意

成功した後のセカンド 2番目の商品なり システムは必ず失敗するというお話。これは、若いころ IBM のプログラミング作法とかいう本を読んでいた時に書いてあって、 未だにこれだけはよく覚えていて、 それで自分でもこれ を分かってるつもりでも、実際に セカンドシステムにして失敗させたことは何回もあるので余計に印象に残っている。

何かを作ってそれで ビジネスを立ち上げるというのはよくある話だが、最初のものは水準以上であれば必ず成功すると思う。 しかしそれが大成功すればするほど 2番目が難しくなる。 1番目の成功に引きずられる。 世の中を見ていても必ずそうなっていると思う。 一番最初に体験したのがCAT で 私は最初にCAT100を作ったが、 これはものすごく成功した。 不要なところ全部削ぎ落として、いわゆる いつも言ってるゼロ戦を作った。 ゼロ戦の欠点は何かというと、出来すぎていること。 あれの改造は不可能で、もう出来上がってしまっていて一つ いじると全部 いじらないといけなくなる。 一種の工芸品になっていて、だからゼロ戦改というのは存在しない。 小さな改造版は沢山出ているが。 その後に良く出来た紫電は紫電改という 改造機がちゃんと 存在している。 ある程度 改造を想定して余裕を持たないと行けないと言うけないというのがこの問題だと思います。

最初に失敗ではないけども ビジネス 全体として失敗したのはCATです。 CAT100は初めてのせいもあるし、 これ絶対成功すると思って、いらない部分を全部削ぎ取ったセロ戦を作った。 それで 当然のことながら それは大成功した。 それで問題はその次のCAT200。 それは私が担当せず同期の人間が担当したが、 出来上がったものを見て一瞬、これは 典型的なセカンドシステムだと思った。 ものすごく大きくなって 仕様は 肥大し高額になっていた。 その時に 競争相手は 何やってる方かというと、もっと小さな物を作っていた。 これで担当の竹原さん死去も手伝って完全にこれは失敗してしまった。

その次は スーパーメイトで これも最初のスーパーメイトはそれなりに そこそこ 成功したのが次は非常に重くなって要するに 営業の要求とかを全部聞いてしまう 納期も無理に短くする、結果的にはコストに跳ね返り重い仕様のものになってしまった。

それで 次のルナを作った時にLUNA2をどうするかというところで、デザインだけで2000万ぐらいかけてやろうとしがが、ごつくなりそうだったので、思い切って中止した。 それで LUNA1の表面印刷を少し変えるぐらいにして出したで、 これは延命した。 もし 本気で ルナ2を作っていたら 完全 大失敗したことだろうと思う。 いずれにしてもこのように セカンドシステムは最初が成功すると、それにどうしても引きずられる。 わかっていても引きずられる。

いろんな要求をノーとは言えないようになっていく、というのはこれの最大の問題だと思う。 いつも よく引き合いに出すのは マイクロシステムのSUN1。 これはSUN最初の期首で、軽くて非常に良く出来ていた。 我々もコピーした。 一番最初でまあ 誰でも だいたい 知っている。 ところが SUN3もみんな知っていて、SUNのビジネスの基礎になった期首だが、SUN2は存在したはずが誰も知らない。 私はちょっとも見たことがある。 この時にうまく手を抜いたのか たまたま 予算がなかったのがSUN2はあまり資源を投入しなかったので SUN3が大成功した。 3種類の成功でサンマイクロシステムは成長路線に乗って オムロンの売り上げを越えた。 父親の死んだときだと記憶している。 しかし最終的にはDEC かどっかに買収されて、最後はコンパック、それもHPに急襲されてしまってもうなくなってしまった。

よく引き合い 出すもう一つは Windows。 Windows 95 の前は Windows 3.1というのがあって、 これはDOSにユーザーインターフェースをかぶせただけのものだったが 、本当は Windows 1も2もあって、 これは本屋に行くとその解説本があったが、結局全部失敗して3で、さらにそれをちょっと手直しした 3.1 が でやっと 世の中に出た。 その後で Windows 95 は、これもだいぶ 曲がりくねっていたが 何とか成功した。 みんな3というのがついてるので、 私はいつも言うのは123と3つぐらいまでは生き延びないと成功して、ずっと事業として生き延びられなくなる。 それで 最近のやつを見てみると Android は 3どころか 4 5 6 と どんどんどんどん増やしていく。 IOSはよく知らないが、これも2桁になってると思う。

それでどうしたらこれを克服できるか考えついたのがその短期開発にして どんどん出す。だからバージョンはあまり気にしない。 連続的に下手な鉄砲数ということをやった。 これが m2m でやった方法。 これは ハードウェアをモジュール化するとどうしても高くつくので 、回路図 レベルでモジュール化してそれを組み合わせてどんどん 作る。 だいたい1年かかるところ 3ヶ月で出していくということをやって、 これがうまく行った。

面白いのは、同じモジュールで同じように作って同じような ソフトを使ってるのに、よく売れるのと全く売れないのが出てくる。 やはり これは マーケティングの市場を調査の上のスペックの問題だろうと思う。 マーケットの要求を反映するためにも短期開発は必須と思う。

こういうことも言えるのはたくさん出すと その優劣が非常によくわかるということで、これに関しても1つの回答を得たと思っている。 ただ デジタル的なものはそういう風にできるが アナログが入ってくる 例えば センサーのデータの処理 みたいのが入ってくると、これは じっくりやった方が良いというの 私の説です。 だから暑い時から寒い時 全部過ごすため 1年以上をかけて、これはやるべきだと思う。

それで最後の試作センターの時のアークハリマの件は、 これはわざとゆっくり やった。 それと サラヤさんも、 これは結果的に時間かかってしまった。 これもあまり 急がずにやった。 その他のやつは全て3ヶ月ぐらいでやってしまう。 3ヶ月というのは これはCATの一番最初がだいたい 3ヶ月ぐらいで物が出せたので、これはできるだろうと思った。 工場を巻き込めば3ヶ月で最初のものは出せると思う。 ただ もっと びっくりしたのは台湾のスマホを作ってるところで、これは工場投入から2週間で出荷というのは これは腰を抜かしてしまった。 さすがにもっと 上手いなと思った。
【回顧録】 プログラミングと数学
【回顧録】 プログラミングと数学
2024年2月22日 14:17:58 作成

プログラミングと数学

若い頃から数学は苦手だった。大学院に行くことを決めた時も 大学院の試験は数学が無いということで 行く気になったが、直前になって数学 も試験に入るということになってしまって、大慌てで勉強した。 しかし大学院の成績で全部A だったが 数学だけはB だった。 授業を聞いてても さっぱりわからなかったが、 今なって考えると、 どうも あれは量子力学の確率論を教えてもらっていたような気がするし、さらに ハミルトニアンとかいう 、おそらく 流行りだったと思う 量子力学の 行列 方程式 の話を教えてもらっていたと思うが、 当時は 全くわからずに完全に落ちこぼれていた。

特に 演習問題を延々とやらせるのは非常に嫌いだったが歳を取ってから数学は非常に面白いもんだと思うようになった。 特にコンピューターサイエンスは数学の1分野 なので そういう意味でも興味を持ったのかもしれない。 しかし 何もないところから数学の体型を立ち上げるというのは、 これは人類の偉大なる知恵だと思ったので自然科学はより上だと思っている。 しかし ノーベル賞は数学は 応用科学として対象ではないということらしい。

一度 東北大学の西沢学長の講演を聞きに行ったが、 彼はまず会うなり 「 この度の会長のご不幸は」 と言って 会長が亡くなった直後だったが 真っ先にそれを口にした。 思ったより小さい人だったし狷介な人だと言う人も居たが、感銘を受けた人の一人だった。

後の講演で自然科学が科学の最上位で、数学は 応用科学だと言い切ったので、 これにはびっくりした。 自然科学はどちらかというと自然に対して発見をするということなんだと思うけども、 数学は自力で立ち上げるという人間の知恵としては トップだという気もする。

最初に述べたように。自分を顧みると数学は得意ではない。 コンセプト そのものは好きなのだが 実際の計算は苦手。 1級無線技術士の試験を受けに行った時 A4用紙 1枚に ぎっしり 計算して間違わなかったのは、 あれは人生で最大の作業だったと思う。

コンピューターに関しても同じことで、プログラミングには向いていないみたいであまり好きではない。 IBM に藤田と二人で適性試験を受けに行ったけど 藤田は通って私は落ちた。 プログラマーとしての適性がなかったんだと思う。 自分でプログラムを書いていても全然まともなことが書けるような気がしない。 生涯で書いたプログラムは数千行ぐらいしかないんじゃないかと思うが、方やなぜか システム全体はいくらでも構想できる。

最終的にやった試作の支援システムでは非常に複雑怪奇な案件の最初から経理・決済 まで全部一気通貫でやる システムを作ったが、これは 俺ながらすごいものだと思っているが、途中で何度か「これは完結しないんではないか、 論理的に破綻するのではないか」と 何度も不安になったが、結局最後まで 何とか決着することができた。

特に今 問題なってるようなセキュリティの問題でいろんなユーザーごとにセキュリティを変えることに関しては これもいろいろやったが、 難しいのはやはり テスト。 自分でもいろいろなシステムを自宅で作ったりしてやってみたがテストが一番難しい。 他の人からなんか見えてますよと言われたことも 1?2回あります。

これでハードウェアはなんとか自分でできる自信はあるけども、これでプログラミングができれば何でもできるのにといつも思っている。
【回顧録】 ハーフムーンベイのレストランの話
【回顧録】 ハーフムーンベイのレストランの話
2024年2月22日 12:13:08 作成

ハーフムーンベイのレストランの話

サンフランシスコの 市内から少し 西海岸沿いに細い道を 下ったところに ハーフムーンベイ というところがあっ た。 アメリカに初めて行って 101を南に下った時に ハーフ ムンベイと言う行き先案内板が目について、 そこを右に曲がるとCATで 初めて行ったVASAのオフィスがあったと思うが、 それをさらに ずっと西に行くとハーフムーンに到着する。 確かに砂浜がずっと半月状態になっていて、非常に優雅な名前だと思って記憶に残っています。

それで康之と治子と最後に アメリカに行った時に、治子の友人がサンフランシスコにいるというので夕食を そこのハーフムーンベイの南の端 だと思うが 、そこに小さな飛行場があって、その横を入っていくと 岬のレストランが一軒だけあって 非常に良いところで、2‐3回行ったとは思うが、 なかなか距離があるので、すぐには行けないところです。

夕日が見えるので 夕日の頃には みんな 外に出て 夕日を眺めているというようなところで、治子と康之と友人のXX君と行った時に、治子の友人とで夕食をここで食べよう と思って予約を入れておいたのですが、 どうも 天気悪くなってきて、 念のため 電話すると 「霧がすごい 今日は来るべきではない」と言われて、さあ 困ったということで 急遽 探して サウスアリートのスピンメーカーという、今でもよく覚えてる レストランに行きました。 そこで 合計 5人で大騒ぎして夕食を食べました。 賑やかな日本人か中国人がわからんのが来たな、 と思われてたんだと思いますが、非常に良かったし 面白かった。

そこからホテルはダウンタウンのどこか安いモーテル だったと思いますが、そこへ帰って それで 友人はそこから西の方のに住んでるので、帰らないといけないのですが、 さすがにこちらは ワイン飲んで疲れてしまって、もう動く気がしなくて、しょうがないんで もう自力で帰ってもらいました。 後で聞いたらバスの待ち時間入れて1時間かかったということで、非常に悪いことしたなと思っています。 他のレストランは色々行きましたが、 ここが一番印象に残っています。
【回顧録】 クラウド アジャイルなどの開発手法について
【回顧録】 クラウド アジャイルなどの開発手法について
2024年2月22日 11:53:55 作成

回顧録 2024年2月22日

クラウド アジャイルなどの開発手法について

いつだったか覚えていないが、どこかの展示会で出会った外国人の技術者に、また会う約束をして、 青山がどこかへの事務所に行ったと思う。 向こうは スタバのコーヒーで待ってるよと言っていた 。

なぜ行ったかというと トヨタの自動車レースの結果をリアルタイムで Web 上に表示するみたいなこと言ってたので 、これは面白いと思って話を別途 聞きに行きました。 要するに その時は Web の画面というのは静的なものというのが当たり前だったのが、 それが動的になるっていうのは非常に面白かった。

それが元になって後のm2m のサイトとか色々できたことになります。 そういう リアルタイム表示が必須であったと思いました。 言語は PHP で書く、データベースは何とかと MySQLで1つは 標準的だが遅い MySQLは 標準的じゃないが、あまり知ってる人がいなくて 開発がしんどいので、 それは やめた。 しかし 後に これが 開発の標準になってしまいました。 いまではこれしか残っていない。

その時に同時に採用した開発手法は アジャイル方式で、仕様が最初から決まってるわけではないので、 作りながらどんどん決めていくというやり方をしました。 とりあえず一番最初の画面は、PPTで造ってこう言う画面を作る。 とりあえず見かけだけ作るで 中身の動くのは後から作り込んでいくというやり方をしましたが、結果は良かったと思うんですがぎプログアマは なかなか 戸惑っていて、うまくいきませんでした。

特に技術者のレベルがモロに現れるので、あまり上位 でない技術者はついて来れないようでありました。 従来通り仕様を書いて、その通りやっていくというのがやりやすい様です。 工数の見積りもやりやすい。 アジャイルは工数の見積りが出来ないので、外注管理は難しい。

しかし旧方式でやると非常に時間がかかるので、例えば銀行のシステムとか、ああいうように システム もそれでもお金をかけてお金と時間をかけても良いのでしょうが、 我々みたいなシステムにそんなことやってられないということで、アジャイルを採用しました 。

それでm2m をまず作って、バージョンアップする時に同じ機能でもう一つ作り直せば良いと思ってたんですが、 これが意外に大変で、実際には100% 復元できないということで 意外に難しいなと思いました。

その次は 試作の支援システムをやったのです。 この時も アジャイルでやったのですが 、 2つのチームがバラバラにあったっという問題もあったのですが、最終的になって作り直そうと思ったのですが、 これがなかなかその通りにならない。 それで 知能情報 という会社があってそこの名前は出てきませんが、そこの社長はに頑張ってもらって、彼は非常に有能で普通の人は1週間以上かかるところを 一晩でやってしまうということで、これの作り直しも一晩ぐらいでやってしまったんじゃないかと思います。

ただそれやった後は寝込んでしまってずっと会社に出てこなかったということがありました。 いずれにしても、 うまくやれば非常に効果があると思いますが、はまらなければ 弊害 ばかり起きるという方式です。 だから世の中に そんなに広まってるわけではないと思う。

だから マネジメントも難しいと思います。その時には意識してしなかったのですが いわゆる クラウドの初期のシステムだった。 今のクラウド 例えば AWS などが非常に複雑に高度になっていて、いろんなサービスが可能になりましたが、 当時はデータを グラフ なんかで表示するみたいなことをやっていました。 それで通常のサーバーでは第三者のサーバーではデータを送り込めないので 自前でサーバーを持つということになりますが、 今は第3者のサーバーにもデータが送り込めるようなシステムになっているようです。

それで 最初は非常に小さいサーバーで、普通のデスクトップパソコンの小さめのやつを机の下に置いて それでやっていました。 それも だんだん 拡張 すれば良いという考えでやりました。 もう一つ別にやっていた車の盗難防止のシステムは最初から 何万ユーザーということでやっていたので、途中で完全に破綻しました。 ものすごく大きな サーバーを用意したのですが 最初のうちは当然埋まるわけもなく、 それも 急速にユーザーが増えれば良かったのですが 増えないともう 経費 倒れになって、ぽしゃってしまいました。 私が手掛けたのは 結局あと10年以上は持ったと思います。 これは オムロンの新規事業では最長 不当 距離だ だと思っていますが 誰も褒めてくれません。

さらには 他稿でも触れたと思いますが、 オムロンではシステムは儲からないという定説があってこれは確かに過去はうまくいってないのですし、日本全体としてもあまりうまくいかない傾向があるのですが、これはやり方の問題であろうと思いました。 やり方=技術なんで技術屋が頑張れば良い、それを克服できるはずだと思ってやりました。

それで非常に簡素な端末と高機能なサーバーの組み合わせをで、端末は接続してスイッチを入れるだけ、後の設定は Web でやるか、もしくは電話をかけて 人でやるというやり方をしました。 当時はまだスマホがまだまだ十分な機能がなかったので、本来はスマホで設定ができたら良かったんですが、 一部 やりましたがフルではなかなかそこまで追いつかなかったと思います。 今ではもうそういうのがもう 常識になって、今の流れを先取りしていたことは間違いないのですが なかなか それがうまく繋がっていかないのがもどかしいところです。
【回顧録】 経歴
【回顧録】 経歴
2024年2月1日 9:55:14 作成

ウキペディアを大幅に修正したら、クレームが付いたので、バックアップとして
収録しておく。

増田 清(ますだ きよし、1947年 – )は大阪府出身の実業家。

生い立ち
八尾市中河内郡高安村で1947年に生まれる。貴族議員であった久保田真吾の隣家に当り、交流があった。4代前の増田清兵衛が江戸後期に造り酒屋を開業し免許は140石であった[1]。当時の中河内地区で4箇所あった造り酒屋のうちの一つであったが、明治政府の酒増税により廃業してしまった。名前の「清」は清兵衛に由来するとのことである。

地元の小学校より、高津中学校、高津高等学校へと進学。 1972年に大阪府立大学電子工学科修士課程を修了した後、オムロン株式会社(当時の立石電機株式会社)に入社し、主にシステム関連の開発に従事する。

主要プロジェクト
CAT開発 1981年ごろに 信用照会端末(CAT クレジットオーソライゼーションターミナル、クレジットカード認証端末)アメリカ仕様「CAT100」を概念や伝票フォーマットから開発。 超短期(外観は製品と同じプロト開発3ヶ月)で、その後米国SOM80%を達成。当時のオムロン米国販売会社はオリジナルブランドの製品を持っていなかったが、CAT100が初のオリジナルブランド品となる。 社員の士気も上がり、積年の赤字を一掃するまでになった。 超短期の開発過程は社内外のモデルとなり、大学の研究対象にもなり、インタビューを受けた。

Wnn(うんぬ) ワークステーション開発に際して、多言語対応が必要となり、日本語入力システムのWnn(ウンヌ)カナ漢字変換ソフトの開発管理担当となった。 当初はフリーソフト(PDSと言った)だったが、途中からWnn6として商用化を行い、USサンマイクロ、シリコングラフィクス等にライセンス。その後、携帯電話にも搭載され、Unix系WSのデファクトスタンダートとなる。MITがプロジェクトを推進した Xウインドウシステムのデストリビューションテープにも収録される。 Wnn4まではフリーソフトだったが、その後用意したWnn5はリリースされず幻となり、大幅に改良したWnn6が商用バージョンとなる。

Unixとカーネギーメロン大学 Unixワークステーション(Lunaシリーズ)の開発に際して、通産省の推進するUnix SystemVと技術者の間で評価の高かったバークレー版Unixの両方を開発することになり、さらに両方のUnixが動作する「デュアルUnix」もシリコンバレーのベンチャーから導入した。 さらにマルチCPUワークステーションの核となるMachOSを、開発していたカーネギーメロン大学より導入した。 カーネギーメロン大学には同ワークステーション40台を寄贈。 この過程で、TV向けのコマーシャルフィルムを撮影。

MachOSのプロジェクトトップである Richard Rashid氏をはじめ、当時のコンピュータサイエンス界の主要メンバーが出演していて話題となった。 さらに寄贈したワークステーションで作成したCGがNHK番組のアインシュタインロマンに採用される。 この時にデジタルガレージの伊藤 穰一氏が間接的に関わっていたことが、後に偶然面談した時に判明する。

Omron Advanced Systems, Inc オムロンは70年代に大規模な現地開発を行い、他社の半額の低価格電卓 OMRON800[2] の開発のベースとなったこともあり、社内のアセットとなっていた。 しかし当時は活動も低下し、逆に新たな活動の妨げになっていたので、新規の法人を設立した。事務所の選定から事務用品やデスクの購買まで自分自身で行う。 その後のオムロンのシリコンバレーにおける基礎となった。

在宅勤務 技術本部IT研究所長時代に、本社、研究所、工場など国内30の事業所におけるイントラネットの構築で主導的な役割を果たし、従来のLocal Area Network (LAN)ではできなかった経営管理や組織間での情報共有化などを可能にしたが、これは京都の企業に於ける「産業情報化」の先駆けと位置づけられる。同時にイントラネットでは管理職の在宅勤務(書類決済など)の実験も行い、当時はサービスが始まったばかりのISDNを各管理職の自宅に接続した。

M2Mセンサネット 2000年ごろから、事業開発本部において「M2M センサネット」ビジネスを立ち上げる。 安価な端末とローコスト通信、クラウドによるサービスで、現在のIoTにの先駆けとなる。 安価なハードウエア端末とクラウドによるサービスの統合で新しいビジネスモデルを確立。 タンクやサイロの残量監視システム、灯油残量監視システム、ミリ波利用の液面計、キュービクル電力監視システム、ピーク電力警報システムなど 多数のビジネスを展開[3]した。 契約者数の増大を目指すDocomoとの連携も盛んに行った。

京都試作センター株式会社設立[4] 2006年に京都を代表する企業の出資により京都試作センターを設立。ファブレスの試作サービスビジネスとして新しいビジネスモデルとして構築。 設立2年目で単年度黒字を達成。 当時の設立出資会社は以下の通り。

オムロン株式会社、京セラ株式会社、株式会社京都銀行、京銀リース・キャピタル株式会社、株式会社島津製作所、株式会社村田製作所、京都信用金庫、京都中央信用金庫、大日本スクリーン製造株式会社、村田機械株式会社、大阪ガス株式会社、京都北都信用金庫、関西電力株式会社、株式会社 ジーエス・ユアサ コーポレーション、ダイキン工業株式会社、西日本電信電話株式会社、日新電機株式会社、ニチコン株式会社、日本電産株式会社、株式会社堀場製作所、ローム株式会社、株式会社イシダ、サンコール株式会社、株式会社日進製作所、株式会社最上インクス、サムコ株式会社

会社法の改正の時期と重なったが、各社取締役会のスケジュールを調整し、連休を挟んでの設立手続きとなった。 出資総額は、2億1,600万円となった。

業績と役職
1972- ロックウエル製PPS4マイコンを使った機器の開発。ソフトチームのリーダー。業界初4ビット工業用マイコン開発、 業界初プログラム式PROMライタ開発し、書き込み時間を桁違いに短くして、ビジネス的にも、ソフト開発の効率化にも貢献した。

大阪市内交通管制システムの現場管理に従事、 JTの東北工場の現場管理に従事。
成田空港パイプライン[5]漏洩検知システムのシステム設計と開発
POSシステムの開発、 オムロン金融システム工場工務管理システム開発、8ビットマイコンシステムのハードやOSを含む開発、16ビットミニコンシステムの開発。
この間に米国ではマイクロソフトがMS-DOSを開発したことを知り、米国の情報の重要さを認識して、後の現地法人の設立につながっていく。

1981- 信用照会端末(CAT クレジットオーソライゼーションターミナル、クレジットカード認証端末)開発から量産まで担当。 その後 日本向け仕様を開発。 アメリカと日本の製品仕様に対する考え方の違いから多くを学ぶ。

1983- 当時最高速のUnixワークステーションである Super Mate シリーズの主にハード開発を担当。 その後、当時の通産省シグマプロジェクト参画により、シグマワークステーションのハード開発に従事。 この中で、開発の大きな力となった京都大学学生らによる校外グループ KABA(Kyoto Artificial Brain Association) の活動支援を行う。

1986? Unixワークステーション(Lunaシリーズ)の開発責任者となり基本設計を行う。 100人規模。 課長職のち主席技師兼務。

1989- Luna-2ワークステーション開発。 この開発を通じてサンマイクロシステムズ、MIT、カーネギーメロン大、モトローラ、 データジェネラルなどとの関係がさらに深まる。

4マルチプロセッサWSで世界最高速度性能のLuna/88K ワークステーション を発表。
Omron Advanced Systems, Inc をシリコンバレーに設立。 副社長のち社長に就任。
中国上海、シンガポールへの開発会社設立支援。
米国データジェネラル社の日本子会社日本データゼネラル社の買収参画。非常勤取締役。
ワークステーションの国内販売会社を設立。 ルナ販売株式会社 非常勤役員。
88オープン、OSF、UIに参画。 88オープンのボードメンバー。
グラフィクス関連の技術強化のため ShoGraphics社に出資。ボードメンバー。
1992- 技術本部システム総合研究所 所長就任。 130人規模。勤務地は京都研究所および町田研究所。 コンポを担当する中央研究所と2分するコーポレートレベルのシステム分野の研究所となる。 主な研究開発テーマは以下の通り。

感性情報処理、音声認識、Wnn漢字入力システム、アジア言語処理、インターネット検索エンジン、 言語識別。
リアルタイムJava、PC-ATM、オープンPLC、スマートセンサ、FAミドルウエア。
ミリ波、スプレッドスペクトラム無線、キーレスエントリ、ITS用通信。
ソフト生産性向上、CMM、オブジェクト指向。
1996‐ 技術本部IT研究所 所長就任。 京都高度情報化推進協議会・委員。

1997- 中国上海に設立した上海計算機有限公司-非常勤董事就任。

1998- 技術本部戦略技術提携担当となる、 米国制御機器最大手のR社との戦略提携事前交渉、無線技術スタートアップの カナダP社への投資および提携。 シリコンバレーにおける新しいスタイルの研究所設立計画立案。アメリカ(主にシリコンバレー、ボストン)、ベルギー、ドイツ、イスラエル、中国、シンガポールなどを拠点とする。

2000- 事業開発本部にてM2M センサネットを立ち上げ、2001年に sVMI(センサー オリエンテッド ベンダーマネジメント インベントリー) 事業グループ長に就任。

2004- 財団法人京都産業21 理事就任。 京都試作センターの設立準備を開始。 2005年に京都試作産業シンポジウム開催。300名以上の参加で、センター設立の機運が高まる。

2006‐ 京都を代表する企業の出資により京都試作センターを設立。 代表取締役副社長就任。 2008年 代表取締役社長。

2010年9月9日 京都試作センター株式会社 株主総会にて取締役退任。 その後はITコンサルタント業や農業に従事、同時に不動産業も営み現在に至る。 村社である八幡神社奉賛会会長も務める。
【回顧録】 PaloAlto研究所 回顧録
【回顧録】 タイトル
2023年4月30日 8:03:07 作成

今朝の日経でゼロックスのパロアルト研究所がスタンフォードに寄贈されたのとベタ記事がありました。

イーサネットもマウスも発明し、ApplePCの発想の元になったし、私のその後の仕事の方向を決めたと言っても良いところです。??寄贈となっていますが、要するに潰したと言うことでしょう。

ここで作られたAltoを雑誌で見て、後のスーパーメイトやLunaを作る切っ掛けになりました。A4を縦にフルサイズで表示するのにインパクトがありました。? ?高精細の表示、CPUパワーとプロセスの並行処理、インターネットの3点セットに、これだと思いした。

同時に同じころに数学誌に、所真理雄先生のカーネギメロン大学在任中の記事で、午前中はメールを処理して・・・と言うのがあって、仕事のスタイルが全く異なると感じたのを今でも覚えています。

同じAltoを見たJobsは近くの自宅のガレージでMacの原型を作っていたのです。??当時は全く分かりませんでした。??いずれにしても、インパクトを受けた人は多かったと思います。

現在では、Altoの機能はパソコンで完全に実現されていて、さらにはインターネット、AIと当時では想像も出来なかった事が実現しています。? ?いずれにしても一時代が終わった、過ぎ去ったと言う思いで、少し寂しい気もします。

/Chromebook
【回顧録】 大阪愛蘭会
【回顧録】 タイトル
2023年3月10日 18:04:04 作成

大阪愛蘭会

それでずっと家で自分流でやっていたが、行き詰ってしまったので、その時に農協で知り合った松村さんが蘭のプロ業者だったので、大阪愛蘭会に入れてもらった。 ちょうど咲くやこの花館で展覧会をやっていた時に、入れてもらった。 その時にいたのが坂本さんだったが、他の人は全く知らなかった。 それで次の確か12月の例会に行って一応挨拶をしたがあまりみんな覚えていないみたいだった。

例会は毎月あるが、ほとんど出ているが時々出ない時もある。 だいたい構成している人はトップクラスの人と、私みたいな中クラスと本当に初心者の人で、特に最近は若い人が非常に増えてきたので会長の子安さんは非常に喜んでいて、どんどん引きずり込もうとしている。 次の世代を考えると今から若い人を育成しとかないといけない。

びっくりしたのは神戸の山本さんで、最初会った時は全く何も知らずに、ただ菊の栽培では日本でトップトップクラスらしい。 その時はラン栽培を始めたばかりで、何も知らずにいろいろ教えたことがあるが、その後急に上達して最近では、もうトップクラスの更に上を行くようになった。 元々きっかけが亡くなった人の蘭の鉢を引き継いたことからスタートしたらしいので、その時の財産が結構あるみたいで時々すごいものを持ってくる。

あまり負担になるのも嫌だが、何もしないわけにいかないので蘭展示会の当番はやることにしたして、協会の委員と言うか手伝いも少しすることにした。 毎月の例会に出るのが結構大変なので、これぐらいが丁度良いかもしれない。 年寄りが多いので結構亡くなる人が多いが、もうほとんど無関心と言うか、ほとんど何もしていないみたいな感じがする。 残った蘭の鉢で良いものは引き取ってくれるみたいなので、いずれは引き取ってもらわないといけないと思う。

松村さんのラン園の土地が収容される事になって、その鉢をだいぶ貰った。 物凄く大きな温室で、何百万もかかるようだが、全部取り壊してしまった。 もらった鉢は元々業務用なので、ちょっとあまり評価は高くないが、珍しがられることもあるので、鉢に分けて展示会で売ってしまおうと思う。

松村さんの土地はかなり造成されてしまって、今は楽天の集配センターができてしまっている。 コーナンも新しい建屋になったし、隣にはコーナンプロが出来るらしい。以前のコーナンはこじんまりして使いやすかったけど、今度は大きくなってどこに何があるのかよくわからないし結構回るのに時間がかかるようになった。

咲くやこの花館の展示会は今月の13日に搬入だが今はそれの準備をしているあまり大したこれというのはないが少し結構数は出せると思う。 結局10鉢になってしまった。
【回顧録】 ラン栽培
【回顧録】 ラン栽培
2023年3月10日 17:48:59 作成

大阪愛蘭会とラン栽培

50歳ぐらいだったと思うが、その時に通販でサカタで通販で買った蘭の苗をベランダに置いておいたら、蕾が出てきたが、すぐに枯れてしまった。 なぜ枯れたのかよくわからなかったが、要するに温度が低かったせいだと分かったので、こらいかんと思って何とかしようと思って庭の隅に温室を作って、そこで加温して育てて、最初に蕾が出てきた時はどういう開き方をするのか非常に興味津々で毎日眺めていて、非常に感動した覚えがある。 この時の花はチップマリーだった。

この温室は木で作って、コーナンでコンパネと材木を買ってきて作った。 横の窓は色々考えたけどアクリルが通販でカットしたのを売っていたので、カットしてもらって、それで作った。 この時は結構頑張って二重の太鼓張り にしたのでフレームが木材のせいもあって保温性は非常に良かった。 90 cmX1.8 m ぐらいのパネルにして、そのパネルをはめたり外したりすることで夏と冬を切り替えた。 これは10年ぐらい持ったけども、さすがに朽ちてきたので、次はアルミの温室を注文して作ってもらった。 これも職人が来て2日か3日はかかったと思う。

ついでに北側にマスデバリア用の小さな温室を作って、ここにはエアコンを入れて温度を下げることにして、これはまあまあ小さいけどうまく動いてる。 大きな方もエアコンを入れたが、ちょっとエアコンが力不足でなので石油ファンヒーターを予備で入れて、最初の頃はエアコンは無くて、石油ファンヒーターしかなかったので、大きな90 L のタンクを置いて。そこからパイプで引き込んで使った。 これでだいたい毎月4缶で1万円ぐらいかかってたと思う。 その時は20℃°をキープしないといけないという考えが常にあったので、どんどんストーブを炊いたが、最近では十数度で良いという事が分かってきて、これでも確かにそんなに生育は悪くならないので、逆に昼間は温度上げて夜間を下げるということを、やった方が良いので、何が何でも20℃と言うわけではないらしい。

初期の頃は温室の中にさらに小さなワーディアンケースみたいなのを、これもアルミフレームとアクリルで作って、そこは外気プラスアルファにして、中の温度を下げるようにした。 冬はこれでも十分だが、夏は暑すぎるので、ウインドウエアコンを付けたが、十分には冷えなかった。 ペルチェを使った冷却もやってみたが、能力的に全くダメだった。 ものの本には水の蒸発熱でさがるような事が書かれていたが、最近は気温が上がったので、そんな事では追いつかない。 そのウィンドファンは今は畑の作業ハウスに使っている。 電気は食いそうだがなかなか丈夫にできている。

エアコンは、以前に家の配線をやってくれたXXさんを河原さんを通じて来てもらった。 その後付き合いがなくなったらしくて、来てくれなくなった。 それでまた別の電気屋を探して付けてもらった。 最初に付けたのは東芝で、これは最低温度が18℃で、世の中には2種類のエアコンがあって、最低設定温度が16℃に出来るのを探さないといけない。 結局マスデ室のエアコンはパナソニックに付け替えた。 本体の温室は冷やさないのにパナソニックになっていた。 東芝のエアコンはマンションの事務所に付けてある。

その後は畑に5坪の新しいハウスを建てて、そこで主にカトレアを作ることにしたので、元の温室はパフィオとバルボの専用になってしまった。 新しい温室には5キロ のエアコンをつけて、これでほぼ問題なく使えるようになった。内張をして、だいたい10℃ぐらいは上げることが出来る。 しかし5℃で15℃なので、氷点下になると厳しいし、霜取りで時々停まるので、灯油ヒーターと併用している。

畑のエアコンは付けるだけで良いので、ヨシデンに言って取り付けてもらった。 畑の内部の配線は全部自分でやっておいたので、後は関電とのやり取りを廃船してもらった。しかしつけて、あとは試験も何もせずにほったらかしだった。 後で関電がやってきて外部の接続をやってくれたら、その時に漏電を起こしていて、これではダメということでいろいろやってると漏電は治って、無事に受電出来た。

真冬にはちょっとエアコンだけでは苦しいし、エアコンは時々霜取りでストップするのでこれも大きな石油ファンヒーターを入れている。 これは9リッターのタンクがあるので一週間は持つ。 あまり手間はかからない。

夏の暑さ対策にはミスト噴霧をつけた。 これで大体10℃近くは下がるような感じである。 水道の圧力が強いのでミストを出すと、それで温度が下がる。 さすがに最近は外のビニールが劣化してきたのでそろそろビニールを張り替えないといけないと思うなかなか手間かかるのでどうするか考えている。
【回顧録】 奉賛会と境内地
【回顧録】 奉賛会と境内地
2023年3月10日 12:26:27 作成

奉賛会と境内地

最初、正月の新年会に川中さんが珍しく新年会と言うので、ちょこちょこ行ったら、そこの席で次の奉賛会はお前がやれと言われて、みんなにもそう言われて、しょうがなく引き受けた。 どうも嵌められた感じがする。

最初の大仕事は境内地を玉祖神社から取り返すということだった。 明治期に玉祖神社に合祀して、一応玉祖神社の管理下になっていたのだが、なぜか昭和50何年になって、神社名で登記が行われてしまった。 これで取り返すのが非常に大変になった。 そうでもなくても受け側の組織が無いので、移管しにくい。 個人名でやると相続が問題になる。

それで宗教法人にしなければいけないということになって、宗教法人の申請をするために大阪の神社庁に清水さんに連れてってもらった。 地方の管轄は枚岡神社なので、そこの権禰宜の山根さんにも日参した。 彼はヨシデンも良く知っていた。 レンタックスの中西氏も自宅が古い庄屋の家らしく、枚岡神社の氏子で、山根さんを良く知っていた。 世の中は狭い。山根さんに紹介してもらって、神社庁の資料は、毛筆で枚岡の専門家に書いてもらった。

なかなか話が進まなくて結局3年ぐらいかかって返事返ってこないので、どうなったと催促したらやっと返事が来て、認可できないということになった。 氏子の数が少ないし将来消滅するかもしれない、ということで例のオーム事件のあとは非常に厳しくなったらしい。 少しでも神社が増えるのが良いと思うと思ったが、この交渉カードは効かなかった。

南の住吉神社はオームの前だったので膨大な資料を作っているが、それでも宗教法人化されて、境内地は取り戻している。 北の見野県主神社は、宮座と言う組織で、複数人による共同所有になっていて、今となっては相続も譲渡も不可能になっている。 逆にこれで動かせないので良いと言う話もある。

宗教法人になると、お金も色々かかって大変なのは間違いない。 それで出てきた事務局長みたいな人は葦立さんというのが、その後山本で踏切待ちしてると、本人がやってきたので、あれっと思って調べるとなんと万願寺の住人だった。 どおりで内情を良く知っていた。 だから内情は全部ばれていたので、いくら文面を作っても、あまり効果が無い。

その時に住吉神社にも最初は合祀していて、その時の抹消された資料を出してくれたので主神の名前もやっとわかったが、こんな背景があるので、この資料も用意してくれていたと思う。 彼の主張は今のままにしておいて利用権だけ確立してあれば良いだろうという。 確かにこれが現実的で、結局この案になっている。

最初の頃はまったく解決策が分からなかったんので、市役所の無料の弁護士相談にも行った。 組織もいろいろ考えたが、うまく行かない。

それから契約案を持って何度も玉祖神社に日参して、その都度川中さんに報告をした。 最初の頃は川中さんも一緒になって行って、結局やはり何らかの奉納しないといけないということで、奉納金を100万円として、納得してもらった。 明治の契約書には奉納金を出すと書いてあったが、それに見合うお祀りもすることになっていたが、どちらも実行されていなかった。

それでリセットすることにして、細かく経過も書いた異例の契約書を作って、契約するのだが、こちらの奉賛会の体制も非常に不明確だったので、会則も作り直して、役員の選任基準も明確にして、その後総会を開いて皆に承認していただいた。

これでやっとこちらの代表の地位を確定させて、それで契約した、ということになる。 八幡神社奉賛会の代表は三役の定義は非常に不明確だが、三役と言う事になっていて3人連名で契約することになって、一人では契約できないことにしてある。 玉祖神社は神主一人で決められるので、妙な事になってしまっていた。

連名で契約するという形にしたので、あまり勝手にやったということにはならないようにした。 その後も会計は小川さんだが、決算書はなかなか作れないようなので、こちらが毎年決算書を作っている。 お金の動きもよくわかるので、従来中の辻という会計が別にあってそこに100万以上のお金が貯まっていた。 これはみんなの寄付金などが積み重なっていたので、この中からそこの玉祖神社への奉納金を出したが、本来の趣旨に沿っているとは思う。 残りは基金にして、奉賛会会計とは別にして、にポールを立てたがこれは恒久的な設備だということで、これは基金から出した。

一応基金化して奉賛会会計の中に載せているので問題ないと思う。 この辺があまり皆知識がないと言うか、よくわからないみたいなので、特に夏祭りの経費などがごちゃごちゃになっていたので、その辺を整理した。 また誰かが代わって、またあまりはっきりしなくなってるが、あんまりやかましくと嫌われるので、そのまま放ってあるあるけども一応分けろということは常々言っている。
【回顧録】 八幡神社奉賛会と夏祭
【回顧録】 八幡神社奉賛会と夏祭
2023年3月10日 11:56:04 作成

八幡神社奉賛会と夏祭り

八幡神社の関連というのは最初は夏祭りの太鼓台を新調する話からスタートした。万願寺南の太鼓台を新調することになって道夫さんのところが50万ほど出すことになって、もったいない、とかいう話をしていたら、中の辻でも太鼓台を新調したいという話になって、夜の寄り合いに出かけた。

前に座っていたのが小川さん、川中さん、村井さんでその時は全く知らない人ばっかりで何をどうしたら良いのかわからなかったが、こちらから聞いたのは、そもそも担き手が居るのかという話をした。 それに対して川中さんの息子とは。その時は知らなかったけど色の黒い人がいるなと思ったけど、彼がが青年団全体で担ぐから問題ないと答えたが、結局これが今現在まで尾を引いている問題であった。 その時はいろいろ説明があって一応買う前提だったが、お金の算段が全くついていないと言う事でエラク楽観的だった。 寄付金をどうするかという話になった。 こちらは日曜の晩だったので京都に行かないといけないので、荷物は持ってきていたので、先に抜けて京都に行ってしまった。ほぼ12、3年前の話だった。

それから寄付を集める段になって、私も一緒になって寄付のお願いして回ったが、結局久保田が300万出すことになったのでは、こちらは250万でよかろうと思って、後は康之名義で50万円にしようと思ったが、治子が反対したので、それは途中で終わってしまった。 そのぶんなら最初から300万円出しておけばよかったかな、という気がしている。それで太鼓台の集まりにも時々顔を出して、忘年会とかにも顔を出してだんだん名前を覚えたし、向こうも認識していなかったが、なんとなく自然に付き合えるようになったのは約10年ぐらいかかったんではないかと思う。

夏祭りは一番夏の暑い時でこれに一緒について回るのは結構大変だった。 最初の頃は稲葉英治さんが誘ってくれて、当時あった中華料理屋で一緒に昼食を食べた時に、別の稲葉さんと田中さんが居たけども、その時全く知らなかった。 話をすることもなくそのまま終わった。

10年が経って10周年記念をやることになったが、みんなグズグズしてるのでしょうがないので結果的にこちらが全部段取りをしてしまうことになった。 会長の交代もかなり強引にやったので未だにぶつぶつ言われているが、これをやっておいて良かったと思う。

その直後にコロナが流行ったので、それ以降は何もできなかった。 4月にやった10周年記念はお宮の周りを整理して太鼓が担いで回れるようにした。 これは最初言われてたけども、これは難しいなと思って返事をしなかったが、ある新年会で川中さんがボソッと何とかならんもんかね、と言うからそこまで言うんやったら何か考えてもいいかと思って、よく考えたら近畿造園にやってもらったら土木作業から、皆やってもらえるそうなので、それで一つ難点が解決した。

それとブランコが問題だったけど、これはブランコがの耐久年数が来たということで市役所が先に撤去してくれたので、これまた次の問題が解決したので、だいぶ話が進んだ。それで近畿造園の3人組に来てもらって、ユンボであちこち掘り返して整地して、一番の問題は井戸の埋め立てをした。井戸は元々池を埋め立てて残りを井戸に残したので、下が末広がりになっていて、いくら土砂を投入してもいっぱいならない。 当初の想定の倍以上入れたが埋まらない。 その時に再生石を入れたので、これが結構アルカリ性が強いと思うので、そばの桜なんかは、それでやられたのではないかと思っている。 井戸を完全に埋めてしまうともったいないので150 mm のパイプを工作して、それで打ち抜き井戸みたいなものにを作って下の方は穴をいっぱい開けてステンレスの網をかぶせて土砂が入らないようにして、一応水を吸い上げられるようにしておいた。

ここはもともと池であったらしくって池を埋めた後井戸にしたので、下が末広がりに広がっていて土砂がどんどん入るということらしい。 いずれにしても水の湧き具合はものすごく良い。 いくら水を吸い上げても枯れることは全くない。

それと次の問題であったら水道はめんどうなので自分で移設した。 それと最後の問題は中にあった街灯を移設することで、これは町会のの街灯で町会が電気代を持っていたが、これを内部のお宮の拝殿から取ることにして、電気代は LED なのでわずかなので、お宮で負担することにした。 その代わり北の塀沿いに元あった防犯灯を移して、それを町会の負担とした。 ついでにボールをもう2本立てて、それで電線の受けと内部の照明をつけることにした。 以前の話だが夏祭りの度に照明電線を引っ張り回して、大変なのでそれと南側にボールが何本か立っていたので、それと同じように北側にも立てた。 それでいちいち電線の張り回しせずに作りつけのコンセントをつけた。 これは結構大変だった。

これの最初の切っ掛けは小川さんが石灯籠にあかり入れたいという話で、そこからスタートして拝殿から電気を引っ張って石灯籠に電気をつけた。 100V では怪しいので24vを引きましてある。 そのためには太鼓蔵に電気の元栓が来ているので、そこから線を引っ張らないといけない。 これも空中配線をしてあったので、太鼓台に引っかかるので、これを地下埋設にした。 地下埋設はテントの杭を打った時にピッタリに当たって、ブレーカーが落ちてしまった。 それで防護のパイプを被せたり、電線ありの表示をした。 これも結構面倒だった。

本殿にも明かりがいるので本殿にも配線するという結構色々やらないといけないことがあった。 さらには拝殿の前面の照明が暗いのでこれに照明をつけた。 これで夜は拝殿が浮かび上がって見えるようにしたが、これは八幡宮の額のところだけの照明でも良かったのではないかと思っている。 両端の全体の照明はあまりなくてもいいかという感じだった。 そういうことをやって最後は敷地の西の方にあった電柱が水路の分だけ敷地の中に入っていて邪魔な感じがしたので、これを関電に言って塀ギリギリにまで寄せた。 これは水路に引っかかってしまうが、もう目をつぶって適当にやってしまった。 本来ここは水路用地で八尾市の持ち物で、電柱の使用料は八尾市に入るべきだが、これもお宮さんがもらってしまっている。

先日2023年の3月に水路の一番南の端の標識を入れるために立ち会いをやって、南の端の森川さんとの取り合いを決めた。 北後はあまりはっきりしないがクボタの駐車場のブロック塀が西側の起点になるので、そこから91cm だと言う話だった。 ここは明示はしていない。 ということで色々お宮には貢献したと思っている。

後は鈴を鳴らす鈴緒がボロボロになっていたので5色の5色の布でごまかしてあったのを新調した。 キトラさんに言って作ってもらって、取り付けもやってもらった。 十数万かかったけどこれは未だに健在である。

後はもし長生きして、お金が残っていれば鳥居を建てようかなと思う。 その前に西側にある久保田の駐車場がどういう処分になるのか。 これが問題でこれをお宮に寄付してもらえれば問題ないが、もしどこかに売却されてしまったら、出入口がなくなるので、その時はここの石柱を北東の隅に持って行って、ここから太鼓台は出入りすれば良いと思う。万願寺で一番広い境内を持つお宮なので、色々手を入れると良いお宮になると思う。 今でも結構綺麗になったので、お参りに来る人も増えて賽銭も増えているということだ。

お宮には非常に古い大きな吊り下げ灯篭があったので、これをちょっと掃除して綺麗にして内側に障子紙を貼り付けて照明を入れて、これを入れて綺麗に見えるようにした。 これで結構綺麗なものになって、通常は拝殿の中にしまってあって、点灯しているので夜は見える。 これを聞いた玉祖神社の清水さんは自分の所のたくさんある吊灯篭に皆障子紙を貼ってしまった。

後は拝殿のアクリル板を張り替えるとか細々したことはたくさんあった。 しかしだんだんもやることが面倒になってきたので、若いのにやって欲しいが、もうみんな還暦近く、だんだん熱意が冷めてきたので、あまり元気もなくなってきた。 しばらくはこんな調子で行くのではないかと思う。 年寄りの川中さんや村井さんは死んでしまったし、大東さんもかなり耄碌しているので引き継ぐ若手があまり見当たらないのが難点。
【回顧録】 増田文化建て替えと増田マンションリノベーション
【回顧録】 増田文化建て替えと増田マンションリノベーション
2023年3月9日 14:05:44 作成

増田文化建て替えと増田マンションリノベーション

不動産を引き継いでから増田文化を何とかしないといけないと思っていたが、だんだん入居者が減って3軒ぐらいになったので、建て替えをスタートした。 一つは倉庫に使っていたのでこれを空いていた増田マンションの1階に移ってもらった。 それともう一軒は向かいの西増田文化が一つ開いていたのでそこへ移ってもらった。 もう一人の行き場所はなかったが、これは林さんのとこで話をしていると向こうにも古い文化があって、そこに移ってもらうということで、結局引っ越し費用ぐらいだけですんで済んでしまった。

これで古い文化を取り壊し、その後砂利引きにして駐車場にして今の駐車している車はそちらにとりあえず入れてもらって、その間に駐車場の舗装をやり直すことにした。 秋ぐらいに取り壊して 年をまたいだのでその間更地評価になってしまって、固定資産税はえらく高くなってしまった。 これは同じ建物が同じ所有者なら特例があったが今度は名義が変わるので特例がなくなってしまった。

元々の文化は別項でも書いたと思うが、イーストヒルズを設立する時に現物支給で設立したのでイーストヒルズの持ち物になっていた。 それを今回は個人名義にしたのでオーナーが変わってしまったということになる。

文化はそれまでは BS も入ってなかったので BS のラインを引いていた。 だから東文化は BS ラインを引いたが結局あまり役に立たずに、そのまま撤去するはめになった。 あと大きな物置が二つあったので一つは小川さんにあげてしまった。 もう一つはバラバラにして畑に持って行ったが、使う事もないのでそのバラバラの部品をそのまま使っている。 後は大きな浄化槽を壊すのが結構大変だったが、解体は河原さんに頼んだが彼が結構指示して全部取り壊していた。

更地になった所を今度は地盤調査をして、どこが弱いかを調べて後は基礎を何本か結構たくさん打ち込んだと思うが穴を開けて、そこにコンクリートを流し込む方法で基礎を作った。

建屋の組み立ては速くて、あっという間にできたような気がするが、内装に結構時間かかったと思う。 電気が問題だが IH にするかどうか迷ったけども、一部だけ IH にして一部はガスにした。 風呂は全部ガスだがコンロだけは別にした。 それで電気配線は2系統にして、将来 IH になった時にも対応できるようにした。 しかしその後関東大震災が起きて電気があまり使われなくなった。 最近ではEVの需要が出てきたがEVは想定してなかったので、また別途配線をしないといけないかもしれない。 電気に関してはかなり余裕を持って引き込み場所もあまり不細工な引き込みは嫌だったので、目立たないような引き込みしてもらった。 この交渉だけで関電と電気工事屋さんとの間で一か月ぐらいかかってしまった。

テレビは JCOM が入っているが、ストップすることを考えて、東北の隅にポールを立ててそこにテレビのアンテナを立てて、ケーブルを引っ込めるようにはしてある。 後は3箇所ぐらいに監視カメラを付けてある。 2箇所は最初から想定したので外壁にちゃんとつけてあって電気工事屋さんは興味津々でやっていた。 駐輪場にも付いているので、ここにもケーブルを引き込んである。 今となっては無線でやっても問題ないとは思うが、やはり電源線はどうしてもいるので、配管の引き回しは必要となる。 配線を入れる時は電気屋さんで一緒になって引き込んだ。

建屋の設計は積水が CAD を使ってやるので分からないことが多い。 色々聞くが全くよくわからない。 特に高さがイマイチよく分からないので、現地に立ってをチェックをしてみた。 それであまりに低いので、もう少し上げるようにとしたが、役所に届出が出ているのでできないということで、誤差の範囲だけギリギリ上げてもらった。

それで入口の間隔の問題があって全体の建屋を少し時計回りに回した。 それで敷地の西北の端がちょっと凹んでしまったのでそれをツライチにするために言ったが、ほっとくと完全にへこんだままになってしまっていた。

それと八尾市は部屋の面積の制約が非常に厳しいので、大きいのとか小さなしか作れないのでがやはりどうしても60平米は欲しいと思ったので、一番北の部屋はちょっと付け足して60平米をギリギリクリアしてある。 ネットで募集するときは60平米表記が引っかかるようになっている。 だから一番北の端は入居率が非常に高い部屋だと思う。 静かだし良い部屋だと思う。 しかし最初の募集の時に大阪ホームに抑えられてしまって、最後はキャンセル。 こういう手を使われるとたまらん。

セキスイが最初に持ってきた事業計画は利益は出ているが、よく見るとこちらが提供した駐車場の分しか出ていない。 セキスイが担当するところに関しては収支トントンというとんでもない事業計画を持ってきたので、家賃に関してはこちらが全部引き受けて大きい部屋小さい部屋、1階2階の差を全部つけ直して、これでやっと利益が出るようになった。 ほっとくと全く利益の出ない、おまけにそれでサブリースにすると全く利益の出ない建築会社と管理会社がだけ儲かるような仕組みになってしまっていた。 他のところはみんなそうだと思う。 割と良心的なセキスイでそうだから、もっとひどいところはもっと搾り取られるんではないかと思う。

いずれにしても建屋の設計に関しては CAD でやるので CADからちょっと弄ったところに関しては、みんな問題が出た。 例えばベランダの物干しのアームをつけるところが無くて、ついてない部屋が出てきてしまった。 確かにこちらが CAD の図面時点でチェックすれば良いのだろうが、全部チェックするのは至難の技だと思う。

いずれにしてもこの CAD から部材表が全部一気に出てくるのはすごいと思った。 これを手作業でやるのには、ものすごい手間がかかると思う。 CAD に引っかからないような所に問題が出るというのはよくよく考えとかないといけないと思う。

それと本体と外構は全く別だというのはよく分かった。 いつも本体と外構は別の値段は出てくるので何でこうあんるのかよくわからないなあと思ってたのが、本体は積水の担当、外構は外注に丸投げするらしい。 その外構も極めて安い値段なので本当かなと思うが、どういう値段になってんのかわからない。 いずれにしても安くあげてくれるのありがたいので、それは良いがあまりにこちらが直接工事するのとの差があるので、これはいつか解明してみたいものだと思う。

それで建築したら八尾市がやって来ると言うので、何をしに来るのかと思ったら、要するに外構の固定資産税を取りに来たということで、本体の建屋は当然登記するので、この時に固定資産税は決まるが外構に関しては、改めてこちらが申告しないと駄目だいうことで、これを値下げする手はあるが、あまりやるとまた面倒なので、とりあえず額面通りやって持ち主であるイーストヒルズの 帳簿と一致させるようにした。 こうしておかないと後でいろいろややこしくなると思う。

増田マンションマンションは空きが多くてなんとかしないといけないと思ったが部屋がそれぞれ狭いのでなかなか難しいが、ある時リノベーション屋さんがやってきて、やらしてくれと言って帰ろうとしないので、こちらはギリギリの値段を言ったら、それでも良いと言うので4?5室一気にリノベをすることになった。 確かに手馴れていると思う。 ただ作業が少し手抜きで床が剥がれてきたりしたので、後で文句を言って直してもらったことがある。 ずっと入ってる部屋に関しては、よく分からないので剥がれてきてるかもしれない。

残りの部屋は河原さんがやったり他の業者がやったりして、バラバラな状態になっている。 一番最初にリノベした1階の103は何しろコストを下げるためにシャワーにして、ほとんど元のままそのままでやって、確か100万円以下で終わったんじゃないかと思うが、ちょっと無理があったと思う。 どっかの不動産をやめて一時的にこういう仕事をしていた人が無理にやったような感じがする。 ここも値段を下げて入れてきたが、とうとう入らなくなって来たので、最近風呂付きのものにリノベーションした。 これだけで120万円かかってしまった。 しかし3月時点で未だに入居は決まっていなくて。ちょっといやな状況になってきた。

いずれにしても、ここは場所は良いが部屋が狭いので、入居に時間かかるのと、また出入りが激しいので修繕費が高くつくので、西文化よりはこちらの方が建て替えは早いのかもしれない。 北館の方は形状がベランダを作ったりして複雑なので雨漏りが止まらない。 特に東側の部屋はの雨漏りが止まらず、原因はなかなか追求するのが難しいので、天井の中にトユをつけて雨漏りをしても部屋には漏れずに外に排出できるようにした。 ここの2室はもともと照子も入居していたのだが、家族用で使い勝手は、それなりに良いと思うので、なかなか退去して行かないので、これに出て行ってもらうには結構お金を積まないといけない。これはここがどうなるかが最終的な決断の要因になる。

後は1階のサンプールだが、ここも閉店するかと思いきや、後を継いで若い人がやっているので、なかなか辞めそうに無い。 水をよく使うので建屋が傷んでるのか心配している。 一時はシロアリが出たというのでこれは全面的に薬剤注入して対策した。

あとは入居がしづらいというので南館の方は無料 WiFi をつけてあるが、あまり利用してると思えない。 各階に一つずつ wi-fi 機器を天井通路の天井裏に仕込んである。 アクセスポイントにすると良いがちょっとセキュリティ上問題あるので、二重ルーター状態にしているが、2階がなかなかうまく動かない。 3階はだいたい動いているが、1階がもともと AP で動かしていたので、そのままにしている。 おそらく複数台を二重ルーターで使うのは難しいんではないかと思っている。 二重ルーターになるとどういうポートの設定になるのかよく分からないので難しいと思う。 最初は若い人が多いのでそうしたが、最近は年寄りが多いので、無料 wi-fi はあまり人気がない。

それと必要だと思うのは宅配ボックス。 これはイーストヒルズにも増田マンションにもつけた。 普通のボックスはえらく高いので、安いやつを買って河原さんにつけてもらった。 一つ5万円ぐらいだったと思うが、非常に簡単なやつなのだがこれが非常に役に立つし、これで十分だと思う。 ただいたずらがあって適当な数字をセットしてロックすると誰も開けられなくなるので、これを時々チェックするのが面倒と言えば面倒。 子供がいたずらで時々やってしまうことが多い。 これは合鍵があって開けて、そのまま締めれば良いが、ある操作をするとセット押したら番号が分かるので、その番号で開くことができてできる。

イーストヒルズ山本でやかましく言ったのはガス給湯器。 真ん中の部屋は廊下側に埋め込まれていて良いのだが、端の部屋はベランダにどんとつけられることになる。 せっかく綺麗なベランダなのでガス給湯器は下に降ろした。 これは普通のガス給湯器に取り付け台をつけたものだが、付けられることが分かるだけで何週間もかかってしまった。 さらには狭い部屋の方はエアコンは作り付けだが、大きな部屋はエアコンは無しであるので、2台付くことになってる。 2台つけると物干しアームがぶつかってしまう。 その時はもう一本のアームを出すことにして合計3本つけた。

なぜこういうことなったかと言うと、元の設計では物干しは上の方についていて、これは洗濯物がひらひらすることになるので、絶対やめてくれということで、ベランダの手すりにつけることになった。 これもそういうのはないと言うので、コーナンで買ってくると言ったら、多少ましなものをつけてくれた。 これ以後を見てみると積水の賃貸住宅はみんなその形式でついて最初からそうしてくれと思う。

特にイーストヒルズ山本は広い駐車場に面しているので、ここで洗濯物を干すと周りから丸見えなので是非ともやめてほしい。 西文化の方は洗濯物は干したことがあまり外から見えないので、まあいいかと思っているが、1度仲介会社からあまり良くないと言われたこともある。 ここには植木を植えてあまり外からあまり見えないようにしている。

イーストヒルズ山本の駐車場はギリギリに作ってあって車のトランクの部分が敷地に食い込むような仕組みになっている。 その部分を緑地にして八尾市の緑地の面積比をクリアするようになっているが、ここに芝生を植えることになっていて、芝を植えていたがこれを刈るのは大変なので、ある時に芝生を除草剤で枯らしてしまって、そこに人工芝を敷いた。 これで綺麗で手間もかからなくなった。 真ん中に排水枡があるがこれも埋めてしまった。 そこには印をしてあるのでいざという時にはそこの上を探して排水枡にアクセスすることになる。

監視カメラはあちこちにたくさんつけてある。 それで修理部品などを置いておいたり何か材料を置いておく部屋が欲しかったので、増田マンションの東北の1階を倉庫に改装する時に一部を切って、そこを事務所004に使うことにして、ここにコンピューターとかいろんな部材とか父親の会社の資料の最後の残りをとかを入れてある。 増田マンションを取り壊す時には個々の機能をどうするかというのは少し考えておかないといけない。いずれにしてもあれだけなので少しの場所でも何らか事務所的な要素が欲しいと思う。

西側の水路に関してはずっと懸案になっていたが、最近積水がやってきたので、ちょっとそれを焚き付けて市役所に聞かせてみたら一応 OK だそうな。 値段は固定資産税相当額の半額らしい。 それは細長い土地なので一応半額ということらしいので、実際の取引は、その前後になるのではないかと思う。 いずれにしてもあの部分がないと、まともな建屋が立たない。 既にもう1m ぐらい侵食しているので、そこは是が非でも買い取らないと物が立たない。 金額的には今買っても良いのだが固定資産税を払わないといけないし管理もしないといけないので、必要な時になって動けば良いかと思う。
【回顧録】 農業のスタート
【回顧録】 農業のスタート
2023年3月9日 12:15:00 作成

農業のスタート

農地は元々大豆を作ったりしていたと思うが、父親が桐の木を植えて一応畑の形を保ったと思う。 その後は草がぼうぼうとなって荒れ地になっていて伯父の昭さんが今の大きな伊吹の木の周りを数メーター耕して、ナスかトマトを作っていたんではないかと思う。

なんとか言う人がシルバーでやってきて一応畑の管理をしていた。 一時物を燃やして周りからクレームを付けられて辞めてしまってそのうちには亡くなってしまった。

その後草ぼうぼうになったんではないかと思う。 それで休みの日に草を刈って植わっていたいぶきを抜いた。 これ結構大変な作業だったが当時はまだ体力あったのか、なんとか全部ほとんど抜いてしまった。 上をカットして下をチェーンブロックで根を抜くという作業を延々とやっていた。 やっていて半分ぐらいまで行った時にところで少し畝を作って野菜を作り出した。

そのうちに、やっとられないと思ったので近畿造園に頼んでユンボを持ち込んで、それで根を抜いてもらって、更には溜まっていて消防署から文句をつけられていた伐採した材木も一緒に処理してもらった。 これでスッキリと使えるようになった。 それから少しずつ畝を作って野菜などを作り始めた。

元々もっと低いところにあったが、となりの林が地上げをしたので、それに合わせて埋め立てた。 埋め立てた土があまり良くなくて南の方はアスファルトのガラがたくさん埋まっていた。 おまけに北の方は砂地だが南の方は粘土質で、出てきた残滓は全て粉砕して漉き込んでいるので、まあかなり良い土地にはなってきている。 あと残りで整理したいのは東南の隅はまだ草が生えていてもう少し綺麗にしたい。 あそこに物置ハウスを写したいと思っている。

後は北東の隅も少し整理が必要と思う。 北西の隅も最初は花壇にしていたが、なかなかきれいにならないので、あそこもちょっと整地してハウスを立てれば良いと思うが、なかなか管理できそうにないのでどうしようかと思案中。

真ん中のハウスも最初は一棟だけだったが、もう一棟を付け足して連棟にした。 間のトユをどうするか非常に悩んだが、結局波板を曲げて入れることにした。 これでも雨は漏れてくるが、ないよりマシという感じ。 このハウスはだんだん慣れてきて物がよくできるようになってきた。 ここではトマト、いちご、メロン、アスパラなどを交互に作っている。 間にはつか大根とかサニーレタスも作る。

水が問題だったので井戸を掘った。 井戸の掘り方を色々調べて元々井戸のあった所に掘ったが水が十分でないので、一度タンクに貯めてそれを給水することにした。 それでも500リッターのタンクでは足りないので足りない分は水道を使うことになっている。 井戸は意外に簡単に掘れたが、5mM ぐらい掘ったけど、もう少し掘った方が良かったのかもしれない。 粘土層が出てきたので、 まあこれで言い方止めたの止めたが、それよりもう少し掘らないと水が枯れてしまう。 もともとここは水脈があまりないところみたいなので、元の井戸も水が枯れていたのであまり良くないと思う。

井戸があるのは家の井戸、財産区の井戸、それから大東さんのところ、あの辺がずっと井戸があると思う。 大東さんとこにも井戸が二つほどある。 その横の松下さんとこにも井戸があると言っていたので、あの辺は水脈がずっとあるように思う。 今の公園の向かいあたりに共同井戸があって、 そこではおばちゃんが文字通り井戸端会議をやっていた。 たんぽぽの建築の時に見たが、そこでも井戸が出てきた。 後は青果市場のとこにも井戸があるがその間のうちの畑の所にはどうも井戸ががないみたいだ。

最近は液肥を自動でやろうとして注入器を作ったがなかなかうまくいかない。 ベンチュリー式のものをにしたが当然気圧差があるので、うまく動作しない。 水圧があるので吹き出してくる。 ハウスの方は割とうまくいく。 ちょっと水を絞ったらうまくいくが、こっちのメインの方は水量が多いので、そうはいかない。 それで別途ダイヤフラム式のポンプを買って、それで注入するようにしたが、いつどういうタイミングでポンプを動かすか、なかなかうまくいかない。 今は出水に合わせてタイマーでやっているが、なかなか足並みが揃ってると思えない。 今年の夏にもう少しトライしてみることにする。 それに液肥も少し買ったが、使い方もいまいちよくわからないので、この研究もする必要がある。
【回顧録】 中百舌鳥電気クラブ45号誌 畑先生追悼記事
【回顧録】 中百舌鳥電気クラブ45号誌 畑先生追悼記事
2023年2月10日 14:28:34 作成

中百舌鳥電気クラブ45号誌 畑先生追悼記事

電子6期 増田 清

題名: 厳しくてエネルギッシュな畑先生を偲んで

畑先生の制御工学の授業は、ダントツに厳しいと言う雰囲気でした。 しかし私は他の講義は一番後ろの席でいつも居眠りしていたのですが、不思議とこの授業だけは最前席の一番先生に近いところで聴講していました。 元々私は具体的なものが好きで、理論的なものや数学的なもの、電気理論すら嫌いだったんですが、この授業だけは何故か熱心に受けました。 講義も大変にエネルギッシュで印象に良く残っています。 この時の知識というか素養がこの後の一生の技術的なバックボーンになったような気がします。

この後に講座配属に進むことになるんですが、畑先生の授業の単位を取らないと、先生の電子第5講座には当然に配属にはなりません。 しかし授業と試験が厳しいので単位をまともに取れたのが講座の定員ぐらいだったので、先生の授業の単位を持つ学生は自動的に第5講座配属となってしまったんです。 当時の第5講座は、畑先生と、柴田先生、池田先生がおられました。 柴田先生は理論派なので私とは余り接点が有りませんでしたが、いろいろな制御理論のサワリを教えていただきました。 池田先生はどちらかというと実験派だったので、日常の面倒を良く見ていただきました。 残念な事にその後若くしてお亡くなりになってしまいました。

この後に大学院に進むことになるのですが、当時は学生運動が盛んで、そのひとつのテーマが環境問題でした。 特に大気汚染が問題になっていた時期で、何かゼミみたいな席で、システムの話になり、システムには効果とコストがあって、と言う理論的な話だったんですが、当時の私は勘違いしていて、コストは無視してやるべきと議論になったこともあります。 まあ若気の至りで恥ずかしい限りです。

また、先生はいろんなプロジェクトを導入されました。 その一つで機器メーカーの依頼により通信機器の試作をした事があります。 大学院に同じ講座で3人も進んだのは異例でしたが、大学に残った丸岡君とIBMに行った藤田君が同期で、この時に初めて初歩的なデジタル回路を藤田君に教えてもらって、モジュール式の回路を沢山作りました。 これも後々の技術的なバックボーンになりました。

大学院での研究テーマは、人間機械系で特に私は人間の制御特性を回転椅子を使って同定する事をやりました。 すでに前任の方がある程度進められていたんですが、実際の計測方法に納得出来なかったので、回転椅子の制御回路から、その後のデータ処理を当時は珍しかったコンピューターで処理するシステムまでを構築し、これで研究機関の大半を使ってしまいました。

制御回路は大電流の制御になりますので、大容量のトランジスタを多数並べて、それを水冷で放熱しました。 しかしある時に、回路設計のまずさから、そのトランジスタが全部吹っ飛んでしまい、先生に一生懸命に謝って、説明して、再度の部品購入を許可していただきました。 大学時代では本当に困った冷や汗の一件でした。

学部の頃の第5講座は、現在のA9棟のA6棟側に有りました。 A6棟は電気工学が入っていて、時々一緒に講義を受けました。 その後、現在の池の向こうの何も無い草ボウボウのところに現在のB11棟が出来て、その2階の池よりの端に移りました。 その時に、畑先生は恒温恒湿を制御できる小部屋を作られました。 要するに環境の人間に対する影響を調べると言うことだったと思いますが、この中で温度や湿度を変えながら人間の動特性を調べました。 いろいろやったのですが、流石は人間、柔軟性が極めて高いので、単純なテストではその差があまり出ませんでした。 その後はいろいろな研究がなされたようですが、当時は、回転椅子の計測場所兼徹夜明けの仮眠室になってしまいました。

その後は、結婚後に家内共々庭代台のお宅にお邪魔したしたことや、志交会でお目にかかったこと、大阪府立産業技術総合研究所に伺ったことなどが思い出に残っています。 ご冥福をお祈りいたします。 合掌。
【回顧録】 試作センターの退社と鳥羽マンション
【回顧録】 試作センターの退社と鳥羽マンション
2023年1月28日 17:42:30 作成

試作センターも服部さんとの折り合いも悪いし、治子の病状も予断を許さないの
で任期を1年残して代取社長はやめることにした。 サラヤさんの件も残ってい
たので、非常勤取締役で1年残ることにした。

取締役会ではあまり口出ししないようにしていたが、あまりに低レベルの議論が
多いので嫌になった。 あんな小さなお金のない会社なのに過大な役員報酬を議
決しようとしたり、経営会議を作れとか、取締役会専用の決裁書を作れとか、全
然こちらとの波長が合わない話が多すぎた。 結局あとに残って多少の引き継ぎやってくれた
寒川さんも結局辞めてしまった。 これは別途送別会を個別にやった。

その後はそういうことが分かる人全くいなくなったので、経理担当を雇ってコス
トの高い運用となっていた。 最後に小林さんの所に行った時に、その担当者を
呼んでくれたので少々話をしたが、普通の経理のおばさんだった。

せっかく作った会社を案の定、綺麗に潰してしまったことになる。 この時に日
本の一流と言われる会社の経営と言われる人が、いかにサラリーマン的で無能な
ものであるかというのが良く分かった。 今の日本の停滞というのはこれが原因
であるというのは明白ではあるが、これを直すのは極めて大変だと思うので、ま
すます暗澹としてくる。 こういう人たちが日本の大会社を所謂経営していると
いうのは、ゾッとする寒気がする話だと思う。

それで非常勤役員も2010年9月9日の株主総会で辞めて、その1年前に社宅も不要
になったので、そこの荷物を鳥羽の買っておいた鳥羽マンションに送ることにした。
八尾で不要な荷物を降ろして、大きな60インチのテレビを、八尾で積んで、こち
らは先回りして待っていて鳥羽マンションに運び込んだ。

マンションは、ほとんど10年ぐらい使ったが、それで築30年になったので、ここ
が潮時で、あまり使わなくなったし、他のホテルに泊まりにくくなっていたので、
手放すことにした。 すぐに処分すべく非常に安い値段をつけたが、その後コロ
ナが流行ってしまって、これはどうしようもなく、しばらく無理だと思っていた
ら急に売れてしまった。 テレビとロボット掃除機と石油ストーブは置いていったが、
値切りはされなかった。 しかしこれで結構300万円ぐらいの赤字となった。 そ
れからマンションを買うのはもうこりごりになった。

マンションに寿命があるというのを、この時初めて思い知った。 マンション
はどこかで手放す必要があるので、そのタイミングは難しいと思う。 個人の一
軒家なら、全部潰して建て替えは割と簡単だが、特に大きなマンションはなかな
か難しい。 特に鳥羽マンションは阪神大震災の前の建物なので耐震はガタイ
はしっかりしてるが少し怪しい。

その後は、ホテルを泊まり歩いて一泊10万円近くするようなホテルをいろいろあ
ちこち行ったが、これもだんだん飽きてきた。 せいぜい5万円ぐらいで十分だ
と思う。 あまり高いのは単に広いだけでスカスカしてあまり居心地が良くない。

どこか良いところはないかとあちこち探してるが全てうまく合うところはない。
ソファーがあってくつろげる所、テレビが YouTube が映ること、 wi-fi は当然
あることなどだが、これを全部満足するのはなかなかない。 特にソファーが無
く、テレビの HDMI の繋ぎ込みがなかなか難しいできないようになっている。

鳥羽マンションは一度見に行って良いのがなかったので、2回目に見に行ってそ
れも次の日に東急リゾートから売りが出ました、と言うことで急遽行ってみると
、まあまあの値段だったので、それで即決した。 売主は菰野の保険会社かなん
かだったと思うが、法人だったので、そこから買った。 EHSの9月の決算をまた
ぐので、そこを少し待ってもらって買うことができた。

内装は結局入居後いじらずに、その後築30年で売った時も買った時そのままだっ
た。 しかし中は非常に綺麗で元々の作りが良いと思うので、なかなか綺麗
でそのまま使える。 ただエアコンとか給湯器とかはもう非常に古くなって取
り替えないといけないと思う。 電気は電熱なのでこれも IH にしないと
いけないと思う。 その他は居間のリビングは広いし割と気に入っていたマンションだった。
【回顧録】 ハミーハンターのアルバイト
【回顧録】 ハミーハンターのアルバイト
2023年1月28日 17:18:39 作成

大学か大学院頃に日本橋でアルバイトを始めた。 ちょいちょいと組むだけで確
か800円貰えた。 ハミーハンターというアマチュア無線用の無線機だったが、
結構割が良かった。 まあ慣れてくると結構きれいに配線できるので評判は良かっ
た。 それを持って行って、そこのおじさんの娘が基板取り付けて、ハンダ付
けして仕上げるという状態だった。 これでいつも2000円とか3000円もらって帰
るというのが通常のパターンだった。

向こうにしてみると、もうちょっと安く言っとけば良かったみたいな顔をしてい
たような気がする。 日本橋の真ん中辺りだけど今となってはどこにあったの
か思い出せない。

他にも明石技研と言うところのアルバイトも少しやった。 これはちょっとした
発振器を作るだけで5万円もらえたので非常に割れが良かった。 明石技研の
明石さんという人から注文もらったが、結局そこの仕事は他に少しあっただけで
終わったと思う。

いずれにしても当時のアルバイトは万博のアルバイトは非常に割が良かったし、
その後の日本橋のアルバイトも良いし、その後入社したオムロンの給与も平均よ
り高かったので、ポケットにはいつも1万円札が入っていたという状況だった。

結局その時のお金はどっか行ってしまった。 あの時に脱サラとかベンチャーを
やりたかったが、やっていたら、どうなってたかどうかは未だにわからない。
ただ当時出来たベンチャーは全て潰れてしまった。
【回顧録】 OSの採用
【回顧録】 OSの採用
2023年1月28日 17:26:44 作成

今ウキペディアに色々書いてるうちにだんだん思い出してきた。 結局通産省の
関係で UNIX のSystem5を使う羽目になったが、これは技術者にとっては非常に評判悪かった。
評判が良いのはバークレー版であって、ソニーはこれを乗せて出してきたので一
気にそっちに流れてしまった。

やはりバークレー版必要とのことでバークレー版も移植した。 少ない開発リソー
スで結局4つのOSを扱う羽目になる。 何か日本軍になったような気がした。

そのうちに両方のOSが動くという触れ込みで、もう死んでしまったASRの岡田さ
んが持ってきた話でシリコンバレーの南の方のマットコンピューターの近くの、
なんとかいう会社にデュアルOSのソースコードがあってそれを引き上げてきた。
そこは程なくして潰れかけてしまいそうになったので、こちらからの出資を検討
してして デューデリジェンスをやったがオムロンのライセンス料が過大に評価
されていて、非常に危ない会社であったことは間違いない。 いずれにしても
そこはもう潰れてしまった。

そこで作業をしているうちに例のサンフランシスコ大事に地震が起こって、本当
に死人が出たのではないかと、引いていた風邪が一気に治ったという話に繋がっていく。

人その後は京大の中島先生が持ってきた話で、カーネギーメロン大学にMachマー
クという OS があって、これはポーティングがちょいちょいと、すぐできるとい
う触れ込みでマルチ CPU も対応できると言うことで、その気になってカーネギー
メロンへ日参した。

チームリーダーはRich Rasid というなかなかうるさいおじさんだったが、後で
Microsoft の VP になってしまった。 さっきググってみたら紹介サイトが出て
いたので、まだ元気なんだろうと思う。

それで調子に乗ってコマーシャルフィルムを取ることになって廊下はどんどん歩
くというそういうシチュエーションで撮影が始まったが、結局順番が後ろの方か
ら撮ったので、こちらとしたどういう筋書きなのか全くわからないままに撮影が
進んで、何回も何回も撮り直すので、そのうちにRasidをはじめ皆がもう帰ると
言い出すんではないかと思ったが、意外とみんな素直に何回も付き合ってくれた。

カーネギーメロンは結構日本人の多い所で、冨田勲の兄だったが弟だか忘れたが
それがリアルタイム OS をやっていて、その人がアサヒビールの宣伝に出ていた
のでコマーシャルは良いのかと思ったが、コンピューターのCMではあまりに直接
なので断られるかと思ったが市原さんが交渉に行って OK になった。

金出さんと言う人がロボットをやっていて、火星の石拾いというプロジェクトを
やっていた。 金出さんは自動運転もやっていて、アメリカの西から東まで無人
で走行できたみたいなことを言っていて、時々年賀状代わりに手紙をもらったこ
とがある。 一時は結構な勢いでやっていたが今はどうなってるのかよくわから
ない。
【回顧録】 ルナの命名
【回顧録】 ルナの命名
2023年1月28日 17:14:53 作成

これはいろんな人がいろんなこと言ってるみたいなんだけど、最後の決定は私が
したのでこれは間違いないところ。 学生のうちではいろんな話があったみたい
で、そういうのが断片がネットで出回っている。 最初はSUNに比べてLUNAはあ
まりにも直接的なので個人的にはあまり好きではなかった。 候補から落とした
が途中で電話がかかってきて、残ってないんですかとか言われたので一応残した
が、それが最後に生きた。

サンマイクロの人はSUNに比べてLUNAは勝てるはずがないみたいなこと言ってい
た。 まあそう言われることは想定できた。 学生というのは割とノリが軽いの
はよく分かった。 営業の意見としては X とか Z とかザイとかズーとかなん
かそういうので始まる単語が多かったように思う。
【回顧録】 イスラエルに行った話
【回顧録】 イスラエルに行った話
2023年1月28日 17:03:30 作成

これもいつか書いたような気がするが、イスラエルには何回か行った。 最後の
1回は、どこか観光したいと思って、他のメンバーも一緒に行っていたが、抜け
出して現地のバスツアーに参加してエルサレムに行った。

他の選択としてはマサダの砦、死海に行く選択もあったが、 やはりここはエル
サレムに行こうと思った。 外は普通の街だが市内は旧市街地でユダヤ教キリ
スト教イスラム教が入り乱れているというのは非常によく分かった。 キリスト
が生まれた聖なんとか教会行ったが、これはいつかそこで銃撃戦をやっていて、
出入りした入口のところも向けて銃撃をしている映像を見たことがある。

嘆きの壁では入るところで帽子を貸してくれてその帽子をかぶらないと入れな
い。 嘆きの壁とあとは確か建屋の内部にも入れたと思う。 まあいずれにして
も行っておいて良かったと思う。 二度と行けない。 当時も準戦争状態だった
ので銃をぶら下げた兵士が街中にたくさんいた。

また出国するときはイロイロ質問攻めにあうので、これは後で聞くと大学の心理
学専攻の学生がやってるらしい。 誰にあったとかどんな話をしたとかいうのを、
1時間以上聞かれる。 最初空港に行くのに3時間前に行けとか言われてたが、
そんなバカなことはない、2時間あれば十分だと思っていたがこういう仕掛けが
あるとは知らなかった。

いろいろいろいろ聞かれるので、途中から面倒くさくなってきて持って行った
OHP を引っ張り出して、それで客先でやるプレゼンと同じプレゼンを滔々と始め
たらもう良いという話になった。 その時は軍の司令官にも会っていたので、そ
の名刺も見せたがあまり効果がなかった。 ちゃんとプレゼンした方が手っ取り
早いということ。

いずれにしても、その後は、その話はおじゃんになったので、その時の案内して
くれたドクターからは非常に嫌われて、挨拶もしてくれなくなった。 ちょっと
大人気ないとは思う。

しかしイスラエルは興味深いところで20人や30人の会社でも、国内市場へ小さい
こともあるんだろうが最初から世界を目標にビジネスをやっているというのは日
本人は見習わないといけないと思った。
【回顧録】 鉄砲を作った話
【回顧録】 鉄砲を作った話
2023年1月28日 16:59:19 作成

大阪府立大学の池の西側に新築の建屋があって、そこの3階ぐらいに第5講座は入っ
ていた。 そこで大学院の時にそこにいたわけだが、そこでいたずらで拳銃を作っ
てみようと思って、池の反対側にある実験工場で旋盤使って銃身を削り始めたが
なかなかうまくいかない。 工場長は学生でもなんでも、これぐらいの旋盤は使
えなければいけないという態度の人なので、色々教えてくれた。 しかしなかな
かそんなにうまく削れないし、ライフルを切る方法もよくわからなかったので、
銃身を作るの諦めて、鉄パイプか何かで代用したと思う。 それで花火の火薬を
詰めて空気銃の弾を発射できるようにしたが、初速が遅いので池の水鳥を狙って
も発射音が先に届くらしく、水鳥が逃げた後に玉が着弾していた。いずれにして
ものんきな時代であった。
【回顧録】 スペインの話の続き、マンションスッカラカン
【回顧録】 スペインの話の続き、マンションスッカラカン
2023年1月28日 16:51:23 作成

マドリードからの帰りにスペイン人と一緒になったので、スペインで行った高級
レストランでものすごく高かったという話をしたら、それおかしいと言われたの
で確かにおかしいほど高かった。 高そうなレストランに行ってメニューを見た
けど、あまりよくわからないし、良さそうなのが無いので、隣の人が食べている
テナガエビを欲しいと言って、メインの他にそれも食べて、覚えていないが結構
高くて日本円で1万円以上はかかったのではないかと思う。

スペインは食べ物が少し高い気がする。 タベルナ街中にある日本で言う寿司屋
みたいなところで、寿司屋みたいにネタが陳列してあるところで、食べるとこれ
も大体1万円近くかかったんではないかと思う。 店のおじさんは当然英語わか
らないので色々言ってるとお客が通訳してくれたこともある。

ダレス経由だと思うが、それでSFOには結局夜にやっと着いて、クパティーノの
アパートに戻って部屋を開けると、すっからかんで何もない。 仰天して早速
Takさんに連絡して、来てもらって、こちらは焦っていたせいもあるが、Takさん
に手伝ってもらってハワードジョンソンに泊まる事にした。

まあいろいろOAS でいろいろトラブルがある中で3ヶ月も空けてしまったので、
もうしょうがないな、という気はするが、それにしてもひどい話である。 途中
で岩谷さんから連絡で、何か戻ってもしょうがないよ、みたいな伝言があっ
たが、これだとは思わなかった。 その後はあまり覚えていないが何日かシリコ
ンバレーにいてそれでやっと自宅に戻った。
【回顧録】 スペインで地球の歩き方を見て行ったフラメンコの店
【回顧録】 スペインで地球の歩き方を見て行ったフラメンコの店
2023年1月28日 15:46:26 作成

既にもう書いたかもしれないが、例の3ヶ月休暇の時にスペインのマドリードに
行った時の話。 最終日前日になって、フラメンコにしようか闘牛にしようか、
だいぶ迷ったがスケジュールでフラメンコしかだめだった。

地球の歩き方の本を見て一番マイナーな地元志向のところを選んで、わざわざ昼
にまず下見に行って、夜の9時頃行ったがまだ全く始まらない。 良い席を欲しい
と思ってラスベガスみたいに女の子にチップを渡そうとしたが、全く通じない。

年寄りはダメだが、若い女の子は英語がわかるのでいろいろ聞く。 その時間は
みんな夕食を食べていて、始まったのは夜中の12時頃。 狭い舞台でほとんどが
現地の人で、観光客は後ろの方に数人居ただけと思う。 それでも一番前のか
ぶりつきには正装をした現地のお兄ちゃんらが並んでいた。

店で待っている時にギターを抱えて入ってきたのがギター弾きで、もう一人は箱
を叩くパーカッションみたいなおじさんと踊り子の3人。 これで一番肝だと思っ
たのは、そのパーカッションを叩いてるおじさんが、調子を取ってだんだんと踊
り子を調子に載せていく。 踊り子は、それ乗っかってどんどん夢中で踊ってい
くので、櫛は飛ぶし、汗は飛ぶ。 大変な踊りであって、最後の方は踊り子が
倒れそうになっていた。

圧倒されて見ていたが、結局1時間半ぐらいだった。 終わってそれからホテル
に戻るが真夜中というのに街中は人だらけで、地下鉄もほぼ満員だった。 やっ
と宿屋に戻って、次の日はもうマドリードを出ていたと思う。 スペインはもう
一度行きたい国のひとつであるが、なかなかも行けそうにない。
【回顧録】 GridのPCを作る話
【回顧録】 GridのPCを作る話
2023年1月28日 15:35:54 作成

いつごろだったか忘れたがラスベガスのコムデックスに行った時に、人だかりが
してるので見てみるとラップトップ、今で言うノートブックパソコンが置いてあった。
小さなデスクに乗っていたが、みんなが取り囲んでなかなか中に入れなかった。
当時のコムデックスは物凄く熱気があった。

これがグリッドという会社のパソコンであったので、シリコンバレーに戻って早
速本社に行って、これを製造させろと営業に行った。 当時の日本は製造では光
輝いていて、良いものは日本で造るのが当然と言う感じだった。

しかしグリッドは筐体がマグネシウムでできているので、これはお前らには造れ
んだろう、アメリカでも1社しかないと言われ、結局実現はしなかった。 とり
あえず現物を買ってきて、確かまだ家に置いてあるはず。

その後もマッドコンピューターというところに PC をの製造を市原さんと一緒に
営業に行ったが、これもなかなかコストが合わずにうまく行かなかった。 あの
時はまだアメリカへの旅行に慣れていなかったので、朝から非常に眠くて、向こ
うの担当者が、あまり眠かったように見えたらしいので、散歩に連れ出してくれ
た。 その時の空の青さはいまだに目に焼き付いている。

マッドコンピューターは、確かその後すぐにも潰れてしまって、そばを通ると別
の会社になっていたと思う。 ここは南の方で例のデュアル OS の何とかいう会
社のそばだだったと思う。
【回顧録】 京都試作センター
【回顧録】 京都試作センター
2022年5月26日 11:01:53 作成

昨日の日経新聞に出ていた話。 公益重視型企業。 コンセプトは京都試作センターとほとんど同じで、びっくりしました。 アメリカでは「ベネフィット・コーポレーション」と言うらしいが、こちらは、誰かが「社会起業家」と言っていて、意味合いは全く違うがその流れで「ソーシャル・エンタープライズ」としました。
さらに驚くのは、最初に始めた「Bコープ」の設立が2006年、試作センターの設立も2006年。 偶然ではないと思いますが、当時はITバブルもはじけて、私もバブルに乗っかって、オムロンとして投資の一部をやった後のことなので、何となく投資効果一辺倒では限界があるな、と感じていたところで、同じ株式会社でも、この投資会社の正反対をやってみたらどうかと思いつきました。
当然にNPOも検討しましたが、この記事にあるように、NPOではいろいろ(明文化されていない)制約があり、その運営をダイナミックに出来ないと思いました。
日本でも動きがあるらしくて、定款に書いておけば、それが登記されれ、公になると言う話らしい。 当時も定款に書き込むのは問題がなかったが、定款に書くと言う発想がなかったです。 言われてみれば、その通りで書き込んでおけば良かったと思います。
当時散々検討して、その結果辿り着いた「NPOに限りなく近い株式会社」と言うコンセプトが正しいことが、15年以上経って、やっと認められたのは、非常にうれしいです。
【回顧録】 10年目のご挨拶
【回顧録】 10年目のご挨拶
2022年3月26日 17:20:40 作成

付添人から10年目のご挨拶

まあ、こう言うこともあるんですね。 10年前には、最悪3年長くて10年持てば
良いと思っていました。

今頃は2-3種の治療を試して、さあ次はどうしようか? と言うことになるのでは
ないかと想定していましたが、結果的には長期の寛解状態で、短期的に治癒した
のと同じになりました。

最初の診察で、主治医にこの病気は絶対に治癒しません、必ず再発しますと宣言
されて、その覚悟をしましたが、その時はあまりショックはありませんでした。

最初の治療は R-CHOP で、最初の診断の時の治療は、CHOP と説明されたので、
主治医に、この治療は最近変更になりましたが? と聞いたら、数十年変化なしと
のことで、その時点では R-CHOPつまりリツキサンが有効と言うのはあまり浸透
していなかったようです。

リツキサンはマウスの細胞を利用して製造されているので、稀に強度のアレルギー
症状が出るとのことで、最初は長時間かけて注入するのですが、その間に何かあ
るかも知れないと、ずっと横で見ておりましたが、何と言うこともなく終わりま
した。

その後病室で、医科部長から、リツキサンは効きますよ、と言われて、現場では
エビデンスは無くても、効く感覚があるのだと感じた事を覚えています。 今
ではリツキサンが非常に有効だというのは当たり前ですが、当時はまだエビデン
スが十分でなく、標準治療としては認められていませんでした。

一番ショックだったのは、治療中の最終クールを終えずに、再発が発覚したこと
で、この時が一番がっくりして、最悪を覚悟して、引退の準備を始めて、セカン
ドオピニオンにも行きました。

ちょうど京都で血液学会が開催されていたので、それに参加して、突然出てくる
3-4英文字用語に惑わされながら、濾胞性リンパ種なら何とかわかるようになっ
ていましたので、特に全般の解説をするチュートリアルが面白かったです。 要
点は本欄に掲載しています。 あとでホームドクターに聞いたら、医者でも専門
が異なると全く分からなくなると言ってました。

本格的な治療は苦しむだけだと思ったので、主治医の意見を押し切って、リツキ
サン単剤でやりました。 通院で良いので非常に楽でした。

その後、再発が発覚して、入院を要する多少強い治療でないと、何となく治療し
た感じがしない?らしく、今度は主治医の意見通り、入院して強い目のベンダムスチン(
トレアキシン)+リツキサンで治療しました。

ベンダムスチンは、従来型の治療薬なので、あまり期待していなかったのです
が、これが功を奏したのか、これが現在のところ最後の治療になりました。

その後、原因不明の白血球減少症に見舞われて、これが1年ほど続きました。
納得は出来ないのですが、主治医はリツキサンが原因と言うので、もうリツキサ
ンは使えず頼みの綱も切れてしまいました。

その後は、日和見感染であるヘルペスの治療に2回ほど入院を余儀なくされまし
たが、再発はなく現在に至ります。

この10年間には、いろいろな治療薬が開発され体力が続く限り、使う治療薬が無
いと言うこともなくなったと思います。 隔世の感があります。

10年の間には、奮闘むなしく亡くなられた方もおられます。 ご冥福をお祈りま
す。 他方、このように長期のカ寛解を得ることができる場合もあります。
新しい治療薬もどんどん出てきます。 治療に関する情報も玉石混交ですが、ネッ
トでたくさん得られるようになりました。

10年前には、本欄のようなBlogはほとんどなく、妙な民間療法や免疫療法の広告
はたくさんありましたが、しかし何か発信してないと気が休まらないこともあり、
正しい最新情報の発信を心がけて、続けてきました。 最近では記事もほとんど
更新せず、そのままになっていますが、みなさんの閲覧が多く恐縮しております。

これまでの簡単な治療履歴とお礼を兼ねて、10年目の区切りとしたいと思います。
ありがとうございました。 これからもよろしくお願いいたします。
【回顧録】 試作センターの設立 その5 リタイヤ
【回顧録】 試作センターの設立 その5 リタイヤ
2022年3月26日 16:39:20 作成

1998年は急に忙しくなって、売り上げは2億に達して、創業費を除くと累計で黒
字になった。 最初から売り上げゼロを覚悟していたので、これにはビックリし
た。 大きなテーマは自分と板野君でこなしたので、利益はそれなりに出た。
採用もハローワークでどんどん採って、どんどん辞めた。 3か月の試用とした
が、これは法的には厳密にはダメだそうな。 98年の年度が終わると、とうと
うリーマンショックがやってきて、その秋にはあまり案件がなくなった。 それ
でも他は半減と言うところが多かったが20%減ぐらいで収まった。 サラヤの大
型案件もあったので、そこそこで終われた。

サラヤは大きな案件で、1年以上かかった。 やってくれたプロテックもシンド
そうだった。 最後の緒性検査ツールまで作ったので、担当した木下電子はそれ
なりに参考になったはずだが、イマイチ下請け感覚から抜け出せなかったと思う。
それでも中国寧波に行ったりして、金型は中国で造って、なかなか面白かった。

辞める1年ぐらい前に治子のリンパ腫が発覚。 その時に社長になる話があって、
悩んだが、しょうがないので板野君に言って、主力を任せることにした。 その
後オムロンに戻ることになって、こちらも面倒になって、同時に辞めることにし
た。 2人同時と言うのは少し無理があるかと思ったが、その前に来た寒川さん
が実務ではしっかりしているし、システムで日常業務は動くので、思い切って辞
めた。 サラヤのプロジェクトは続いていたので、工場立ち合いなどは、木下
電子に行った。

その後1年は非常勤の役員で残った。 後任は島津の監査役で、もう一人の候補
は中小企業の役員だったので、こちらが良いと思ったが、みんな島津の名前にひ
かれて、監査役にした。 最初にASTEMで会って話をした時に、給料の話をす
るので、こりゃダメだと思った。 まず決算書を見て、説明を求めるのが、経
営として当たり前だと思っていた。

しかも当時の会長である服部さんが、給与を50万と決めていて、子会社扱いだっ
たのもビックリ。 役員報酬の上限に達してしまって、上限をあげる話になっ
て、ついでに何千万かにする話になった。 零細企業ばかりの株主総会で、そ
れを提案するのは如何と、流石に他の案件には賛成したが、これには反対した。
結局足りない分は、私の給与を引いて渡した。 まあ社宅相当の金額だったの
で、これから不要になるので良いかと思ったが、本人からは何の挨拶も無かった。
新しい社長は早速給与の昇給表を作って取締役会に出してくる。 若いころに人
事をやっていたらしいが、それから進歩していないことになる。 服部さんも
取締役会は法律で定められた決定を形式的にやる儀式だと思っているらしくて、
わずかしかいない役員を相手に、経営会議を開きたまえ、と言う。 バカバカし
いが、オムロンの部長クラスが何を言うかと言う感じで、上から目線となり、こ
れも不快で早期に辞める原因となる。

案の定、次の期は、ちょうど社長の給与分だけ赤字になり、その後は黒字になら
ずに、補助金に頼り、最後はペーパーカンパニーになってしまった。 数字にこ
だわるのなら社長の給与ぐらい経費否認すれば良いと思うが、そう言う覚悟も頭
もないと思う。

自分が辞めたときは、先斗町で芸者を揚げて送別会をしたが、だれも選別をくれ
なかった。 会社の金でやっていると思ったのかもしれないが、会社で飲み食い
は一切しなかった。 後任はどんどん使っていたようだ。

組合総会での会費とか、慶弔費もルールを作って厳密にやったが、後任はズルズ
ルだったと思う。 決定的に黒字に出来たはずだが、経費管理が甘すぎた。

辞めたときは清々した。 その後まもなく寒川さんも辞めてしまって、これはサ
スガに京都のがんこで送別会をした。

それまで社宅代わりに住んでいた市場のところのマンションを引き払って、その
まま鳥羽マンションに送った。 途中で八尾に寄って、買っておいた60インチの
TVを積んで、八尾で降ろす荷物は降ろした。

治子は、家財道具一切が鳥羽に行ったので、機嫌が良かった。 確かにもう入れ
る場所がない。
【回顧録】 G90とCエリア、インターネット
【回顧録】 G90とCエリア、インターネット
2022年3月26日 16:05:20 作成

義雄さんが社長になったのは47歳で非常に若かった。 社長は10年やるつもりで、
その間の方針と言うかビジョンを作ると言う事で、本田から来た成田さんを中心
に経戦とコンサルで造ったらしい。 本屋でも売っていて、民間企業の超長期
戦略を市販するのは前代未聞だった。 英語版もあって、こちらは版権の問題
もあったのか市販はされなかったが、印刷はされており、私もアチコチに配った。

当時はこちらも若かったので、いろいろ議論をした。 ABCDとゾーンを決めて、
その垂直統合で強みを生かしていくと言う大方針で、Aは部品でA0からA2までの区分
けがその後作られたと思う。 Bはシステムで、B1とB2があった。 自分のエリア
はこのBゾーンだった。 ここまでは良かったが、その上がCでさらに上がD。 C
はサービスで、府大の先輩の森さんが担当したが、良く分からないので、レスト
ランとか学校とかに手を出して、みんな失敗した。

当時は90年ごろで、まだインターネットの方向が分からない時で、Cはネットサー
ビスだったが、気が付かなかった。 政府参与にもなった村井さんがWiDEと言
うプロジェクトを推進していて、これのプロバイダをやらないかと言ってきたが、
意味が分からなかった。

後にサーバールームと化す長岡の新館2階の細長い三角形の会議室にみんな集まっ
て、森さんも呼んで。やってくれと言ったが拒否された。 こちらも強力に押す
理屈も無かったので、そのままになってしまった。

後で良く調べると、その前に通産省が旗を振ったマルチメディア騒動と言うのが
あって、これに乗った企業は散々だったらしい。 結局コンテンツをどうするの
かが問題になって、この時のインターネットもこのマルチメディアと同じと思わ
れたようだ。 森さんはこの時の担当だったので、めぐりあわせが悪かったと
しか言いようがない。 組織としての実力だったのかもしれない。

この部屋は、後にラックを置いて、パソコンを並べて、サーバールームになった。
ラックの後ろは LANのMAUケーブルが大量にとぐろを巻いていて、新聞の取材記
事に載ったのか、印象深いと言われたことがある。

WIDEの残骸はASTEMの屋上にも残っていた。 当時の衛星通信のなごりだと思う。
当時の通信は国内は電電で海外はKDDIで無料ないしは安く借りていたと思う。
その時のオムロンの負担金は1000万ぐらいだったと思うので、物凄く高価なアク
セスポイントで、隔世の感がある。

その後電電から来た飯村さんが東京インターネットに出資したりしたが、すでに
時代は過ぎてしまっていた。

当時は開発全員WSを持っていて、今の一人1台になっていて、メールのやり取り
などは日常的にやっていた。 ある時にWWWとかブラウザとか言う言葉がメーリ
ングリストかチャットルームみたいなところで飛び交っていて、何だろうと思っ
ていたら、Mozaicのブラウザで、当時は珍しいビットマップの画面で諧調モノク
ロながら綺麗な画像を見たときは、びっくり仰天した。

それまではインターネットと言っても、どう言う情報をやり取りするのかイメー
ジが湧かなかった。 パソコン通信の親玉みたいな感じで、これが世の中を席
巻するとは夢にも思わなかったが、モザイクを見たらすごいと思った。 それ
でも個人がネットで情報発信するようになるとは思えなかった。

これが1993年で、バブルが崩壊して、オムロンがWSを捨てた時期と重なる。
1996年になって、Windows95が出てからインターネットは知られて使われるよう
になった。 しかし皮肉なことに、95はパソコン通信をベースに設計されてい
たので、インターネットは想定外の対応だったが、ビルゲイツは幸運にも何とか
ネットに引っかかって落ちなかった。

最近はDゾーンが見直されて、話題になっているようだが、ABCDと繋がるので意
味があるので、単独では単なる話題造りでしかない。
【回顧録】 おもろ祭りとAI、M2M新規事業の話
【回顧録】 おもろ祭りとAI、M2M新規事業の話
2022年3月26日 15:39:53 作成

オムロンでは、年に一度長岡を解放して、おもろ祭りと言うのをやった。 いろ
いろな催しがあったが、技術ならではのアイデアコンテストがあって、最後の晩
は徹夜して仕上げた。

音声認識を山崎君がやっていたころは、券売機に模したもので、音声認識のデモ
をした。 義雄さんがやってきてやってみたが動作しなかった。 苦笑い。

今では考えられないが、当時の音声認識はマルコフモデルに基づくもので、全く
認識しなかった。 一般的なものでは面白くないので、券売機をモデルに行き
先と人数を認識できれば良いと言う方針の元でいろいろ3年以上やったが、結局
うまく行かなかった。 マイクが問題とか、つり銭の落ちる音が邪魔するとか、
候補選択の場合が指数関数的に増えていくので、その枝刈りをどうするかとか、
3年以上やったが、全くダメだった。

アメリカの展示会で、たどたどしい英語を入れたら、ちゃんと出てきたので、こ
れはやらせで、説明員も苦笑していた。

そのせいで、iPhone がSiriを出してきたときも、本当とは思わなかった。 そ
の時のレクサスの認識も非常に怪しいものだった。 その後実際にスマホでやっ
てみるとちゃんと認識したので驚愕した。 DLのなせる業だった。

AIをいろいろやっていた分野からすると、目標としていたイメージをあっさりと
達成してしまった。 人見君と少し前に話をしたが、彼はAIで入社したと言っ
ていた。 当時のAIから見ると驚天動地だった。

オムロンは山川先生の関連で、Fuzzyに取り組み、AIをもじってFIと言う言葉を
自分で作って流行らせたくらいだった。 同時にニューロもあったが、どっち
もどっちと言う感じで、Fuzzyの方は処理が簡単なので、簡単なルールをぐるぐ
る回せば良いと思ったが、似たようなアイデアだがニューロの方が深みが全く違っ
たと言う事だろう。

音声認識はそのうち、岡崎君は嫌気が差したのか、ソニーに行ってしまった。
残った山崎君も異動でいなくなってしまった。 彼はフランス語で育ったそう
で、寝言がフランス語で出ると言っていた。

大分後のおもろ祭りにM2Mの液面計か何かを出した。 京都のOSKの事務所で夜中
まで直して、真夜中にそのまま長岡に持っていった。 行く途中で、いま人か
多いとオムロンも将来見込みがあるかも知れんと言っていて、到着すると誰も居
なかった。 これではもうアカンと思った。 その後は全く伸びなかった。

OSKで担当したのは金子君で、妙な手つきで回路を弄って、テスターの当て方も
分からないようで、如何にソフトが出来てもオムロンではハードの少しは触れな
いとダメだと、異動させた。 後で聞くと彼はジャズピアニストで少しは有名
なのだそうな。 ネットで調べると確かに出ていた。 OSKのソフトで稼ぎな
がらピアノをやっているそうで、少し道を間違えているのではないかと思った。

結局、オムロンの新規事業はこのM2Mで終わってしまった。 新規開発事業部
と言うのもなくなった。 オムロンの現有事業の周辺の新規事業としては、ま
あまあだったと思うが、IPOするほどでは無かった。

一緒にやっていたプリクラは、あれよあれよという間に100億に達して、MBOをし
て、いまでは一部上場の会社になってしまった。 こちらも道を少し間違えた
か、世の中に着いていけなかったのだと思う。 あの時にプリクラをやれと言
われても、そのままやったかどうか怪しい。
【回顧録】 I have a dream とTakさん
【回顧録】 I have a dream とTakさん、Tom Mace
2022年3月26日 15:26:05 作成

Takさんは日本に来たことがある。 関空に着いて、そこからリムジンで都ホテ
ルまで来たが、結構大変だったらしい。 一人で動けるだろうと迎えにも行かな
かった。 ブツブツ言いながらやってきた。

その時に名前は忘れたがセクレタリの子とTakさんで夕食に行ったが、生エビか
何かが跳ねて大きな声を出していた。

その時に。Haveを訳すと何になるか? と聞いたら「ある」だと答える。 これ
は正しいのでビックリしたが、キング牧師の I have a dream だとあとになっ
て気が付いた。

トムメイスも一度来たことがある。 小沢さんなんかと一緒に面接を兼ねたプレ
ゼンをしてもらった。 全体的な印象では少し弱いのではと言う意見だった。
結果的にはそうなったが、変化球で勝負するタイプなので、こんなものかと思っ
ていた。

夜は一緒に新橋の飲み屋に連れて行ったが、流石にサンマの塩焼きは食べれなかっ
た。
【回顧録】 相続 資産運用上の注意点
【回顧録】 相続 資産運用上の注意点
2022年3月26日 13:25:55 作成

回顧録ではないが、現時点でいろいろ分かったノウハウを記しておく。

■ 社会保険について。 定年になったらEHSかDJCの社会保険に加入する。 加入
する会社の給与は低く(15万ぐらい)設定しておいて、主要な事業運営者とする。
加入しない方は妻に低い給与を払って加入して、自分は非常勤として、多く給与
を得る。 妻も同じ。 扶養や国保などは考えない。 現時点ではDJCそのも
のも加入していないので、いずれは加入する必要がある。 要するに各法人は
最低1人は形式上加入する必要があると言う事。

■ 賃貸マンションのイーストヒルズ山本は、EHSに売却すること。 そうしな
いと個人の財産が積み上って相続の時に大変になる。 売却資金はこちらから
貸す。

■ 役員や株主が法人に貸す場合は、利率はゼロで良い。 つまり出資と似たよ
うな扱いと思ってよい。 逆に法人から借りる場合は、世間一般レベルの利息
は支払わないといけない。

■ EHSとDJCの株式は、評価が下がって時点で、キチンと株式評価して、それぞ
れ次世代に贈与しておくこと。 贈与税を払っても良い。

■ 照子の土地は、照子の相続が発生したのち3年以内に分割でDJCが買い取る。
相続前だと現金が照子に残り、相続税の対象になってしまう。 わずかだと思う
ので、タイミングでは先でも良い。 さらに相続税の取得費加算が使えなくなる。
分割かダメなら銀行からの借り入れでも良い。

■ 不動産の売買は、相続後3年以内に実行する事。 相続税の一部が還付され
る。 相続税の取得費加算。 以前は全額還付されたが、現時点ではかなり限
定的。

■ 農地は、出来るなら生産緑地のままにする。 近い将来には緑地指定を外さ
ないといけないが、半分づつでも良い。 土地利用をしないとダメなので、少し
広い目のファミリー用を時期を見て建設する。 北西側が良い。 西の建売は、
こちらにあまり窓を作らないようにしたので、こちらに寄せて、東側は駐車場に
する。

■ 自宅は、西側の土地がどうなるかだが、もう1代はそのままで使えると思う。
ダメなら農地の南側に同じくらいの面積で建てる。 平屋が良いだろう。 マ
ンション経営がうまく行くと、建てる資金は作れる。

■ 増田マンションや増田文化は、入居者が半分以下になるまで気長に待つこと。
相続時点の入居によるが、まず更地の農地に3階12室ぐらいを建てて、収益が安
定したから、増田文化や増田マンションに手を付けること。順に時間を掛けてやっ
ていくこと。 さらには法人名義にして、株式の移転を先先にやっておくこと。

■ 増田文化や増田マンションの西側の水路は、出来るだけ相続前に決着してお
きたいが、中途半端になるかも知れない。 まず現在の土地(はみ出している
部分)の所までは買い取れるが、その先は水利権が絡むので時間がかかると思う。
しかしこの部分が無いとまともな建物を建てづらい。

■ イーストヒルズ山本と増田文化の筆は中途半端に切っているが、新しく増田
文化のところに建てると、もう一度切り直さないといけない。 以前にやった測
量士が良い(種田さん)。

■ 墓は、万願寺は代々墓を新築して、現在の墓石は法蔵寺に持っていく。 出
来たら相続前にやってしまいたいが、タイミングが合わないかもしれない。

■ 自宅をずっと住むなら、北の端のラインを元に戻す。 久保田から細長い三
角の土地を買い取ることになる。 フェンスもこちらが作らないといけない。
ついでに盲腸で残っている昔の里道のあとも八尾市から買い取ってしまうと、綺
麗な土地になる。

■ 西のブロック塀のところの細い通路は、私道になっているので、現時点では
固定資産税はかかっていないが、取り込むかどうか。 八尾市は買い取らないか
ら、こっちで半分は広げて、八尾市に移転しないといけない。 半分は久保田が
どうするかに寄る。 久保田がギリギリまで塀を作ると、狭くなって傘もさせ
なくなる。


【回顧録】 試作受発注システム
【回顧録】 試作受発注システム
2022年3月19日 17:19:05 作成

京都府からの予算で、受発注システムを作ることにした。 一応は入札をしない
といけないので、小林さんが委員会を作って、その結果で入札と言うより、提案
型にした。 OSKのXX君をメインにしたが、案の定2つの会社が分割してやるこ
とになったので、統一が取れなかった。 片方はツールを使い片方はPHPで書く。

取り敢えず、最初の画面から作り出して、だんだんと拡張していったが、ぐちゃ
ぐちゃになってきた。 自分でもこれはまとまるのか心配と言うか自信が無くなっ
てきた。 もの凄い人件費もかかるので、受ける方もだんだんやる気が無くなっ
てきて、最後は責任者に直接電話したが、ぼろくそだった。 取り敢えず仕上
げて、終わって、その後は少しづつやっていった。

KRPに知能情報と言うのがあって、ここにやらせた。 途中で余りにぐちゃぐちゃ
なので、知能情報の社長にやらせたが、彼は徹夜して一気に仕上げたらしいが、
全く同じものは出来なかった。 さらに寝込んでしまった。 しかし常人で
はないパワーがある。

その後もXXさんに少しづつ手伝ってもらったが、いつまでたっても修正リストは
短くならなかった。 DBのメンテナンスツールも必要だがそのままで、結局動
きが遅くなって、使わなくなってしまったらしい。

自力で造ったのは、ビジネスモデルをこれに作り込むことをやっていたので、出
来上がりのツールを使うと言うのではないので、使い切れなかったのだと思う。
しかし結構複雑怪奇なので、弄るのはそれなりの気合が要る。

一番困ったのは、セキュリティ。 ユーザとか管理者とかメーカーとかアドバ
イザとか種類が多く、それぞれに見せる項目が異なるので、テストをするのも大
変だった。 自分でいろいろやってその都度フィードバックするので、やるほ
うも大変だったと思う。

この中で面白いと思ったのは、見積りシステムで、会社の利益を何処かに置かな
いといけないが、あからさまに置くのを嫌がるお客も居て、各項目に分散してさ
らに丸めた数字で、しかも粗利率を確保するシステムにして、粗利率25%ほどに
なった。 給与が粗利連動なので、下げることはあまりないが、競合上どうし
ても下げないといけない場合は、私の認可を得るようにした。 認可と言っても
チェックボックスをクリックするだけだが、やはり心理バリアになって、それを
ご導入したら、粗利率が一気に5%アップした。

同じファクトリーレスのキーエンスの粗利でない利益が50%超と言うのは信じら
れない。 一度現場をよく見てみたいと思う。 余程担当者がしっかりしている
必要がある。

後は入金消し込みで、凡そ入金があるべきものを表示して、心当たりのあるもの
をクリックしていくと残高がだんだん減って行って、ゼロになったらOKと言うも
の。 同じ複数の注文が同時に同じ価格であると分からないが、これは、書
類を精査しないと区別が付かない。

請求書や領収書もpdfで用意しているので、必要に応じて印刷する。

システムの肝は最初の試作相談で、ここで行きつ戻りつするので、これを追いか
ける必要があり、必要に応じて支援しないといけない。 要所要所にマイルス
トーンを設定してあるので、これに近いかオーバーするとその案件の色が変わっ
て、厳しい順に表示される。 この画面を大型のTVで常に表示しておきたいと
思うが、当時はそんな大きな画面は無かった。 あとで山本工業に行ったら、
似たような表示が置いてあった。

一旦受注してしまうと、後はワークフロー的になって、戻りは少ない。 この両
極端のフローが混在するのが一番の難所だと思う。

やり残したのは、一つの大型案件を子案件、さらには孫案件と分割して管理する。
もしくは個別の案件をまとめて行けるようなシステムがあれば良いと思ったが、
何処をどの様に拡張したら良いのか分からなかった。 すでに動いているシス
テムなので、大幅には更新できなかった。 一部で案件の親子関係を作るとこ
ろまでは行った。 個別の案件の管理はともかく、まとめた案件全体の見積
書が一気に出来るのは非常に楽になるし、粗利も確保できる。

こう言うシステムは誰も評価してくれないが、NTTだけは分かっていて、2億ぐら
いかかりそうですねと言っていた。

このシステムと経理の寒川さんが残ったので、この後私と板野君が同時に引いて
も、その後もビジネスが変わりなく行えた理由だと思う。
【回顧録】 試作センター 会社の仕組み
【回顧録】 試作センター 会社の仕組み
2022年3月19日 16:16:03 作成

完全に新しい、しかも独立の法人を作ったので、今まで不満に思っていたことを
全部やった。 日本を占領したときの進駐軍の若い担当になった気分だった。

まず採用は、何でもありで、今でいう働き方改革を先取りしていて、正社員、パー
ト、アルバイト、非正規なんでもありだった。 後に就業規則を整備するとき
は、大変だった。 それぞれにいくつも就業規則があり、相互に矛盾していない
ようにするにはたいへんだった。

経理は自分でやった。 完全に伝票レスで、文房具などは先に見込みで注文して
置いた。 小口現金は一度に20万にして、その中から支払った。 この小口現
金を自分の口座にしておいたのが、税理士とぶつかった。 決裁権限内の金額
で、しかも帳簿に載せているので問題ないと思ったが、杓子定規な税理士は帳簿
に乗っているのは、全部通帳も開示しろ言うので、大分言い争いになった。
預金の科目にするのがダメで、小口現金にしておけば良かった。 庶務には10
万ぐらい渡して、その中で支払いをするようにした。

別稿にするが、受発注システムを作って、このデータを弥生に流し込んで、一気
通貫で決算が出来るようにした。 今自分でもやっているように、仕入れは一
度全部買掛けに、売上げ売掛けしておいて、月内に売り買いが成立するようにし
た。 もちろん入金は遅れるので、その時に消し込んで売り上げを確定する。

これで最大2億ぐらいまで行ったが、10億ぐらいまではこれで処理できると思う。

経理は後に寒川さんと言う経理のプロがパートで来てくれて、彼は物凄く手が速
いので、最終的には全部任せてしまった。 最初電子式の弥生に戸惑っていたが、
流石に良く知っていたので、すぐに使いこなせていた。

月次決算は、月末前から入れているし、月末の売り上げ確定は大体予想が付くの
で、月末の定時には、月次決算が終わっていて、BS、PLをみんなに配った。
余程の個人情報でない限り、情報公開が原則で、会社の四半期決算もHPで公開し
ていた。 後任の社長はやる必要が無いとか言っていて、元の木阿弥になった
のではないか。

デスクのキャビネットも移動式にして、袖机はなし。 机や椅子などは全部中
古を手配した。 PCも中古にしたが、退職時にはあまりにも遅すぎるようになっ
た。

書類は出来るだけ電子化して、出来ないのは全部同じファイルに綴じて、並べて、
抜けていたらすぐに分かるようにした。 文具の統一のために勝手に買わない
ようにして、同じものを使うようにした。 各自自分の好みで買いだすと、金
額はたいしたことは無いが、バラバラになる。 テブラも買いたがったが、止
めにして背表紙用のラベルにして、プリンタで印刷するようにした。

プリンタもガンで、小さいFAX複合機を1台置いて、なるべく印刷できないように
した。 大量の印刷は、近くに印刷屋があるので、そこで大量に安く印刷する
ようにした。 当時はファックスが割と使われていたので、ファックスは自動
的にメールで転送して、分かる場合はプロジェクト毎のDBに入るようにした。

電話も、IP電話にして電話線を引かないようにしたが、IP電話そのものが不安定
で、そのうちに通常の電話に置き換わった。 IP電話用の専用端末も製造中止
になり、中古も無くて、時代的に早すぎた。 電話がかかってくると、自動的
に関連の案件の画面を表示したかったが、なかなか定着しなかった。

一番最初の受注はオムロンの何か忘れたが、秋には受注して、年明けからは村田
さんの活躍もあり、結構な受注になっっていった。 元々1年ぐらいは受注ゼロ
を覚悟していたのでうれしい悲鳴だった。 それで6月期には1億ぐらいになっ
たのではないか。 ただ6月締めには欠点もあって、3月末のバタバタの処理
は余裕でこなせたが、その後の3か月は低調になり、あまり意気が上がらない状
態で年度末を迎えることになる。
【回顧録】 試作センターの設立 その4 会社スタート
【回顧録】 試作センターの設立 その4 会社スタート
2022年3月19日 15:24:37 作成

会社はスタートしたが、年度は7月から6月とした。 これは12月が確定申告、3
月がDJC、9月がEHSの決算なので、唯一空いていた6月にした。 最初の年度は1ー
2ヵ月にして、7月スタートにしたと思う。

京都のデザイングループに依頼して、会社のロゴをデザインしてもらった。 少
し古めかしいデザインだが、この会社にはぴったりだった。 これをもとにバッ
ジと名刺を作った。 名刺はソリデックに頼んで統一の名刺を作った。 後に試
作プラットフォームと会社名を区別するようにした。 扱うものによってブラ
ンドみたいなものを変えた。

事務所はKRPの狭い部屋にしたが、角部屋なので見晴らしは良い。 値段も値切
り倒した。 税理士も初年度は中間決算が無いので、次の6月まで税理士は無し
で、月次決算を自分だけでやった。 消費税を全く忘れていて、税務署から電
話があって、慌てて申請した。 年度末になって、税理士をお願いに行ったが、
最初に別の税理士に頼んだだら、産業21関連の税理士に怒られて、そっちに切り
替えた。 元の税理士には平謝りに謝った。 税理士のXXさんはその後急死し
てしまって、今は息子がやっていると思う。 最初に税理士報酬を1桁安く値
切ったら絶句されてしまったが、結局決算書作成代として取られたので、そこそ
こになってしまった。 給与計算は面倒なので、山崎社労士に安くお願いし
た。 あまりに安いので、後にこちらから値上げをした。

経理は弥生のネットワークのものを入れて、2人で使えるようにした。 最初の
設定が大変で、電話で聞きながら設定した。 ネットワークも自分でケーブル
を引いて、NASも入れて、定番のシステムにした。

最初のメンバーは森西さんを入れて、何処で間違ったのか小貫さんがまたやって
きて、ほとんど仕事はしなかったが、途中で止めてオムロンに戻って監査室に居
たそうな。 この方が似合っていると思う。 彼はM2Mの時に入社して、少し仕
事のペースを上げたらおかしくなって、異動してしまった。 いずれにしても
役に立たなかったので、板野君と入れ替わりみたいになった。 彼はラサール
から東大に行って、そこから入った石油会社が潰れて、次に入った日本債権信用
銀行も2000年ごろに潰れて、オムロンに入ってきたらしい。 書類を繰る姿は
サスガにサマになっていた。

夏ごろにはオムロンの鵜川さんを発見して連れてきて庶務をやってもらった。
総務を是非欲しかったので、京都銀行に強力に依頼していたら、年寄りがやって
きて、PCもなにも出来ないとのことで、まあゆっくりやってくださいと言ってい
たら、1週間もしないうちにフラフラすると言って出てこなくなった。 京銀は
支店を増やそうとしていた時で、これ以上は梃子でも動かなくなった。 結局、
この総務不在がこの会社のアキレス腱になった。 森西さんが兼務みたいにやっ
てもらっていたが、1年ほどして、産業21に戻ってしまった。

吉田と言うのを高給で受け入れたが、これが飛んでもない食わせ物で、こんな人
間が世の中に居るのだと思い知った。 試作ネットのメンバーで、最上インク
スや秋田製作所の元社員だったし、森西さんも良く知っていたので、人事には気
を使っていたが、これだけ固まっていると、採用しないわけには行かない。
幹部候補として入れたはずが、とんでもない労務ゴロだた。

おかしいと思ったのは、彼が言うほど優秀なら鈴木さんや秋田さんなんかが手放
すはずはないし、鈴木さんも一言挨拶があってもしかるべきと思ったが、何も言
わず。 飲み会で義雄さんが、あなたの言うようにそんなに良い人に来て頂い
て頼もしい限りですと皮肉とも取れるように言っていた。

就業時間内は仕事をほとんどせず、夕方になってから残業と称して何かを始める
だけ。 一度定時後に残っていると連絡があったので、電話で厳しくいっておい
た。 やる気が無くなるとも言う。 就業時間内はPCでSNSをアクセスしてい
るようなので、リモートデスクトップとキーロガーを仕込んで、パスワードを解
析して、NASの見えるところに置いて置いたら、パスワードは変えたらしい。

秋ごろに東レの村田さんと言うのが合流した。 石田さん関連で、以前に東レに
一緒に行ったときに面談したが、胡散臭いおじさんと言う感じだったが、営業の
腕はしっかりしていて、お客も彼に付いていた。 粗利比例の給与体系にして
いたので、実入りは良かったと言っていた。 ずっと部品関連のビジネスの中心
になっていた。

同じ頃に板野君が合流した。 秘書室の広岡君に一本釣りで頼んでいたら、9月
の定期異動ではなくて、1か月遅れだった。 経戦に居たので、あまり面白くな
かろうと思って引き抜いたが、完全に営業の中心になった。 彼も一番面白かっ
たのではないかと思う。 夏ごろに本人には言っておいたが、9月になっても
話が無いので、沙汰止みになったと思っていたらしい。
【回顧録】 試作センターの立ち上げ その3 募集設立と出資
【回顧録】 試作センターの立ち上げ その3 募集設立と出資
2022年3月19日 13:36:48 作成

2006年の年明けから本格的に設立の準備をした。 周りと言うか役所的には、
拙速だとか速すぎるとかのクレームがついた。 特に商工部長は後ろ向きだった。
産業21の中村専務は、割と前向きだった。 少し変わったところのある人だった
が、それなりに力はあったし話もうまい。 斎藤さんのところに行ったときも
話してくれた。

会社の名前を決めるのも頭が痛い。 産業21の理事会にも諮って、少なくとも
勝手に決めたとは言われたくないので、何案かだして意見をもらった。 試作な
のでシサクックスにしようかと思ったが、カラオケのシダックスと言うのがあっ
て対抗馬にした。 意見を踏まえて、京都試作センターと言う仮称で使ってい
た名前をそのまま使うことにした。 ベタな名前だがすぐに分かるので、その意
味では良いと思った。 試作ネットからは紛らわしいととの注文があったが、
もともと紛らわしくするのも目的だったので、そのままにした。 しかしその
後の実際の商売では間違って注文したり問い合わせてきたのは1ー2件だけだった
ので、お客は良く分かっていると思った。

その後は出資のお願いにずっと回った。 これは山下さんと私とで手分けして、
あとは宮川さんも入って出資をお願いにあがった。 大きなところは2000万から
3000万小さい所は200万から300万でお願いした。 真っ先に行ったのはやはり島
津製作所で先に入れてもらわないと、後が進まないということで行った。 やは
り何処が出しましたか? と良く聞かれれるので、順番が重要とは山下さんの持
論。

GSも行って例の島津源蔵の電気自動車を置いてあるとこにもいった。 あと思
い出すのは日本電産で担当者が出てきて客先はどれくらいですかとか、それなり
に聞いていた。 他に行ったときには日本電産は出しまたか? と良く聞かれた。
当時は今と違って、こう言うものには一切お金を出さないと言う事だったが、永
守さんの心境が少し変わってきたころだったらしくて、珍しく出資してくれた。

日本ケミコンにも初めて行ったけども、あの半円形の窓のあるところでお願いし
た。 社長の武田さんは義雄さんと友人で、先に電話してくれていたらしくて、
何も言わずに出資してくれた。 日写にも行った。 あと一番困ったのが出資
の期限。 期限ぎりぎりだと間に合わないので、本来の期限より1週間前倒しで
払い込み期限を設定していた。

これで役に立ったのは京セラ。 稲盛さんが居なくなってからは集団指導体制な
ので、動きは悪いと聞いていた。 オムロンも知り合いがあまり居ない。 お
まけに京セラの年度が2月末とかの変則で、この出資を取締役会で承認するタイ
ミングに合ってしまった。 最初はこんなチンケな決裁は株主総会時の取締役
会では取り上げられないと一蹴されたが、アチコチのルートを使ってお願いした。
産業21に出向していた人にも頼んだし、他にもいろいろ頼んだ。

結局承認は得られたが、時期がずれて、最初にサバを読んでいた1週間にピッタ
リ収まった。 これが一番際どい出資だった。 結果的に、京セラの出資が不
足でもなんとか設立できたが、設立できないと、再度の募集設立は精神的に出来
ないと思った。 出資も次の出資段階を考えていたが、まったく動く気がしな
かった。

他はNTT。 最初に話したときは、こんな出資は決済に3か月はかかりますよと言
われた。 それでちょうど京都新聞の記者それも社会部の記者だったらしいが、
来たので出資をリークした。 どんな記事になるのか物凄く心配した。 一生で
これくらい緊張したのは初めて。 どんな結果になるのか想定が全くできなかっ
た。

次の朝に山下さんから電話があって、どんなに怒られるのかと聞いたら、中信が
名前が出ていないとのクレームがあったとのこと。 出資者は見せただけなの
で記者はメモし忘れたらしい。 山下さん曰く、リストを渡せば良かったのに
と。 こちらはそこまでの勇気はない。 情報漏洩につながる証拠になるが、
役所的には良くあるらしい。

結局、これ以上のハレーションはなく、しかもその後NTTから電話で、出資を決
めたとのことで、結局こちらの思惑通りに進んだ。 マスコミを使うと言うの
は良くニュースで見るが、自分でやったのは初めてで、2度とやりたくない。

後の難題は京都銀行。 例の5%ルールにひっかかるので、何とかしてくれという。
子会社のリース会社と少し差をつけて、辻褄を合わせて解決。 これで資本政
策は完了して、最終的に100点満点になった。 オーバーした2000万は資本準備
金にしておいた。 資本金に居れても良いが、一応2億と公言していたので、そ
のままにした。 資本金の額はあまり意味がない。 1億以下だと中小企業にな
るので、少し有利で、2億は中途半端。

京都府の役割としては予算をつけるということだが、これが何につけるのかは
なかなか難しいが色々頭をひねって、結局は試作の発注システムを作ることにし
た。 これで予算を2000万か3000万かつけてもらうことになったが、良く分か
らないと言ううことで京都府庁の財務部長に説明に行った。 役人で無いのが
説明に行くのは前例がないそうな。 財務部長はデータベースの本を持ってき
てお前はデータベースをよくわかってないようだから、これをよく読めと言われ
てしまった。 苦笑いして帰ってきた。

その前に京都府の岡本さんから、財務部長は口が悪いからキレないでくださいね、
と念を押されていたが、少し言いたいことを言うが、たいしたことは無かった。

それで結果的に予算は降りて、こういう新たに付く予算とと言うのは非常に珍し
いことだったらしくて、すごいですねと産業21の人には言われたが、こちらはあ
まり実感が湧いてこなかった。

資本政策はいろいろ考えたが、やはり分かっている株式会社でやろうとした。
鈴木さんは、煮え切らずに、抽象論ばかりで、結局NPOにしたかったようだ。
しかしNPOではガバナンスが不透明だし、運用のノウハウもないので、何かあっ
た時の拠り所がない。 NPOで利益を上げても良いが、何かスッキリしない。

そこでNPOに限りなく近い株式会社として、「ソーシャルエンタープライズ」な
る言葉を発明して、これを使うことにした。 協力会社をパートナーと呼んで、
対等と考えることにした。 他の例では、資本関係を作ってしまうものもあっ
たが、結局うまく行かなかった様だ。

この歳になって。自分の会社でも無いのに、資金の心配をするのも面白くないの
で、5億ぐらいの出資を考えていたが、結局ギリギリの2億になって、少しオーバー
ユーとして2.2億あつまった。 この時から出口戦略は考えていて、IPOは出来な
いので、最悪の会社清算を出来るように資金を配分した。 実際には清算は出
来ないと思うが、自分の代だけでも用意しておいた。

また資本金の振り込みもなかなか難しくて、案の定オムロンだかどこか忘れたが
そこは請求書を送ってくれと言ってきた。 これは想定内だったが1ー2社あった。
ATMで振り込みたいと言う話もあって、暗証番号は8888か何かだったと思うが、
これもやってみてやっとわかった。

面白かったのは設立者の実印が必要だが義雄さんの実印は三文判で、これは立石
電機設立の時からの判子ではないかと思ったけど面白かった。

株式の出資方式も、発起人設立と募集設立があるが、数が30社ぐらいになるので、
募集設立しかない。 ここで問題となったのは、予定の資本金とぴったり集ま
るならないといけないことで、もしオーバーしたらそれは設立会社つまり立石義
雄さんが断らないといけないというのがルールだったが、こういう寄付に限りな
く近い出資では断れない。

そこで新会社法をよくよく読んでみると、最低限の金額を決めれば、その上はオー
バーしても良いと読めるので、ちょうど新会社法の切り替え時期と当たったので、
これを最大限活用した。

ちょうどこの時に新会社法との切り替えで登記所が5月の連休の間にシステムの
入れ替えをするので、その直後に登記した。 しかし登記官も忙しく、新法にも
慣れていなくて、一度は拒絶された。

担当した司法書士はオムロンの定款を弄っている(その時正に株主総会前で定款
を変更しようとしていた)高山司法書士で、御所の南の方の門の前に事務所があっ
て、小さな桜の木に花が咲いていた。 高山さんに連休明けにすぐに持って
いってもらったが、10時ごろに電話がかかり、拒絶されたとのこと。

「そんなことはない。 あれだけ連休中に何回も打ち合わせをして問題ないはず
だから、もう一度行ってくれ」と言って電話を切ったが、これで本当に拒絶され
たらどうしようかといろいろ考えていると、通ったとの電話でやれやれ、一段落
して、へなへなとなった。

出資金の扱いも初めてで、京銀の人に聞きまくった。 それ専用の口座を作って
そこに振り込みをするらしい。 さらに最初の仕仕訳けも、なかなかやることは
無いので、調べて仕訳た。

会社設立はもっと簡単と思っていたので、公的な募集設立する会社の設立は意外
に難しいと思った。 そもそも会社法を眺めてみると、元は個人が7人集まって
法人を設立するのが始まりだったので、今回のような法人が子会社ではなく、全
く別の法人を単独で立ち上げるのは意外に難しいと感じた。 いずれにしても、
会社設立は綱渡りに次ぐ綱渡りで、非常にラッキーだった。
【回顧録】 試作センターの立ち上げ その2
【回顧録】 試作センターの立ち上げ その2
2022年3月12日 17:53:20 作成

やっとストレスなく仕事が出来るようになったが、周りでは3か月と持たないと
言われていたそうな。 自分でも辞めるなら今のタイミングだと思って、6月の
賞与を待っていたが、その前に何とか落ち着くことが出来た。

試作センターは、あまり急いでいないような感じで、試作ネットの総会に行った
が、これは初めての総会だったらしい。 その時はまだオムロンのオーラが出
ていたらしいが、そのうちに消えてしまった。 会長の最上インクスの鈴木さ
んは同い年で、相続の話も良くやったし、プロジェクトの進行についても節目節
目で報告に行ったが、のれんに腕押しだった。

売上げは20億ぐらいで試作ネットの中では断トツだが、ビジネスを伸ばそうと言
うマインドが無いことが分かった。 毎年の事業計画を作るのだが、これを仲
の良いコンサルに作らせていたが、事業目標を作らないといけない、売り上げの
積み上げと事業目標は違うと言っても、議論になるのではなくて、通じていなかっ
た。 それ以来、この話はしないことにした。

もう一人のキーマンは秋田さんで、オムロンの車載工場の検査機を作っていた。
セルシオを乗り回し、オムロンの部長クラスでは乗れないだろうと言っていた。

飲み会で政治についていろいろ言うので、それなら政治家になれば良いと言って
いたら、西田府議が参議院に出た後の南区で府議になってしまった。 阪神大震
災の時に京都で集まりがあって、この時に呼んだのが山下氏で、産業21に赴任し
て京都府に挨拶に行ったら、びっくりしたと言っていた。 彼とはこれから2人
3脚で試作センターを立ち上げることになる。 その後は彼は副知事になって、
山田知事が辞めてもまだ残っているらしい。 これもくらい特に京都の製造業
に入り込んでいる人は居ないので、交代できないのではないか。

この最初の総会に始めて参加していたのは、クロスエフェクトで、プレス屋さん
からモデルを作る会社に変身していて、真空成型などをやっていて、そのうちに
心臓模型をつくりだして、これがヒット。 日経にもよく登場した。 京都の
中で新参なのに一番の出世頭と思う。

次は山本工業。 最初に逢った時は手に布を巻いていたので、妙だと思ったら、
工場が火事になって、本人も死にかけて、手に大やけどを負ったとのこと。
その後は売り上げを超える金額で本社を建てて、大量に採用して、それなりに大
きくなった。

他は衣川さんとか、木下電子とかいろいろ居る。

副知事と府議とで試作ネットはますます政治団体化して、補助金の受け皿になっ
ていく。 最近20周年だったらしいが、売上げも規模も大して伸びていない。
日本の低成長の縮図みたいだと思う。 試作センターはこれに風穴を開ける意図があった
ので、余計に反発された。 これはもう構造的なものだと思う。

1年ぐらいたったころに何かやりたいと思って、シンポジュウムを開催した。
キーノートとして呼んだのが何と田坂さん。 この時は良く分からずに、ミド
ルマンと言う話をしてもらった。 講演料も値切ってわずかだったと思う。
シンポジュウムは300人以上集まって、入りきれない人も出て、成功だった。

田坂さんはその後、原発事故で政府の参与になり、その後もまた参与になってい
た。 元々原子力が専門らしいが、最近はだんだん教祖みたいになってきた。

このころから小林さんが加わって、馬力が出てきた。 誰かが京都府から送り
込まれると聞いて、直感的にすぐに分かった。 総務部長にKさんですよねと言っ
たら、否定していたが、後で聞くとドキッとしたと言っていた。

彼はエキセントリックなところがあり、山下氏にも食って掛かるところがあり、
みんな手に負えないとしていたが、こちらに来るとやたらとおとなしくて、しか
も馬力があるので、非常に重宝した。 試作センターのシステムを作るのに選
定委員会をつくらないといけないが、あっという間に、紙の上だけだが作り上げ
てしまった。 大阪の経済団体への根回しもあっと言う間にやってしまった。
私の苦手なところをやってもらって物凄く助かった。

若いころに自動車事故で生死を彷徨ったとのことで、サッカー選手であったが、
運動は出来なくなったらしい。 子供も小さくて、その時はまだ幼児だったよ
うだ。 実家は裕福らしく、結構な財産があるようだ。 乗っている車も古いがBMW
だった。

定年の祝いに自分で宮川町で飲み会をしたが、その時に何か赤いものをと塗りの
入れ物を記念にくれた。 彼はその後、産業21の専務理事になり、その退職の
日に花束を持っていった。 このまま商工部長になったら京都府もたいしたも
のだとみんな言っていたが、そこまでは行かなかったようだ。 今でも年賀状は
来るようになった。
【回顧録】 試作センターの立ち上げ その1
【回顧録】 試作センターの立ち上げ その1
2022年3月12日 17:04:06 作成

2004年の正月に異動を宣告されて、それからの3月は永遠に思えるように長かっ
た。 案じていた明鏡のビジネスも軌道に乗りそうだったが、開発途中の電池
式の液面計とか、電力計が中途半端になってしまった。

特許の仕事も中途半端になっており、しかし京都に異動しないといけないので、
京都駅前の不動産屋から出たときに、秘書室の広岡君から電話で、産業21に行け
と言う。

今更しょうがないので、指定の日に行くと、顔を知っている雰囲気。 良く聞く
とネットで調べたら出ていたそうな。 役員待遇の理事はオムロンからも何人
か来ていた。 元は3つの公社がそれぞれの部になっているので、部の間で雰囲
気が違うのが面白かった。 オフィスは北と南に分かれていて、最初は確か南の
方で、南奉行と呼ばれていた。 そのうちに北の総務部の横に座ることになっ
た。

理事長は義雄さんで、義雄さんの指示だったらしい。 いつもはキチンと理事会
を開くが、私のケースは持ち回りで大急ぎで決済したらしい。 こう言うとこ
ろは役所は意外に融通は利く。

オフィスにずっといるのが苦痛で、最初の日は10分経つのがなかなかだった。
定時が来たので、すぐに帰ったら、今度の理事は付き合いきれないと、関電出身
の井上氏が苦言を呈する。 彼とはその後2人3脚で活動することになる。 ク
セがあるが、馬力はある。

3つの部の一つは情報産業何とかと言う、オムロン時代にEWSでいろいろ持ち込ん
だところだった。 当時は孝雄さんがここの理事長をやっていたと思う。 それ
でこの部のメンバーはオムロンには親近感が強かった。 部長も徳田氏で、先
ほどの井上氏、プロパーの巽君もここのメンバーだった。

他は坂本さんとか白髪のXXさんとかなかかな一癖のある人ばかりだった。 役
所関係はなかなか面白いと思った。 いろいろなパターンがあって、上から下ま
でバラエティに富んでいると言う印象だった。

サスガの私も単身でこんなところに放り込まれて、特に落下傘で異動したのは初
めてで、それまでは自分で組織を作って、しかも異動稟議も自分でみんな書いて
異動すると言うのが常だった。 M2Mの最後の異動から自分の意志ではなくなっ
た。 これは結構なストレスだった。

さらに理事と言っても、予算があるわけでもないし、部下がいるわけでは無いの
で、自力で動かさないといけない。 オムロンの役員でも、PC一つ買うのもま
まならないのを知っていたし、研究部材でなんでも買えるところに居たので、非
常に窮屈だったし、ストレスだった。 そこで初めて、部長の徳田氏を呼び出
して、京都駅地下の飲み屋に行って、愚痴を言うぞと言って愚痴った。 しか
し愚痴はこれ1回だけだった。

何にしてもすべてはお金が無いと話にならないので、取り敢えず予算表を見よう
と、隣に居た総務部長に聞くと、そんなのは無いとそっけない。 それを横目
で見ていた吉田君が下書きならありますよと見せてくれた。 彼は糖尿病を患っ
ていて、飲み会に出てくるがその場でもインシュリンの注射をしていたぐらい。
経理には詳しく、良く分かっている。 しかし時々出社しないことがあって、
ある時に井上氏に自宅に行くかと言うと、呼吸を合わせたように、立ち上がって
一緒に行った。 こう言う行動的な面で気が合うのかもしれなかった。 そ
の後大分経って、展示会ですれ違ったが、すぐに分かった。 彼は大病をして、
大変に痩せてしまったので、面影が無くなっていた。

予算書の下書きを見ると、リース料がものすごく高い。 大昔のルーター何か
が残っていた。 これを最新に切り替えるだけで、毎年何千万も浮いてきた。
ある時に京都府から予算の査定に来たので、知らんふりをしていたが、余ってい
るのは分かっていたらしいが、バッサリとカットはしなかった。 この辺は役
所だと思う。

これで原資が出来たので、OSKのM2Mのメンバーに連絡して、報告システムをクラ
ウドで刷新することにした。 一部のメンバーだけだが、訪問記録を入れる習
慣になっていた。 こう言う習慣を一気に広めるのは困難をきたすので、今ある
仕組みをそのままそっくり、作り変えて、さらには便利にした。 このシステ
ムは未だに動いているらしくて、増田さんの足跡が残っていますよと言われた。

技術的には問題なかったが、これをどうやって組織に落としていくのかが問題で、
縦割りの3部があるので、どうしようかと思ったが、横串組織として委員会があっ
た。 これを使って情報管理委員会とか何とかだったと思うが、最初の会合は
ドキドキして開催した。 誰も来ないのではないかと思っていたが、思ったより
出席はあって、この辺は意外に素直な面があるとみなおした。

このシステムは、定期的にデータを中小企業庁へ送らないといけなくて、そこが
少し苦労したが、何とかだましだましで動くようにしたが、時々エラーになった。

事務所のLANも、元の組織を引きずっていて、他の部のデータは見れないとか、
妙なところにFWがあったりして、これもケーブルを引き直して、全部刷新した。
社外向けのサーバーも三条のNTTに置いてあったが、これも引っ越しの時に、同
じビルの中に移転した。 共有のNASも付けた。 この辺りから産業21のシステ
ムは一手に管理できるようになった。 やはり情報システムを握っていると強
いところがある。

三条のサーバーは一度落ちたことがある。 良くあるようにバックアップのテー
プも動かず、1週間ぐらい停まっていた。 観光協会のサイトがあったので、気
が気では無かったが、結局自社ビルに持ち帰って、最終的には星和電機に預けた
と思う。 ここの前川氏にはいろいろお世話になった。
【回顧録】 IT研究所の終焉とオージス総研と自前ビジネス
【回顧録】 IT研究所の終焉とオージス総研と自前ビジネス
2022年3月12日 16:38:38 作成

最後の拠り所であった技術者もどんどんいなくなり、人事からは引き抜きが多く、
良い人材から出していったので、異論もあった。 しかしとうとう終焉になっ
てしまった。 その後は福島君辺りが引き継いだが、何の面白みもない組織になっ
てしまった。

EWSがうまく行かなかったので、事業権みたいなものが認められずに、自力で事
業を起こせなくなった。 その間に中研は部品の世界に入ってしまったので、
それなりに連携はとれるようだが、システム系はビジネスがあって何ぼのものな
ので、出口を塞がれてしまった。

最終的は、私が一番避けたい嫌な立場になり、事業部の手伝いをする。 しかも
事業部の見かけのPLを良くするために本社費の1%を使って手弁当で手伝うと言
う何とも情けないことになっていた。 60歳の定年を迎えたときに、それま
で何をしていたのか、良く分からないのは悲劇だと思った。

それで、IT研の大半を何処か外部に出して独立させられないかと画策した。
似たような事例が当時他の会社であったので、それで刺激された。 アチコチ行っ
たと思うが、最後は付き合ったことのある、大阪ガスのオージス総研に声をかけ
た。 梅田の飲み屋で話を聞いてくれて、本気で考えたしたので、少し気を抜
いたらと言う感じにしたら、それで終わってしまった。 こちらも準備が全
くしていなかったし、いざそうなっても付いてくる人間がどれだけ居るか、全く
分からなかった。 おそらくゼロではなかったか。

ずっと後になって、M2Mからも離れなくてはならなくなった時に、新しい会社を
設立すべくOSKの下請けをしていた金山君に声をかけたが、奥さんに反対された
とのこと。 まあ今のままゆっくりしていたら管理職にはなれるはずなので、そ
こでリスクを犯すことは無いと言う事だと思った。 彼はその後キチンと昇進
していた。

この直前には、ドコモの子会社との話を進めたことは別稿で書いたが、これも結
果的はやらなかった方が良かった。 この会社もほどなく潰れてしまった。

M2Mは今になれば、IoTとして認知されているので、しばらく我慢していれば、何
とかなったのかも知れないが、持ちこたえられなかったかもしれない。 現在
は多少のお金も出来て、何とかなりそうだが、気力が失せた。 歳は取りたく
ない。

一生の中で、やりたいことは大体出来て、会社も3つほど立ち上げたが、自前の
事業が無かった。 マンション経営はまあま軌道に乗ったが、これは本来のビ
ジネスではない。 農業も初期投資をすれば良いと思うが、もう人生の時間が
無くなってきたし、あまり興味のある分野でもない。

孝子は自力でビジネスを立ち上げ、曲りなりに今ではTVのコメンテータも少しは
やっているようだが、非常に手堅くやっている。 せっかくのフィンテックが
目の前にあるのに、もったいないと思う。

若いころは、田崎さんや山本さんが何もしないで、老後を送っているのが歯がゆ
かったが、いざ自分がそうなると気持ちが分かってくる。 先日人見君と話した
が、似たような思いを私に持っていることに気が付いた。
【回顧録】 M2Mまでの流浪期間、ザクソン、イモタニ、ソリデック
【回顧録】 M2Mまでの流浪期間、ザクソン、イモタニ、ソリデック
2022年3月12日 15:53:16 作成

IT研を首になって、アメリカの投資をトムメイスとやっていたり、ロックウエル
のアライアンスを探っていたころは流浪の日々だった。 途中で隣のマンショ
ンの建設は始まるし、父親は死んでしまうし、個人的には忙しかったが、会社は
暇だった。

東京でどういう職務だったのか思い出さないが、オムロンは辞めるつもりでヘッ
ドハンターの所にアチコチ行った。 金井さんに紹介されたところは、品川の何
処かで話をすると、辞めることに強硬に反対された。 今から考えるとそれが
正しかった。

アルバイト的にいろいろやった。 M2Mの関連の会社にコンサルしたが、1回やっ
ただけで終わってしまった。

最初は以前から付き合いのあるザクソンに行った。 元々ザクソンの創業者の吉
井君が長岡に単身でやってきていたので知っていたが、平井さんに呼ばれて父親
が親友らしく、息子を頼むと本社の応接室で言われた。 その時に一緒に居た
のが秘書をやっていた吉田さん。 同い年だった。

当時はザクソンはネットのプロバイダをやっていて、自分でも加入した。 5万
ユーザいれば何とか維持できるそうな。 その後、プロバイダもうまく行かな
った頃に訪問したが、何をするか良く分からず、ハードに興味を持っていて、チッ
プを起こすと言うので、西村君に来てもらって、少し講義をしたが、それきりで
終わってしまった。

最後は2000年のITバブル崩壊で、光通信の影響を受けて、ザクソンも倒産してし
まった。 150万ほど出資をしていたが、そっくり返してくれた。 税務署の
眼が気になったが、問題なかった。

一時はアメリカに行きたいと言うので、連れて行って、ホテルも取っていなかっ
たので、モーテルに泊まらせた。 何とかいうおとなしい番頭タイプの同僚が居
たが、彼がいろいろやっていた。

一応入社して、報酬をもらうようになると、目つきが一気に変わってしまって、
これはダメだと思って1ー2日ですぐに辞めた。

吉井君のお父さんはダイワハウスの役員だったので、初来はダイワハウスの社長
になって、さらにザクソンを1部上場して、親子で1部上場会社の社長になるんだ
と息巻いていた。

ダイワハウスの吉田さんの紹介で、山野上さんと知り合って、ちょうどその時に
父親が亡くなって、その相続手続きをやってもらうことになった。 その時に忠告してくれたら、住
所を八尾に移しておいて、控除が大分あったと思う。

吉田さんとは、久保田マンション建設の鹿島対策を同じ建設業なので、弱点を教
えてもらった。 不動産の代金を現金で持っていた時にタクシーに一緒に乗ろ
うとしたら、ダイワハウスではタクシーは乗らないと、ガンとして受け付けず、
居心地が悪いが電車で移動した。

その後全く音信が無かったが、10年ぶりに山野上さんに会いに行ったら、本人は
頭に障害が出て、チタンを入れていて、少し言動がおかしい。 吉田さんは鬱
になっていてヘタっているそうな。 それで山野上さんはそれ以降連絡してい
ないが、良い税理士が居ないので、また行ってみることにする。 息子がやって
いるらしい。

ソリデックが付き合っていた、近所のコーナンの向かいの芋谷さんにコンサルし
た。 最初は無料でその度にお土産をくれたが、最終的に顧問料をもらったが、
少しして断ってきた。 作ったものがうまく行かないし、撤退すると言う事だっ
た。 自宅に呼んで中を見せて話をしたが、ほとんど興味が無い様だった。

その後は中道でバッタリ会ったり、加納歯科でもバッタリ出会った。

大内田さんと一緒になって少し手伝ったが、対応方法が分からない。 大内田氏
もほったらかしになっているようで、放っておいたら、終わってしまった。
ほとんど技術に興味が無くて、分からないし、気が向かないと何を言っても聞か
ない。

最後は火災警報装置を作ることになって、いろいろサンプルを買ったりしたが、
想定の開発費が1桁以上違うので、取りやめにした。 開発に対する考え方が全
く違う。 まあ話し相手としては面白いが、浅吉に出てくるモートルの貞と言
うのが父親らしいが、その話はあまり好きではない様子。 養子で入っているせ
いか、70を過ぎて会社を売ってしまった。 自分で作った会社時は自分で処分す
ると言う事らしい。

見かけによらずにさっぱりしてる。 ビジネスセンスはある。 10ー20人で10
‐20億売っていたので、立派なものだと思った。

息子は2人も居るが、長男はビジネスに向かず、次男の一元はそれなりだが経営
を任せるほどでもないらしい。 彼とは一緒に中国に行った。 自分で費用は
出すと言っていたが、出してくれた。 これは1990年代に行ったあと久しぶり
だったので、面白かった。 中国と言うのをじっくり見れた。 さらには東莞
に行ったので、中国の北の上海との差を実感できた。 上海なら一緒に何とか
仕事は出来そうだが、ここは無理と思った。

その後に、大内田氏と台湾の関係者と一緒に行ったが、夜はカンペイの嵐で、上
海とは大分様子が違う。 最後はカラオケに行って女の子をお持ち帰りするらし
い。 結局そのまま帰ったが一晩300元らしい。 老酒を散々飲んでフラフ
ラなのに高速で車で送ってくれた。 30年前のオムロンに入社したころの日本
と同じだと感じる。

イモタニさんは地元だけあっていろいろ関連があった。 一元は修さんの娘で神
戸の方に嫁いだ子が一元と同級生らしくて、呼び捨てにしていた。 お母さんの
和代さんも踊りの弟子か何かで良く知っているらしくて、藤井寺に一緒にレクサ
スで行ったときに、あまり良い印象はないと言っていた。

最後は増田専務の息子が東京からわざわざ産業21までやってきて話をしたが、あ
んまり面白い話もないし、義雄さんの試作センターの話を放り出すことも出来な
いので、義雄さんを盾に断った。 案の定その後は潰れた様子で、親子ともビジ
ネスセンスが無いと感じた。
【回顧録】 金沢の堂下君 【訂正追加】
【回顧録】 金沢の堂下君
2022年3月12日 11:48:35 作成

金沢で世話になったのは堂下君。 最後は東京に戻ってOFEの何かをやっていた
が、その後は不明。 その右腕は橋本君で、マンションの駐車場ゲートを提案し
てきたが、コスト的には無理なので、最後は強く言って断った。
【回顧録】 金沢の堂下君
【回顧録】 金沢の堂下君
2022年3月12日 11:48:35 作成

金沢で世話になったのは堂下君。 最後は東京に戻ってOFEの何かをやっていた
が、その後は不明。 その右腕はxx君で、マンションの駐車場ゲートを提案し
てきたが、コスト的には無理なので、最後は強く言って断った。
【回顧録】 サイバード とその顛末
【回顧録】 サイバード とその顛末
2022年3月12日 11:50:50 作成

1998年ごろに、義雄さんの三男の拓雄君から電話で、助けてほしい人がいるので
会っ欲しいと言う事で、サイバードのロバート堀君と会った。 虎ノ門の事務
所の前に椿山荘があったので、そこで飯を食わせた。 普通に電話しても満席
なので、目の前の本社の秘書室から電話させるとOKだった。 全部個室で密談を
するのに便利。

それで出来立てのドコモに一緒に行くことになった。 ビックネームが欲しいと
言っていた。 インテルとも話を付けており、英語もネイティブ並みなので、そっ
ちに行けば、と言った。 アメリカ英語とイギリス英語も使い分けられると言っ
ていた。 どっちにしても少し山っ気のある人間で、結果的に成功したので良
しとするべき。 サイバードもネットで見たら経営は変わってしまっているが、
それなりに存続している様子だった。

ドコモは、その後有名になった夏野さんに会って、夏野節を聞いた。 若いの
に部長で、みんなジーンズを履いていて、電電公社の子会社とは思えない。 ド
コモが出来たときは完全に左遷だと思われてた。 当時の社長の名前は忘れたが、
その人が言っていた。

こっちは、ネットをずっと使っているので、ケータイのあの小さな画面で何が出
来るか? と否定的だった。 堀君も最初は出会い系など少し際物をやってい
て、その後はゲームに移ったが、ゲームがこれほど大きなビジネスにはなるとは
夢にも終わなかった。 堀君と会うたびに、ドコモに行くときにはゲームの案
を山と持っていかないといけないとこぼしていた。

技術的には真田君が居てキチンとしていた。 彼はその後、別稿で書いたがKラ
ボを引き継いで、1部上場の大きな会社になった。 株も少し買ったことがある。

堀君は、和歌山の川久が相続なのか何なのか引き継いで、うまく行かずに数十億
の負債があったようで、これを返すのが最初の目的だったらしい。

拓雄君が入ってきたので、義雄さんもその気になって、オムロンから加納君とか
何人かサイバードに参加して、急成長した。

その内に、TVで取り上げられて、NHKで延々と長時間のドキュメンタリーになっ
て、それを見た記憶がある。 その後は割と気に入っていたTVのタレントアナウ
ンサーと結婚してしまった。

その内に経営が厳しくなったのか、オムロンに厳しい要求をするようになって、
その内容を大八木さんが話してくれた。 それを小田急の新宿駅で真夜中に会っ
て話をしようとしたが、真田君しか出てこなくて、おまけに話したことがオムロ
ンに筒抜けになってしまって、大八木さんから怒られてしまった。 当事者で
経理担当役員のXXさんには迷惑をかけてしまった。

拓雄君とは恵比寿に行ったときに飲み屋でバッタリ出会ったり、地下鉄でバッタ
リ出会ったことがあるが、それっきりになってしまった。 オムロンでは広報
に居たが、退社して投資会社を作ったそうな。 サイバードで2億ほど手にした
と思う。

M2Mの時に何とか言う会社が絡んできて、そこがおかしくなってきたので、拓雄
君を紹介したことがある。
【回顧録】 残量検知 廣田石油、キャノン、醤油、三谷など
【回顧録】 残量検知 廣田石油、キャノン、醤油、三谷など
2022年3月11日 11:38:04 作成

キャノンの樹脂運搬トレーラーの残量も大分やった。 これがM2Mの最初のテー
マになった。 トレーラーの前部を持ち上げて後部から樹脂を排出する。 ト
レーラーが臨時のサイロになると言う事。 それで後部のタイヤの所に共和電業
の圧力センサーを置いて、それを計測することにした。 圧力センサーが小さ
すぎて、そこにタイヤを正確に置くのはトレーラーの運転手にとってはなかなか
難しいとのこと。 しかし一応は実用になった。

オムロンの金沢での顧客の廣田石油とはいろいろ付き合った。 灯油タンクの残
量検知のテーマで、XXさんと若手のXX君が対応した。 いろいろ実験したが、な
かなかコスト的に合わない。 最後の方で電池式のものを開発しかけたが、時
間切れで終わってしまった。

廣田石油の方も、最後は潰れてしまって、100年以上の歴史のある会社だった。
古い看板も残っていたが、社長が遊び人だったのがダメだったか。 番頭役の
何とか言う人はしっかりしていたが、少し保守的で、厳しかった。

個人宅への灯油の配送は、経験があれば、だいたい想像が付くと思ったが、新人
を使うとか外国人を使うとか、将来の人手不足を見越した対策だったと思う。

広いところで実験したいと、東北の何処か忘れたが、ペンションみたいなところ
に灯油の残量検地を付けた。 ちょうど高いところに着ける場所があり、高所作
業車も使えたので、本格的なアンテナを建てて、実験をした。 結構2�ぐらい
届いた。 退任した後に撤去したが、ペンションの持ち主は残してほしかった
らしい。 他に仙台の市内でも実験をした。 灯油をこぼしたら、その後を雪で
洗ってくれた。

サイロの高いところは全部登った。 知多半乙の何とか言う醤油屋さんのサイロ
の残量検知を大分やった。 これは電波液面計を使って、良い結果が得られたが、
時々おかしくなる。 ずっとあとでわかったことだが、タンク内部に水滴がつ
いて、それでデータがおかしくなる事が分かった。 最後は長岡の中庭にタン
クを置いて、テストしたが、水滴の問題は結局解決できずに、失敗作になってし
まった。

他の北陸の三谷さんのサイロは、サイロの足にストレーンゲージを貼り付けて、
伸びちじみを計測して、温度で補正する方式だったが、温度の補正がし切れずに、
これも失敗した。 共和電業もやってきたが、何もしないので大分怒った気が
する。 この辺りから加納君やや稲岡君が合流してきたが、あまり役に立たな
かった。

コマツの駅前にある三谷の小型のタンクもテストで良く行った。 これは油だっ
たが、結果は覚えていないが、電波液面計は注目を浴びたが、うまく行かなかっ
た。 最近新聞報道の切り抜きを見つけた。

最後の方では、大阪の南森町のエアーウォーターに行った。 どんどん競合を買
収して大きくなって、事務所には前の会社名がうっすらと残っていた。 その分
しっかりしていた。 ビジネス的にはうまく行ったと思う。 今でもエア・ウォー
ターは生き残って優良会社になっている。

【回顧録】 京都産大 大西君、先端大 永守氏
【回顧録】 京都産大 大西君、先端大 永守氏
2022年3月11日 11:17:00 作成

OASが出来てしばらくした後、京都府から研修で1名送るからと言われてやってき
たのが大西辰彦。 アチコチ連れ回して、こっちの遊びもあったが、ラスベガス
に連れて行って、ゴルフをした。 遠くで雷が鳴りだして、一緒に行ったタッ
クさんは怖がって引き上げていった。

その後、産業21に移った後、連絡してきて、お礼にとご馳走してくれた。 その
時は京都府を辞めて、亀岡の京都何とか大学に居た。 ここはその後永守さんが
買収して、先端大学になった。

彼とは時々会ったことがあるが、スタンフォード日本のXXさんの傘寿の祝いでも
一緒だった。 あまり口を利かないのが意外だった。 その後、例のモリカケの
カケ学院の京都への誘致に絡んで、京都産業大学の副学長に収まって、この時の
提案書を書いたらしい。 もちろん彼なので、それなりの提案書だったので、
評価も高く、京都に持ってくる話も現実的になったが、山田知事が否定して終わっ
てしまった。

今見たら、当然の副学長では無くて、経済部の教授になっていた。

永守さんは、試作センターにに出資してくれたし、その時から少し社会貢献に気
が付き始めたころだった。 一度講演を聞いたが、その時に出てきたのが天橋
立大学。 北部でやったので、こういう話題にしたと思うが、天橋立大学では誰
も来ない。 もっと知名度を上げないといけない。 日本電産では、就職しよう
としても親が止めるので、もっと知名度をあげないといけないと言う話のマクラ
だった。

それがとうとう本格的な大学を作ってしまった。 当時、私は年に355日働く、
今年からは元旦も初詣した後は、会社に行くので、365日になったと誇っていた
が、最近の働き方改革で、宗旨替えをしたらしい。

始業の30分間に会社に来い、車で来て駐車場に待っているときに、出て来いと言
いに行くとと言うような、当時でも明らかな労基法違反を堂々と公言していた。
一緒に居た山下氏も呆れると言うか、また言っていると苦い顔。

いずれにしても、買収した会社の伝票を全部見ると言うようなことで会社を伸ば
してきたが、社長の後継に躓いている。 少し前に日産から引き抜いて社長に
したが、これもダメ。 最近も日産の副社長を引き抜いて、今度こそとなったが、
これも結局ダメになった。 創業者に引き抜かれるのは、うまく行った試しが
ない。 自分でも経験があるので、別稿で書くことにする。
【回顧録】 OMRAC-16とトータリゼータ
【回顧録】 OMRAC-16とトータリゼータ
2022年3月11日 10:52:21 作成

岩本さん主導で、GA(ゼネラルオートメーション)のコピーでOMRAC-16を作ったが、
ハードは交通のプロ集団が居たので、この時はシステム屋さんになっていた。
別稿でも書いたが、成田パイプラインシステムと他にはトータリゼータが自前で
やったシステムだった。

トータリゼータは、競輪のオッズ管理システムで、当時は全国47都道府県にそれ
ぞれある競輪システムを取れば大きなビジネスになると言う事だったが、笹川系
列の日本トータリゼータと言うのが競馬を含めて独占していて、政治力もあり、
交通の渡辺さんが持ち込んだと思うが、全く歯が立たなかった。

結局、入ったのは、向日町競輪と観音寺競輪ともう一つ東北の何処かだと思う。
競輪の着順が決まった時に電光板にオッズを表示する機能だが、フリーズは許さ
れず、下手すると暴動になると脅かされた。 それでCPUのラックを2本立てて、
待機システムにしたが、落ちる原因はハードでは無くてソフトなので、落ちると
きは同時に落ちる。

当時の伝送は直結の垂れ流しのモデム信号だったので、両方のCPUに入力して置
き、どちらも同じ処理をして、片方が落ちたときは、出力をリレーで切り替える
ことにして、なるべくシンプルなシステムにした。 ソフトはOSKの松尾君では
なかったかと思うが、ソフトはほとんどタッチしていないので、中身は分からな
い。

一度は向日町競輪に参観に行ったのか、クレームだったのかは忘れたが、ここで
初めて競輪を見た。 監視所から見ていると、着順は予想したとおりになった
が、いざ車券を買うと当たらない。 面白いものだと思った。

競輪は前節と後節の2週間の一部だけしか開催されないので、その間だけシステ
ムが持てば良いことになる。 出走のまえには、コースを一列に並んで箒で掃く。
すごい人数が働いており、2000人とか言っていたが、地方自治体の雇用対策の一
部だと思った。

向日町競輪場も閉鎖されてしまって、全国でもあまり残っていないのではないか。
あとは競馬と競艇。 競馬は場外売り場もあるし、前売りもあるので、システム
は複雑。 国鉄のMARSに近いと言われていた。
【回顧録】 モトローラとインテル、日立
【回顧録】 モトローラとインテル、日立
2022年3月11日 10:00:00 作成

日米半導体交渉の結果、日本はアメリカの半導体を一定数輸入しないといけない
ことになった。 しかも当時出遅れていたモトローラを輸入しないといけないこ
とになって、オムロンで使う半導体、特にCPUはモトローラに全面的に切り替わっ
た。

当時はハードの設計をやっていたので、ハード的にはインテルが使い安かったが
ソフト的にはモトローラが上だった。 モトローラはDECのミニコン並みの命令
セットがあったが、インテルは少し下のマイクロコードに近いコードしかなかっ
た。

ハード的には、メモリをアクセスするタイミングが厳しくて、インテルは緩かっ
たので、設計は楽だった。 しかし決定的な問題は、品質に対する姿勢であっ
た。 モトローラはバグが減るまでサンプルも出さなかったが、インテルはバ
グだらけの、ほとんど動かないチップでもサンプル出荷してくれた。

インテルとの出会いは初期のころで、8008と言う8ビットのチップがあった。
その前は4004と言う4ビットだったが、両方とも使ったことはない。 ある時に
鎌研の鎌田さんが汚いコピーを見せてくれて、今度8080と言うクロックが20マイ
クロから2マイクロになる画期的なチップが出ますよと教えてくれた。 それで
注文するとインテルのあの青色のデザインでキャラメルの箱ぐらいの中に直接チッ
プが入っていて、開けるとゴロンと出てきた。

鎌田さんに1個しかないのか、と聞くと日本に5個しか入らなかった、そのうちの
2個はオムロン、1個は中研、1個は草津のバンキングと言われた。 それを元に
私はOMRAC-8を作り、草津の恐らく西村さんはOMRAC-Bを作ったのだと思う。

当時のオムロンは、CPUの大量消費会社で、一説では200種類、2万個と言われて
いた。 それで日本で5個のうち2個もくれたと思う。 鎌田さんはその後鎌研
を作ってインテルは辞めたと思うが会っていない。

別稿でも触れたと思うが、4ビットはロックウエルのPPS4と言うチップを使った。
これは複合命令があって、なかなか面白い命令セットだった。 このロックウ
エルが後にアーレンブラッドレーを買収して、オムロンと協業するようになると
は夢にも思わなかった。 当時のロックウエルは軍需産業と言う側面が非常に
強かった。

サンプルがなかなか出てこなかったので、本社のあるオースティンには良く行っ
た。 時間が取れないと言うので、朝の7時から打ち合わせたこともある。 こ
の時のチップは68000の32ビットだった。 工場にはシックスシグマと言う垂
れ幕がアチコチにあって、品質改善運動が盛んであることが分かった。

チップの型名は通常MCで始まるが、ベータ版はXCで始まる。 結局XC68000 が続
いて、MCになることはなかった。

モトローラのCPUは6800、68010、68020、68030と16ビットが続いた。 ソニーの
NEWSは68030を2個使って、片方はDMAに使ったらしくて、デュアルCPUと宣伝して
いて、1CPUしかないLUNAの営業は、そこを突かれて泣いて帰ってきた。 もっ
ともLUNAは開発期間とコストを削減するために、DMAは持たずに、PIOでディスク
を読み書きしていた。

読み書きのBIOS部分だけアセンブラで書いて、キャッシュに収まるようにした。
しかしプロセスが少ないうちは良かったが、多くのプロセスが走ると、一気に遅
くなった。 プロセスがこんなに多く走るとは思っていなかった。 現在のPC
でも3桁の数のプロセスが走っている。

ある時は、半導体のトップのマリーゴールドマンと合う話になって、市原さん、
何とか大海さんなどと訪問したが、名前の通りにユダヤ人で、当日は何かの日に
当たっていて、日中は面会が出来ず、ゴルフをして時間を潰して、夕方から打ち
合わせをした。 ちなみにこの時のゴルフは散々で、途中で止めた。

68000はなかなか出てこなかったが、ある時101を車で走っているときに電話かラ
ジオか忘れたが、インテルがPentiumを出荷したと聞いたが、その出来は良くて、
あまりバグが無かったそうだ。 この時に勝負はあったなと感じた。 その後
はPentiumの独壇場となった。 インテルは8080、8086、8186、8286、Pentium、
386、486と続いて現在に至る。 途中からAMDが独自CPUとコンパチCPUを出し始
めたが、ずっと低迷していたが、最近とうとうインテルを超え始めた。30年ぐら
いかかったことになる。

初期に入手したインテルの8080もバグがあって、当時はチップにバグがあると言
う前提は無かったので、試作してみるとDMAがおかしい。 何をやってもダメな
ので諦めていたら、結局チップのバグで、その後改善されて8080A となった。

68000はその後日立に移管されて、日立が製造することになり、それまでの10MHz
のクロックっから12.5MHzに25%アップした。 これは純粋にコンピュータの速
度が25%アップすることを意味していて、LUNA、LUHA ll は同じく68000を使っ
ていたSUNやSONYに対して高速であると言う事を売り文句にした。

しかし初期の日立の高速の68000にも弱点があって、メモリのアクセスタイミン
グで、内部のグラウンドラインが弱くて、スパイクが出てしまう。 何とか外部
回路で切り抜けようとしたが、元々厳しいメモリアクセスタイミングなので、安
定的に対策することは出来なかった。 最終的には日立がグラウンドラインを
強化したチップを出すことになった。 数が他の半導体ほどは出ないので、変
更コストをどう吸収するかが問題だったらしい。 担当の部門から長岡にやっ
てきて、逐一説明してくれた。 ここまで来るのに結構時間を費やした。

高速CPUの延長線で、4CPUのマルチCPUワークステーションを作って、100MIPSを
売りにした。 秦野さんも、分かりやすくて良いと褒めてくれた。 これは
X-Windouwプロジェクトに持ち込んで主導権を取ったり、CMUに寄贈して、それが
NHKのアインシュタインロマンの番組に使われたり、DGCやモトローラとの関係で
優位に立てたと言う側面はあったが、ビジネス的には余り貢献しなかった。
LUNAの小さい筐体に詰め込んだので、電源と排気に苦労して、安定度は高くなかっ
た。 しかしソニーのNEWSも不安定で、オムロンのFEが現場で手直しを手伝っ
たと言う話もある。

ちなみに現在のアップルキャンバスの南の方にモロローラの事務所があった。
そこで何かの打ち合わせをしたと思うが、その後サンフランシスコ地震でダメー
ジを受けたらしくて、取り壊して、現在のアップルキャンバスになった。 それ
まではクパティーノの真ん中にアップルタワーはあったが、他の事務所は周りの
事務所に分散していて、そこら中にアップルマークがあった。
【回顧録】 電力線通信とスーミンチェン
【回顧録】 電力線通信とスーミンチェン
2022年3月10日 11:00:31 作成

ずっと以前から電力線通信のテーマはあった。 電力線にモデム信号を流して通
信するが、電線は3線式になっている場合が多く、線路が違うと隣どおしのコン
セントでも通信できない。 また家の中は良いが、外に出るとそこは電力会社
の持ち物なので、自由には使えない。

ある時、山鹿の渡辺さんがやってきて、電力線通信を屋外でやるのにアドレスの
割り振りが必要になるので、この割り振りをする組織を作って、そこで儲けよう
と言う話があった。 渡辺さんは山っ気の多い人で、TOTOにも絡んでいた。
その前は競輪のトータリゼーターにも絡んでいたので、私の所に来たらしい。
トータリゼーターは別稿で書くことにする。

町田の通信研究所で担当していたが、はかばかしくないので、技術導入すること
にして、探すとボストンのユダヤ人の社長の会社を見つけた。 これもミリ波の
白水氏が見つけてきたのかもしれない。

それで町田で打ち合わせをすることにした。 昼食になってユダヤなので、食材
に豚とか使ってはならない、豚を調理した鍋や調理用具を使ってはならないと言
うので、持ってきたお吸い物は大丈夫かと言う話になったが、持ってきたセクレ
タリは胸を張って、インスタントですと言ったのが、面白くて、未だに鮮明に覚
えている。

この時に一緒に来たスーミン チェンと言うのとサンフランシスコで夕食をたべ
た。 フィッシャーマンズワーフの何処かの突き当りのレストランで、思い出さ
ないが、ここで6時から12時まで、ずっと話ぱなっしだった。 当たりが柔らか
くて、なかなか気が合う人間だった。

何を話したのか全く覚えていないが、リフレッシュ休暇の前だったので、何処か
良いかと聞いたら、イギリスのマーゲートを教えてくれた。 それでリフレッ
シュ休暇のときにわざわざそこまで見に行ったが、長い海岸線の砂浜で、一見し
ては普通の海水浴場だった。 しかし言われないと行く気にはならない。

トムメイスにも聞いたが、彼はフランスのアヌシーを推薦。 ここもパリから
の夜行列車でオーストリーに抜ける時に一時下車して湖を見に行こうとした。
しかし適当に歩いたので、駅の反対側にでてしまって、次の列車の時間が迫った
が、駅に戻ってタクシーを捕まえて、湖の所を回ってもらった。 これで車中
から眺めて、次の列車にギリギリ間に合った。

その次はシャモニーに行った。 国境を越えるところでパスポートのチェック
があったが、乗客は20人ぐらい。 その中におばさんが居て、てっきり中国人
だと思ったら、パスポートチェックで出してきたのは日本のパスポートで、どこ
からきたのかと聞くと北欧からずっと回ってきたとのことで、一人旅のおばさん
も凄いと思った。 こちらも一人旅のおじさんだった。
【回顧録】 アポロ11号
【回顧録】 アポロ11号
2022年3月10日 10:34:56 作成

1969年7月24日16時50分35秒 (UTC) アポロ11号は月面に着陸した。 まだ学部学
生のころで、祐源などが阪大に居た時期で、この着陸の実況は、阪大の研究室で
夜中に見たと思う。 他に2‐3人居たと思うが忘れた。

ケネディが月に行くと宣言して、10年でそれが実現。 やらないといけないこと
は多いが、月と言う非常に分かりやすい目標が良かったと思う。 しばしば目
標設定の好例として紹介している。

あの頃がアメリカが一番輝いていた頃だと思う。 あの時の大型の車もその後は、
日本で走っているような普通の車になってしまった。
【回顧録】 Wnn開発 と顛末
【回顧録】 Wnn開発 と顛末
2022年3月10日 9:41:49 作成

Wnn誕生のいきさつ
Wnnの開発の歴史などについては、「Wnn関係用語集」の中で非常に詳しく述
べられています、そちらをご覧ください。 私も知らないことが詳しく書かれて
います。 開発を開始したのは1985年でその時は私も沢山、類似のものが出てい
るので既に開発タイミングとしては遅いのではないか、と実は反対した方なので
すが、本命のGMWと言うウインドウシステムのコンセプトの一つが国際化だっ
たのでその最初のインプリメンテーションが日本語と言うことでしぶしぶ? 開発
がスタートしました。

開発初期の生々しい紹介記事を発見しました。 著者は当然の事ながら、Wnn
の名前の由来になった中野さんです。 現在でも良く言われている産学協同の原
点を見る思いがします。

いつだったか正確な時期は忘れましたが、それなりに開発が一段落した頃、主
要なメンバーが集まって、たしか中華料理屋で丸いテーブルを囲んでビールを飲
んでいたとき、誰からともなく、フリーソフト(当時はPDS-パブリックドメイン
ソフトウエア)で行こうと言う話になって、その場でアット言う間に決まってし
まいました。 これが現在のWnnの誕生の直接のキッカケです。 もしこの時、
クローズなものにすると言うことであったなら、現在のWnnは存在しなかった
と思います。

それで1987年にWnn2として世の中に誕生したのでした。 それからも、順調
に進んだわけではなくて、担当する技術者が一人になってしまったこともあり、
苦難の道程でした。

Wnn95
幻の「Wnn5」に引き続き「Wnn6」を開発しましたが、これは UNIX ワー
クステーション用で、従来のものを商品化しただけで、そんなに大きな変更はあ
りません。 むしろPC用に開発した「Wnn95」が大変でした。 元々Wnn
6にはPC用のクライアントを同時に開発していましたので、それがベースになっ
ています。 基本的なコンセプトは従来のWnnユーザに便利なように考えられ
ています。 従って Mule のキーバインドが入っているのです。

その他は、開発している自分自身に便利なようにしてあります。 当然開発者は
同時にユーザそれも技術者としてのユーザですから、PCを使う人全員を対象と
するのではなくて、技術者を主な対象としてあります。 このため、英語を使う
機会が多いために「日英まるごと変換」などのアイデアが生まれてきました。
これの究極がこのあと述べる「eWnn」なのです。

それなりに自信を持って送り出したWnn95ですが、某MS社が同様のものを
出してきて、MS社は自社のOSにバンドルしているので、こちらは非常に不利
です。もっと明確に違いの出る機能が必要と痛感しています。

日本マイクロソフト
その時期に、増田専務、大八木さん、私ともう一人ぐらいで、日本MSの当時の社
長の成毛眞に逢いに行きました。 メインはファジーでしたが、成毛氏はWnnに興
味を持って、いろいろ探したがEWSの分野は探さなかったなあとか独り言を言い
ながら興奮して立ち上がって話していました。 どうも自社で作らずに、導入
しようとしていたらしいのですが、同席していた開発部門長は否定的。 どうも
既に開発が進んでいて、後のMS-IMEが出来る寸前だったようです。

これで導入されていたらビジネスになったのですが、少しタイミングが遅れてし
まった。 しかし、成毛さんが興奮して立ち上がったと言うことが、オムロ
ンでは驚きを持って受け取られて、しばらく話題になりました。

EWSそのもののビジネスが終わった時に技術として残ったのは、Wnnだけでした。
他はライセンス導入とかだったので、やはり自前の技術は持っておかないといけ
ないと確信しました。

実は、EWS開発の中ではIMEは必要だが重要ではないと言う認識で、ソフトのメイ
ンはOSとウインドウシステムでした。 当時の所要メンバーの萩野さんとか萩谷
さんとか桜川さんとかは、こちらに注力して、IMEは院生の名前はわすれました
が、京大のなかでは2軍の学生が担当しました。

ケータイのWnn
EWSの事業が収束したあとに、WnnはOSKに移管され、そこで最終的にPanaのケー
タイのIMEに採用されました。 その流れで、スマホのIMEの中にWnnが生き残っ
ています。

XーWindow
MITのシャイフラーが主導していたX-WindowシステムにもIMEの概念が取り入れら
れ、その結果ディストリビューションテープにはずっとWnnが同梱されていまし
た。

世界初の日本語処理
リフレッシュ休暇が終わったころ、OSKの和賀さんがやってきてWnnをビジネスに
しませんか? と言ってきた。 Sunに売り込んでいた時だったので、これが成
功したらやりましょうと言っていたら、ある時またやってきて、成功しました、
ライセンス料3億です。 と言うのでビックリして、それからWnn5をやめて、Wnn6
にしました。 ロゴもソリデックでデザインして、目立つショッキングピンクを
一部使いました。

この後、中国語、台湾語、韓国語を加えてアジア圏でSun-WSで日本語が使えるよ
うになりました。 ある時ASRか何かのセミナーがボストンで在った時に、富士
電機か何処かの人に声を掛けられて、増田さんですよね、ありがとうございまし
た、日本語がWSで使えるようになりました。と言われてびっくりしました。

結局PDSのWnn5は幻になり、製品版はWnn6になり、OSKから発売されるようにな
りました。 担当も技術力はあるXX君からまとめるのがうまい長岡君に変更した
ので、XXっ君には恨まれましたが、その分製品としてはまとまったと思います。

MS-IMEとの比較、変換精度
換効率に関しては数字の上ではWnnが勝っていますが、体感的にはほとんど
変わりません。 ただ、長期間使っていると、MS-IME の方は変な変換をする確率
が高くなります。 これは、変換をするときには必ずしも正しい変換結果で確定
している訳ではありません。

現在のAIと似たようなところがあって、学習頻度を上げないと精度はあがらない
ので、一時はアルバイトを10人ほど雇って、毎日発行される新聞を片端から叩き
込むと言うのをやりました。 力づくですね。

またオムロンの上位職特に役員の名前は覚えさせました。 役員に試しに使わせ
ると、ほとんど自分の名前を変換してみるので、ここで正しい変換が一発で出な
いと評価が一気に下がる。 つまらんことだが重要なことです。

シャープのワープロを使っていると、平群とか言う難読地名が一発で出ます。
やはり地場の地名は入れておくべきとその時に実感しました。 変換で一番難し
いのは地名や名前です。

時々と言うか、よくやるのは間違った変換結果で思わずリターンキーを押して
しまって確定する場合です。 Wnnには「じわじわ学習」とか「すぐ学習」と
かが設定できて、1度や2度間違ってもそれは学習しないようにしていますので、
このような事は起りにくくなっています。

しかし、これはある程度使い込まないと分かりませんし、設定の画面も分りや
すいとはとても言えませんので、この辺の改善は必要です。 また、使い初めに
は、物覚えが多少悪いという印象を与えるのも、問題です。
この他にも、変換の最初の時にディスクからかなりのデータをアクセスしなけ
ればならないので、ノートブックなどCPUの遅いマシンではかったるい印象を
与えます。その次からは速くなるので問題はないのですが、初期の印象が良くな
いのは問題です。 これは最新のバージョンではかなり改善されてますので、ダ
ウンロードして使ってみてください。

この他にもワンキーでFEPのON/OFFが切り替えられるとか、入力画面で自動
的にFEPがON/OFFするとかの機能があるのですが設定が分かりにくいせいか、
あまり使われていません。この辺の改良も必要と思っています。

eWnn
上で書いたように、eWnnは「技術者がうれしい」ような機能と言うことと、
Wnn全体のコンセプトである「国際化」の両方から生まれました。 最初の発
想はスペルチェックです。 いつも不安を抱きながら、またあるときにはこの方
がふさわしい言葉のはずがスペルに自信が無いので別の言葉にするような事が頻
発していました。

しかし、スペルチェックだけではワードにも入っていますし、どこにでもあり
ます。 また綴りが正しくても同じような言葉は多くあってどれが正しいのか分
からないと言うこともあって、ディスクの消費は物凄く大きいのですが、本格的
な辞書をつけたのです。 おそらくこの辞書の価値だけでもeWnnの小売価格
で十分元がとれると思います。

しかし、FEPでアルファベットを入れるという従来に無い操作を行うわけで、
この点がもっとも気掛かりでありました。 従って、いかに自然に、違和感無く
アルファベットが入れられるか? と言う点にかなりの時間を裂いています。 当
然 Last 10 minutes で直したところも多くあります。 今の「minutes」と言う
のもスペルに自信がないのでeWnnを起動して入れました。 (^ ^;

ちょっとした、例えばボックスに記入するときにもスペルチェックが使えるの
は本当に便利なものです。最近ではWebのCGIで何かを記入しなければならない場
面が多くなっていて、こう言うときにも威力を発揮します。

日本だけでは心もとないのでアメリカにいる日本人にも使ってもらいましたが、
結構と言うか予想より良い評価をもらっています。 現在でも簡単な文法チェッ
クは付いてはいるのですが、もっと本格的な文法チェックを望む声も多く、実は
私もその一人なのですが、そう言う方向に持っていきたいと思います。

その後アメリカの展示会にも出品したのですが、あまり反応は良くなかった。
新しい概念を浸透させるには時間がかかると実感しました。

日本語の弱点
会議などで、議事録をPCでリアルタイムで入力している場面がありますが、日本
語でFEPを使うと、どうしても変換候補を選択するために画面を見ないといけな
いです。 その点英語なら、完全にブラインドタッチで入力しています。

それで日本語の会議でPCを使うとどうしても下を六してしまう場面が多いので、
会議ではPCの使用を禁止しました。 もし使うなら、完全なブラインドタッチ
で下を向かないと言う条件も付けました。

それにしても、最近のPCでも変換効率は非常に悪いです。 Wnnの初期と変わらな
いのではないかと思います。 一時は上がったのですが、それから落ちたイメー
ジがある。 どう言う観点で開発しているのか一度メーカーに聞いてみたと思
います。 音声入力ではそれなりの変換をしているので、単にアプリとの連
携だと思うのですが、これだけ時間が経てば、何らかの進展があっても良いと思
います。 専業のATOKですら、まともな変換が出来ない、MS-IMEと連携できる
はずのWordでも進歩がありません。 不思議な状況があります。

「つくって」とやると「付くって」と出る時がある。 こんな変換は変換順序の
問題で、いくら間違ったキャッシュが効いているとしても、おかしいと思います。
【回顧録】 ゼブラプロジェクト
【回顧録】 ゼブラプロジェクト
2022年3月5日 17:21:37 作成

これに関しても別稿で触れたと思うが、ここでまとめておく。 コンピューター
を作りたかったが、グループでやりたいと思って、DGのメンバーを中心にプロジェ
クトを立ち上げようという事にした。 モトローラのチップをベースにコンピュー
タアーキテクチャを作ろうと思ってゼブラプロジェクトというの作った。

これはトムメイスの命名で、それまでは名前がなかった。 メンバーはDGCとと
オムロンとモトローラぐらいでスタートした。 それで最初のミーティングは当時のレッドライン、
今は別のホテルになってるみたいだが、そこでミーティングをした、まさにその
夜に、Apple・IBMのアライアンス記事がドンと出たが、次の日は誰も何も言わな
かった。

しかし契機に、そのプロジェクトは自然消耗してしまったその時に一番最初
に私がプレゼンしたのだが終わってやれやれと思ったのと時差ボケで、寝てしまっ
たらしい。 そこは人見君が一緒に居た。 原稿は何とかいうアメリカ人に手
伝ってもらって修正した。

それで結局オムロンが単独でやることになってしまって、これは秦野さんにえら
く怒られた。 その後チップを起こして、日本DGで製品化した。 DGの手塚く
んが中心になって作った。 チップのそれぞれにセレスとか小惑星の名前を付
けた。 その後PCではノースブリッジ、サウスブリッジのようなチップになっ
て行った。

日本DGは最初のNOVAを赤城さんが中心に作った会社なので、オムロンよりは非常
に技術レベルは高いと思うが、買収した時は400人ぐらいの若い技術者が居たが
結局10年ぐらいたつと、みんな10才歳取ったので、使い物にならなくなってしまっ
た。

越尾市原ラインで田口君とか後藤くんとかが入り込んでやっていたが、あとで考
えるとみんな経営センスがなかったので、潰れてしまって、IBMに身売りした。
年度計画の発表の時、越尾さんがヨットの絵を持ち出して、このヨットは風を受
けている、これは沈没寸前とか言い出すので、その時からおかしいと思っていた。

私も取締役に入っていたが、中身は良く分からない。 特に子会社の取締役会は、
意味が無いと思う。 田口君が何かの償却をするために、年度を短くして元々
12月だったのを、オムロンに合わせて3月にしたのを、また12月に戻していた。

いずれにしても、そう言う小技は良いが、営業的な経営は不在だったと思う。
最初の買収の時に、極秘で何処かのホテルで、面談したときは、誰が営業で、誰
が技術か見分けがつかなかった。 一番はっきりしていた赤城さんは技術だっ
た。 その時の営業担当は、後に辞めてユニシスで営業をしたが、成績は物凄
く良くなったとのことで、やはり経営に問題があったと思う。

そののち自分でもM2Mと試作センターと父親の相続で、大分その辺が身について
きたと思う。 もっと大規模な経営は無理だが、中小企業なら何とかなると思う
ようになった。

別稿で書くが、試作センターはそれなりにうまく行ったと思う。 後任がダメ
で潰れてしまった。
【回顧録】 OASの設立と駐在員、その後
【回顧録】 OASの設立と駐在員、その後
2022年3月5日 16:37:14 作成

別稿でも述べたが、クパティーノのアパートでとりあえずの事務所をスタートし
たが、ここではオフィスは無理なので、その向かいのビルでオフィスをスタート
した。 Uホールを借りて、そこの近くのショッピングモールでデスクとか壁に
かける絵とかを買い込んで、事務所を立ち上げた。

その後も新しい事務所に行くと、その時に買った絵が飾ってあって懐かしいと思っ
た。 社員はまずTAKさんが副社長でベースにして、後は公募したが、一人は
ユタの人で例のモルモン教で、これはソルトレイクまで会いに行った。 その時
に例の常温核融合の記事がUSAツデイの1面に出ていて、それをホテルの朝食の時
に見てびっくりした。 マーク高浜はこれはどうやって来たのか、覚えていないが、
結構しっかりしてそうなんだけど、ちょっと胡散臭くて奥さんが中国人でなかな
かとらえどころがない。 他はベトナム人の女の子を雇ったり、オムロンから
いろいろな人が送り込まれてきて、梁山泊みたいになってしまって、ちょっと管
理が行き届かずに、最後はOAS を縮小するすることになってしまった。

その時にトラブルになって逆ロックアウトみたいなことになってしまって、その
時はたまたまリフレッシュ休暇でいなかったので、ますます事態をややこしくなっ
て、結果的に空中分解してしまった。 休暇の終わりにヨーロッパから戻って
くるとマンションの荷物が無くなっていて、みんな持ち出されてしまっていた。

その後はしばらく運用されていたが、最終的には閉めてしまった。 オムロンは
なかなかベイエリアではうまくいかないと思う。

私も日本とアメリカの2週間づつでマネジメントが疎かになってしまった。 最
後のころは、何とかしてくれと管理の高橋氏に言っていたが、言っているうちに
トラブルになった。

スタンフォードの南隣のゼロックスPARCの近くのビルに入っている有名な弁護士
事務所に頼んでいたが、どうもマッチポンプになっていて、どんどん問題は大き
くなる。 最後はOMCAの会社の弁護士が介入してきた。

その間に、アメリカから担当の弁護士から電話があって、しばらくは話していた
が、段々と思い出して、言葉がきつくなってきて、3者通話でそれを聞いていた
オムロンの弁護士が、思い出させてすみませんとと言っていた。 何百万か払っ
て決着したと思う。

今では知らないが当時の雇用は、入社の時に訴訟はしない、必ず仲裁を先にやる
ことと言う条項が入った就業規則にサインしないと入社出来ない条件になってい
て、この仲裁は費用は相互持ちなので、本訴訟に進んでしまわない防波堤になっ
ていた。

OASの高名な弁護士事務所の女性の弁護士だったが、ある時に北浜と言う日本料
理屋に招待した。 これが2人でやったので、後で考えてぞっとした。 悪意が
あればどうでもなった。 少なくともタックさんを入れておくべきだった。

OASの後半から、日本の研究所の技術者を定期的に送り込んだ。 サラトガのリ
ンガーハット近くのコンドミニアムに泊まらせて、いろいろなプロジェクトに参
加させた。 これがその後どう役に立ったのか、イマイチ不明だが、そのDNAを
言ってくれる人も居た。

その後サンノゼ研になり、元居たサンノゼの大阪府のオフィスが空いたので、居
抜きで借りて、そこにみんな入った。 増田専務がやっていたので、ここが気に
入ると思って推薦した。 大塚さんが現場を仕切っていた。 私が元居た角部
屋はハリー井上氏が入った。 ここはみんな連れだって昼食に行ったり、群れ
たがるので、私はあまり寄り付かず、別の事務所を作ったが、反対されて潰れて
しまった。 板挟みになったのは矢野君で、彼はその後は中国にもやられてい
た。 名前は忘れたが、アメリカ駐在にした研究員が居て、駐在前に急遽結婚
して行った。

ハリー井上はずっとシカゴに居たので、アメリカを良く分かっていて、教えなく
てもちゃんとクパティーノに住居を定めていた。 ここは黒人が居ないし、当時
は日本人が多かったので、学校のレベルも高かったらしい。

南のサラトガは邸宅が多い。 サニーベールはそれなりで、101の東側は良くな
いところで、今は良くなっていると思う。 だいたい住んでいるところで判断
するのがアメリカ。 スタンフォードの西側のサンド何とかにはインベスター
が多い。 サンアンドレアス断層で細長い湖になっているが、その西の山は高
級住宅で、金持ちしかいない。 道路から見えるところはダメだそうな。
ここで葡萄を栽培して、それでワインを作って振舞うのがベイエリアで成功して
隠居した金持ちのスタイルだそうな。 一度信雄さんを連れて、ジョージ原の
パーティに行ったことがある。 夫婦とも喜々としてやっていた。 政府の参
与にもなり、時々TVにも出てくるが、胡散臭いと思う。

弟はケントと言うが、鶴橋の小橋に事務所があって、何処か忘れたが、一度行っ
たことがある。 父親はコクヨの専務で、いつも和服だった。 子供のころか
ら鉄道模型が得意で、小学生のころに作ったのは信じられないくらい出来が良い。
ある列車と言う模型もあって、このテーマで旅行も企画されている。 それなり
の家系なのだ。

駐在の人は多いが、制御の松XさんはシカゴのOEIに家族で駐在していたが、アメ
リカで生まれた子供は英語しか話せなくて、その後も英語で育って、日本に戻っ
ても適応しなかったそうな。 子供が英語をメインで話すのは違和感がある。

小さいうちの英語はすぐにもどるが、分岐点は13ー15歳ぐらいにあると思う。
この辺を過ぎると頭が固まる。 綺麗なバイリンガルの人には、親に感謝と言っ
ている。 ちょうどこの頃に、バイリンガルでうまく育てると良いが、ほおって
置くと、どちらかに傾く。

サンノゼ研の後は、OASを含くめて撤退したのではないか。 その後は良く知ら
ない。
【回顧録】 アーレンブラッドリー/ロックウエル
【回顧録】 アーレンブラッドリー/ロックウエル
2022年3月5日 15:51:32 作成

オムロンがアメリカでの制御分野でのビジネスを加速するために、アーレンブラッ
ドレーを買収したロックウエルと協業しようと言う話になっていた。 ロックウ
エルは戦闘機も作っていた会社なので、最初はビックリした。

ビジネス的には、本来はアメリカはロックウエルに任せて、中国アジアは日本に
任せてほしかった。 ヨーロッパはシーメンスが強くて、今は手が出ない感じだっ
た。

ビジネスはそれで良いとしても、技術的になにかプロジェクトが出来ないかと模
索した。 ロックウェルのロサンゼルスの事務所へよく行った発端はロックウ
エルの副社長が日本に来たので、そのメールが分かったので 面会の依頼
をしたら、メールの時間を見たら夜中に彼は返信してきたので、すぐにロスの北
のほうにある研究所に行くことになった。

ある時担当者が忙しいこれからヘリでロスのダウンタウンの反対側のオフィスま
で行かないといけないというので、ちょっと大げさに言ってるのかと思って出て
きたら、ヘリコプターがパタパタと飛び立っていく途中で、本当だったんだと思っ
た。

そこの所長の部屋の窓からは遠くの方に滝が見えて非常に綺麗なとこだった。そ
れで何回かやってるうちにトムライトという担当と一緒になって色々画策した。
ある時る電話がかかってきて、社長が会いたいと言うのでを延々と車でシカゴ
からミルウォーキーの本社まで行って、そこの非常に重厚な雰囲気の社長室
に通されてそこで社長と VP 副社長と3人で話をして、とりあえず私の持論
であるビジネスと別に技術的な提言をしよう、それでリアルタイムのOSの
開発を一緒にやろうということを提案したのだが、なかなかうまくいかない。

当時のオムロン側の責任者だった作田さんがあまりいい顔しなくて、あんまりウ
ロウロするなと忠告されて、その後IT研のをクビになったんではないかと思う。

しかし結果的にその後は越尾さんが担当したが、結局ロックウエルの製品を仕組
まれただけで、面白いことにはならなかった。 その後もトムライトと一緒に外
されてしまった。

アメリカも自動車業界には入れたが自動車業界もだんだん下火になってきて
結果的に皆しぼんでしまったと思う。
【回顧録】 リアルタイム OS とマイクロソフト
【回顧録】 タイトル
2022年3月5日 15:39:39 作成

オムロンは制御機器の会社なので、リアルタイム性を持った汎用機器が出来ない
かといろいろ動き回った。 結局ミドルウエアである DCOM 後のCOMをリアルタ
イム化すると言う事で、その技術が在ったところがコンパックに買収され、さら
にそれがDEC、後にHPに買収されて、それを追いかけた。 最後はMicrosoftな
ので、マイクロソフトに電話をしかけた。 やっと担当を捕まえると、それが
日本人で、日本語で話すとニュアンスまでわかる。 しかしリアルタイム部門
はわずかでトータルで数人しかいないとのことで、マーケットサイズを聞いてい
たが、やる気はない。

以前にCMUのMachのトップをやっていたリックラッシドは、その後先端技術担当
のVPに収まっていた。 その後のOSにMachが入っているのではないかと言われ
ていた。

その後ロックウエルとの連携のネタにリアルタイムを考えていたので、子会社の
ロックウエルソフトの社長が日本に来た時に散々追いかけたが、最後は逃げられ
てしまった。 IBとの板挟みになっていたのだろう。

カナダのQNX という会社の OS も面白かったので、これを採用しようと思って、
持って帰ったがなかなか良い反応を得られなかった。 それで断りに行ったら、
たまたまクリスマスイブの日で、女のVPに非常に冷たく対応された。
【回顧録】 Apple クローン、ジョブズ、ビルジョイ、ゴスリン
【回顧録】 Apple クローン、ジョブズ、ビルジョイ、ゴスリン
2022年3月5日 15:22:08 作成

アメリカ活動の初期のころ、ロッキ尾崎が言い出して、アップルPCのクローンを
作ると良いんではないかと言う。 当時の IBM PC はクローンが沢山あって、
と言うか本屋に行くと回路図から何から何まで書いてある本があったので、クロー
ンはすぐに作れる。 IBMもこう言う例外的なことをたくさんやったので、
IBM-PCは成功したと思う。 後に発祥の地のボカラトンに行ったことがあって、
見ておいてよかったと思う。 メインフレームからの大変身。 その後責任者
が飛行機事故で死んでしまって、IBM-PCも下火になった。 その後ガースナー
がCEOになって、今度はサービス会社に大変身。 巨像も踊ると言われた。

しかし当時はアップルクローンがなかったので作ると面白いと言うことで色々基
礎となる技術を探しまくった。 OAS の内部にもそういう開発クリーンルームを
作れるように一応考えたが、やはり法的なリスクが非常に高いというので結局沙
汰止みになった。

これであちこち話を聞きに行ったことがあり、確かユタにも行ったのでは無いか
な。 未だにアップルのクローンがないというのはやはり Apple のガードが非
常に固いということだと思う。

ジョブスとは、その後LUNAを作った時期に、増田専務がジョージ原に紹介されて、
アップルを首になって、101の東側の家賃の安いところに事務所を構えていると
きに逢いに行った。 いろいろ話したが、インドに行っていた話をしていた。
ファジーの話は少し興味があったらしいが、すぐに出て行ってしまった。

サンのビルジョイには、飛行機の通路を挟んで一緒だった。 隣の客があれはビ
ルジョイに違いないと言うので良く見たらそうだった。 家の間取りを書いてい
たと思う。 サンの講演会にも居た。 確か彗星が見えるときで、OSKのXXさ
んと一緒だった。 マクネリもちらっと見た。

JAVAのゴスリンも飛行機で一緒だったので、トイレに行ったときに立ち話をした
が、JAVAをあまり知らなかったので、少し話しただけだった。
【回顧録】 M2Mプロジェクト
【回顧録】 M2Mプロジェクト
2022年3月4日 16:36:54 作成

アメリカの投資の話もしぼんでしまってアメリカでの活動を終了して、日本で主
に活動を始めて、次に配属になったのが当時の新規事業開発本部で、そこの同窓
の先輩の森さんの所へ配属になり、挨拶に行って、2‐3日すると不祥事が発覚し
て彼は辞めてしまった。 元々強権的なので、うまく行くかみんなハラハラして
いたらしい。

その時は、もうオムロンを辞めるつもりで、アチコチのヘッドハンターに話をし
ていた。 大手前のところの事務所にも行ったが、2回目は結局同じ話だった。
アメリカの会社の話もあって、八尾の庭に居るときに電話がかかってきて、いろ
いろ話したが、半分くらいしか分からなかった。 ケータイの関連だっと思うが、
良く分からないので、当時のXXの真田君がアメリカに居たが、電話してその会社
の詳細を教えてもらったこともある。 真田君はその後Kラボを引き継いで、一
部上場の大きな会社にした。 彼はなかなか能力があると思っていた。

Kラボは元々オムロンソフトOSKの一部門が独立したが、案の定うまく行かない
ので、社長を交代して、最後は真田君が引き取ったと思う。

この辺の話は別稿にすることにする。

それで宙ぶらりんになったのだが新年度からは事業開発本部のトップは増田社長
が来たのでその時に、作田さんさんが経戦でアイデアを練っていたM2Mマシーン2
マシンをやることになった。 それで同じ経戦に居た大八木さんがそのグルー
プのトップでやってきた。 モデムや電源をやっていた豊田さんも一緒になっ
た。

主流の藤原さんとか大八木さんはハンズフリーとか車の警報装置とかをやり始め
て ALSOK と連携してやろうとしていた。 しかしどうもビジネスマインドがお
かしくて最初にものすごく大きな投資をしたので、結局する持ちこたえられなく
なって途中でポシャってしまった。

これは当然そうなると思ったので、こちらは別の産業用の残量検知をやって、最
初は極めて小さなサーバーでスタートして、だんだん大きくするつもりだった。
最初はとりあえず秋に発表会があったので、それのためにだけにとりあえずのも
のを作って、とりあえず動かしてみた、というのが最初。

次に OSK の尾崎君が入ってきて、それで本格的にスタートした。 この時に草
津付近のベンチャーの製品を使ってプロトタイプを作ったのだが、そこでちょっ
とトラブルになって、最終的に作ったやり方が全く違うので問題ならなかったと
思う。

最初のアイデアはメールでデータを送るということだったが、それではちょっと
データ量が多すぎるので、私は少しでも短いパケットでやる方法を考えて、OSK
の外注の金山君や中尾君が中心になって、作り上げた。 梅雨のころにスター
トして、盆明けに何か動くものが出来たら事業化しようとしていたが、ちゃんと
できてきた。 ダメならやめるつもりだった。 彼はその時は非常に若かった
がセンスが良いので盆明けにとりあえずデータが送れれば良いと、だめならもう
やめようと思っていたがこれがとりあえずデータが動いた。

その後はハードを石井さんに作ってもらって、と言うかその前から少しづつ作っ
ていて、その後は何とか直方で量産して、年明けには出荷できたが、たいして売
れなかった。 石井さんは個人の設計事務所だが、無理を言って、年末までやっ
てもらった。 デザインはもちろんその時は独立していたソリデックの大内田さ
んに頼んだ。 アンテナを下に突き出したTW100と言うものだった。 SWセキュ
リティウオッチャーにしたかったが、セキュリティウオッチと言うのがあって、
分野は違うと思うが、オムロンの法務はダメと言うので、タンクウオッチャーに
なった。

その後の電力線監視ではパトライトを作っていた何とかいう会社が競合だったが、
大和川沿いにあって、家から訪問したことがある。 ほとんど手作りだったので、
競合にはならないと思った。 後にオムロンの制御部門が買収するとか何とか言
う話があったらしい。

OAの事業部長をしていた穐山さんと言うのが、協力してくれた。 一見厳しそう
に見えたが、一生懸命サポートしていただいた。 高血圧で駅で鼻血が出たと
か、フラフラしたとか言いながらやってもらった。 定年は先に来たので、送別
会をして、タクシーで家まで帰ってもらった。

その時に人が欲しかったので、社内で探したら、社内から応募があって、組合専
従を辞めた板野君がやってきた。 大八木さんは自分のところで欲しかったら
しいが、本人が強力に希望したそうな。 しかしこれが大正解で、彼が営業を
引っ張っていくことになるし、その後の試作センターでも役に立った。

その後はオムロンヒューマンリソースから人を採用することにし取るようにした。
やはりオムロンのブランドがあると、それなりの人が来るが、ある時は富士通の
OB だったと思うが、出社初日に来て大きなデスクは無いのか、秘書は居ないの
か言い出して、そのまま帰ってしまったということもあった。

他の人は北嶋さんは営業の主力に、田中さんは70歳を超えてもサポートの主力に
なった。 他にもいろいろ来たが、少しやってもらって、成果が出なければ辞
めてもらうことにした。 オムロンの正社員採用だと、辞めさせられないが、
こう言う非正規だとあっという間に辞めさせられる。 人事が柔軟なアメリカ
でも出来ないことが日本でできるのはビックリ。 この手法は試作センターで
も続く。

年明けに出荷して結果は思わしくなかった。 在庫はOSKの南森町の事務所に積
み上げておいた。 これが段々と減るのが見るのが良い。 しかし何としても数
字は欲しいので、東海ソフトに買い取ってもらって、後で引き取った。 OSKは
何とか言う人で、名前が出てこない。 非常にパワーのある人だった。

開発を加速して、どんどん作って、あとで田中さんが全機種を壁に展示してくれ
たが、数えると20機種ぐらいになっていた。新年度からは売り上げをカウントし
だした。 だんだんと打ち上げが伸びていくのが分かる。 このころから毎週
月曜日の8時から営業会議をすることにした。 北嶋さんはこれが嫌だったと言っ
ていた。

それで秋にかけて一進一退が続いたが、明鏡と言う会社で大量に発注してくれる
ことになったが、注文書をくれない。 仮でも良いからもらうまで帰るなと北
嶋さんに言って、もらってきた。 これが無ければ事業は止めるつもりだった。

それで年明けの1月20日ぐらいに数十台最初のロットとして納めることになって
いたが、直方工場の納期は1月末になっていて、この差を埋めるべく、最初のロッ
トは手作りでやった。 おそらく当面は使われずに積んでおくだけだと思ったが、
約束を守るほうが重要と思った。 その性かやんちゃな格好をしている社長と通
信費の交渉をしたが、相手が絶句する値段を提示した性もあってか、その後は明
鏡は約束を守って発注してくれた。 これで最低限の事業ベースが出来上がっ
た。

私が去ってからの後任は佐藤君と言うらしいが、結局何もせず、通信費の請求書
も出せずに、新機種も作らずに、ずっとやれたのは元が良かったからと思ってい
る。 その後はDopaが停波になり、Fomaで新機種が必須になって、大型化し
てコストも上がった。 最終的にOSKに移管されたが、それでも事業は生き残っ
た。 本業の制御部門とある意味で競合して、本業の染み出し分野で、最低で
も10年は生き残ったのは、オムロンの歴史始まって以来と思う。

ワークステーションがうまく行かなくなって、ソニーもNECも他のこう言う分野
の日本の製造業がダメになったので、しょうがないと思うが、オムロンはシステ
ムではビジネスが出来ないと言うジンクスを破るために、何とかしないとオムロ
ンで過ごした40年近い人生が意味のないものに思えたので、必死にやった。

それで気をつけたのはオムロンの代理店が自力で売れることとハード的なコスト
で絶対負けない事。 それと通信料でも負けない言うことを方針としていた。
ほおって置くとオムロンは安い端末を持ってこい、センターなどは自分でやった
方が安いと言われるので、自分でやるより安いですよと営業した。 ドコモの
通信料は公開されていて、誰でも同じなので、こう言うことが起きる。 通信
データ量を極限まで減らして、ハード言うとビス一本一本減らしていくことをやっ
た。

そのためか、わざわざ暗号化しなくても低レベルのセキュリティは保てたと思う
が、システムをリニューアルするときに復元できないと言う問題も出てきた。

システムはアジャイルと言うか試作を繰り替える方法で、とりあえず作ってみる。
作りながら修正していくと言う方法を取った。 事業が見えない時にはこれで良
いし、事業が見えだしたら、改めて本格的に作れば良いと思っていたが、なかな
か同じモノを作るのは難しい様だ。 後々試作センターでも似たような状況に
なった。

オムロンにおけるシステム事業は、ずっと以前に一真さんが CRT ディスプレイ
を代理店で売ろうとして大失敗したが、あんなややこしいものを売れるわけがな
い。 いつも言うのがリレーを1個100円で1万個売るのと100万円のワークステー
ションを1台売るのとでは、どちらが楽かと言うとリレーに決まっている。

それで利益もリレーの方は30%は確保できる。そんな状況で誰が好き好んでワー
クステーション売るかということを言った事があって、今回は誰でも取り付けて
誰でも使えるコンポ感覚のシステムを目指した。

それで中国地方のなんとかいう代理店が自力で売ってくれたのが、本当に嬉しかっ
た。 基本的には取り付けて配線してスイッチを押すだけ、あとはもうセンター
側で全部操作するということなので、現地では何もしなくていいいうことになる。

ハード的にはモジュール設計をして、それで作ってしまうと高くつくので、回路
レベルでモジュール化して、その回路の組み合わせで作るようにしたので非常に
安く、速く作れるようになった。 ハードでもそれなりの利益を得て、あと通信
センターのサービスで利益を得るというパターンにして、いかにサービス化する
かということに重点を置いて作った。

この辺がハードメーカーとサービス業とのギャップがあって、毎月の使用料を徴
収する事すらままならない。 まずそういう入金口座がない。 私が引退した
後、聞いたところによると請求書を出し忘れていて、出すようなシステムはなかっ
た。 これは請求書を自動的にしても作ろうと思ってたが時間がなかった。

年明けには異動の話ができていたらしくて、正月に増田副社長が初めて昼メシ
を食おうと言い出して、穐山さんんと一緒に行ったが、あれはなんだったんだろ
うと言っていたが、結局その後異動辞令が出た。 その後の2‐3ヶ月は非常に
長く感じたが、結局3月末で異動になって、その後は特許の担当になるようなこ
とであって試験を受けに行くと、モノの見事に不合格になって、それを聞きつけ
た義雄さんが引っ張りあげてくれて、産業21の理事になった。 それは試作セン
ターを作るという準備のためであった。 全てが急に進展したので、産業21の
理事会も持ち回りで決議したそうな。

その前にドコモの子会社のドコモマシン何とかという会社と一緒になれないか
というところで色々やったが、なかなかうまくいかずに結局そこの社長は私の独
断だということを言い出して、本当に濡れ衣を被せられたような感じになった。
市原さんが副社長になっていたので、引き込んでいたので大事にはならなかった
が、ひどい目に逢うところだった。 まあこう言う人と一緒に仕事をしなくて
良かったと思う。 ドコモの中でもいろいろあったと思うが、人を無茶苦茶もす
る人は全く信用できない。

M2Mに関しては、20年ぐらい経ってやっとIoTという形でビジネスになってきた。
しかしその中身はネットカメラとかで、なかなかまとまって大きくなったとは言
えない。 ビックリしたのは、試作センター時代にオムロンからの注文で、丸
い形状の、温度計とかのセンサーを試作する話があって、デザインからみなやっ
たが、ボタン電池で何年も動くのは無理だと思っていた。 しかしその後に、
Xiaomiから、そのものズバリの温度計が発売されているのを見つけて、愛用して
いる。 ボタン電池で数年は動く。 デザインもキチンとされている。 通
信距離も20ー30m飛ぶ。 値段も安い。 Zigbeeを使っているらしいが、試作
センター時代も初期バージョンはあったが、電池は数時間で消費してしまった。
その時は当たり前だと思ったが、しかし設定を調整すればもっと寿命が延びたか
もしれない。
【回顧録】 IT研究所の顛末
【回顧録】 IT研究所の顛末
2022年3月4日 16:13:20 作成

最初のころはシステム研究所と言っていたが、そのうちにシステム総合研究所に
なり、私の時にIT研究所になった。 身軽になったと義雄さん出席のプレゼンで
言ったら、笑っていた。

この時に作った、4分野の戦略書がその後10年ぐらい使われていた。 元のシス
テム研究所と開発支援部門が一緒になったし、さらに町田の通信グループと一緒
になったので、これらを並べて4分野でまとめた。

その後 IT 研究所の所長を突然辞めさされて、アメリカで投資をやってくれと言
われたのだが、これはあくまで言い訳で単に外したかっただけであろうと思
う。 後任には私より年上の館林さんが来て、流石に義雄さんはもっと若いのが
居ないのかと言ったらしい。 そ

ちょうどIT研を辞めたタイミングで父親が亡くなったので、父親の遺産相続に専
念することができた。 ほとんど会社に行かずに済んだと思う。 その後トム
メイスを引きずり込んでアメリカでの活動を開始した。その時には本拠は町田で、
みんなワンフロアに居たが、そこには飯村さんも居たので、別の階の個室にして、
そこに荷物を置いて、そこにこもることにした。

ほとんど居なかったので、どこでも良かった。 荷物は膨大にあったので、最後
に引き上げるときに全部八尾に送ってしまったが、未だに整理できな箱が残って
いる。

その後町田も閉鎖になり、たしかサラヤの関連会社に売却されてしまった。
ずっと後に買ったレクサスで白洲次郎の武相荘に行ったときに、ついでに訪問し
たが、建物はそのままだが、表札は替わっていた。

アメリカが一段落して、最終的に事業開発本部に異動になり、町田から虎ノ門に
通うことになるが、サスガに町田から延々と通勤するのは、たまらんので大八木
さんに言って、恵比寿の社宅に引っ越した。

恵比寿の狭い酒販会館のところに下宿することになった。 この時に佐藤さんも
一緒にいて食堂で夕食を食べながらブッシュの戦争は必ず始まるなあ、というこ
とを話していたことをよく覚えてる。 退所した後は、ここの関係者は、そこで
泊まれることになっていて一度泊ったことあるが、その後はもうそういう関係は
なくなって泊まれなくなった。 場所としては非常に良いとこにあって、裏が
自衛隊の防衛研究所で、ちょっと坂の上にあるのが玉にきずで、登るのはしんど
いがまあまあのところだった。 ここから朝早く出て虎ノ門の事務所には、7時
ごろに一番最初に大きな音をあげて扉を開けてトップに入るのが常だった。
【回顧録】 ユニフォーラム、COMDEX
【回顧録】 ユニフォーラム、COMDEX
2022年3月4日 16:06:31 作成

最初にアメリカに出展したのはサンノゼで開催されたユニフォーラムだったと思
うが、まさかこんなアメリカのユニフォームに出品できるとは夢にも思わなかっ
たので非常に感慨深い。

その後はアトランタでもやったと思うが、その時に何とかいう、かなり胡散臭い
がおじさんがつきまとって女の子を色々手を替え品を替えに連れて連れてきてあ
まり相手にしなかったのでだんだん離れていった。

その後はコムデックスにもブースをだして、一時はホテルの小部屋を借りて、打
ち合わせをした。 その後はオムロン全体としても出すようになったが、なか
なかメインのホールには入れてもらえずに、最初の頃は一番外れの、車で延々と
走らんといかんようなところで開催した。 その後はソフトバンクに買収され
て今ではもうなくなってしまってしまった。 最初はPCの展示会だったが、そ
のうちにワークステーションとかになり、最後は家電のショーみたいになってし
まった。

だんだんパソコンの方になって最後はゲームのショーになった。 その後に 見
に行ったのは、ロサンゼルスのアナハイムでやっていたシググラフ。 これは完
全にコンピューターグラフィックのショーで、ルーカスとかああいう CG による
映画の世界ではちょっと違う世界だったので見てもあんまりよくわからなかった。
【回顧録】 デュアル OS
【回顧録】 デュアル OS
2022年3月4日 15:52:05 作成

ワークステーションを始めた当時は通産省主導のシグマワークステーションだっ
たので、これはシステム5でないといけないということで、System5を入手してイ
ンストールしたが、その後ソニーが N E W S を出してきたのでこれは技術者に
非常に人気が高かったバークレー版を入れてきた。 それでこちらとして
はやはりバークレー版もサポートしないといけないということで、いろいろ探し
ていると両方動くOSがあるということで、そういう会社をシリコンバレーの南の
方のザンカーストリートの何という名前か忘れたが、そこで見つけて、そこから
ライセンス導入することになった。

これは見かけは年寄りだが私より若かった岡田さんが仲介した。 サニーベール
のヒルトンに泊まっていた時に、真夜中に議論になって、けんか別れして、その
ままほおって置いた。 彼は車を運転できずに、後で聞いたらタクシーを呼んだ
と言っていた。 一緒にやっていた山崎さん? と言うのがその後ずっと後に
なって、何処かの会社に居たが、連絡があった。 アメリカのCOMDEXでもバッタ
リ出会ったことがある。

デュアルOSの会社に大量の京大の学生とシステム総合研究所(当時の組織)の技
術者を入れて、技術導入した。 その時に例のサンフランシスコ大地震が起き
て、確か乾君もそこに居た。 一時は行方不明になっていたが、680かなにかの
裏道を通って戻ってきていた。 結果的には誰も被害者はいなかった。 当然に
通るフりーウエイの橋桁が落ちて下の車はぺしゃんこになっていた。

その後カーネギーメロンのMachを入れたバージョンもあって色んなバージョンを
作りすぎたような気がする。 この辺は、その時に書いたシリコンバレー便りに
に詳しく出てると思うけども、この会社も結果的に潰れてしまってデューデリジェ
ンスをやった時にオムロンが導入した、そのデュアル OS のインテレクチュアル
プロパティの価値がものすごく高くなっていたのでびっくりした。 まあシリコ
ンバレーの会社はそういうところが色々あるのであり、それが活性化の源だろう。
【回顧録】 ショーグラフィックスの話
【回顧録】 ショーグラフィックスの話
2022年3月4日 15:32:00 作成

ワークステーションやっていて CAD に使うということがいいなってきて、やは
りグラフィックスが欲しいということで、ベイエリアの会社に投資することになっ
た。 3億とか5億とかいうレベルだったと思う。 今の Google の近くだった
と思うけども、そこに入ってそこの名前忘れたけどドイツ系のなかなかうるさい
大きなお兄さんが社長だった。 途中で子供が生まれたので、それくらいの年だった。

そこによく入り浸っていてボードメンバーでは無かったがオブザーバーでで入っ
ていたが、結局二転三転して結局失敗して会社潰れてしまった。 だがどうやっ
て潰れていくのか良く分からなかったので、当時一緒にやっていた原ジョージが
やっていたデフタパートナーズのマイクスミスににどうなるんだと言って聞くが、
ただ静かに潰れて行くだけだと言うが、よくわからないのでじっと見ていた。
こちらが発注した分の技術資料は全部引き上げて、後は見ていると、まず事務所
は賃貸なのでそのまま返したら終わり、机とかデスクとか色々なパソコンとかは、
全てこれもリースなのでリース屋が引き取って終わり、借り入れは当然ない、キャッ
シュはすべて投資なので、これはチャラ。 確かに何も残らずに綺麗に静かに潰
れて行った。 なるほどこれがアメリカの新陳代謝であると感心したことを覚
えている。

治子のおじいさんが亡くなった時は、亡くなった日にお悔やみに行って、その時
に広瀬の伯父さんが伊丹まで車で送ってくれて、そののままショーグラフィック
スに行くとビルがアイムソーリーというので、何を謝っているのかと思ったら、
それがお悔みだった。

この時はショーラインのところにあったが、その後はサニーベルのセントラルの
横の単独のオフィスに入ったが、その後に潰れた。

グラフィックスは、ずっと後になってパチンコにゲームが導入された頃で、グラ
フィックスが欲しくなったので、当時の NVIDIA に行った。 当時の NVIDIA は
ローレンスの昔の電気屋の向かい、クレイの横辺りにあったと思う。

そこに太田君と一緒に行って話したがうまく行かなかった。 パチンコ業界が30
兆ビジネスだと言っても、全然信用されなかった。 まあその後は非常に大きく
なってびっくりした。 もう少し投資しておけば良かったが、当時はゲームは
単なる遊びとしか思えなかったので、そういう気にはならなかった。
【回顧録】 アメリカの出張予約とレンタカー
【回顧録】 アメリカの出張予約とレンタカー
2022年3月2日 12:20:07 作成

アメリカの出張予約としては、一番怪しく取れないのが飛行機で、まず飛行機の
便を抑える。 次に怪しいのがレンタカー。 これはいつもよくいっぱいにな
るので飛行機の予定に合わせてレンタカーを抑える。 レンタカーさえあれはど
こでも行けるので、後はホテルを抑える。 ただあんまりややこしホテルだとレ
ンタカーで行き着くのが難しいので、よく迷ったことがある。

当時はカーナビなんかなかったので道案内と言うとレンタカーの事務所でプリン
ターでずらずらと文字で書いた、どこを曲がって、どの道を行ってとか、そうい
う案内しかないので大変だった。

最初はハーツを使っていて、ハーツの一番良いサービスは空港でとりあえずチェッ
クインすると、そのままバスで行くと、すでに車が用意してあって駅の行き先案
内みたいに名前が書いてあって、そこには車がエンジンかけてトランクが開いて
いる状態で置いてあって、出口で免許証出して確認して終わりというようなパター
ン。 ただハーツは高いので、そのうちにナショナルにするようになったナショ
ナルは置いてある車のなかで、自分の好きな車を選んで乗って行って、それで出
口で免許証とかを確認して終わりなんで、早く出ることが出来る。

あとはマイアミで一度バジェットを借りたことがある。 これはちょっと時間が
あったし、フロリダなのでスポーツカーを借りたかった。 バジェットはスポー
ツカーが得意なので、ソアラを借りた。 これはオープントップになっていて
屋根が開閉するが、これはボルト締めなので雨が降ってくると大変。 ボルトを
締めるところにアケル、シメルとカタカナで書いてあったので笑ってしまった。

開けたり閉めたりするのが大変なので適当にボルトを締めておくと、ガタガタ言
う。 これでマイアミからキーウェストまで行った。 この時にオーブンカー
に乗るには野球帽とサングラスが必須だということがよくわかった。 それでキー
ウェストで帽子を買った。

一度ドイツでハーツで借りた時になんでハーツと言うんだって聞いたら、これ
ハートのこと言われてあなるほど、それまで全く意味が分からずに使っていた。
ミュンヘンで借りたと思うが最初はオートマの車と指定してたのがマニュアル車
でだけど BMW の3シリーズだったので内心はニンマリしてそのまま乗って行った
けどやはりクラッチとマニュアルになれるには三日ぐらいかかって、三日目に慣
れたころに返さないといけなかった。

これでアウトバーンで170�ぐらい出したが、結構厳しかった。 SLC500なんか
は横をすっ飛んで行った。
【回顧録】 サンフランシスコの観光ルートと射撃ツアー
【回顧録】 サンフランシスコの観光ルートと射撃ツアー
2022年3月2日 12:06:35 作成

最初の ORD が在った時は、なかなか皆立ち寄れなかったが、ORDが無くなって
OASができたので皆よく来るようになった。 それで結局駐在員の代わりをしな
いといけないことになって、シリコンバレーにいたらサンフランシスコの観光と
いうのは必須なので、これに連れて行くことになるのだが、まともに連れて行く
と時間がかかるので、こちらが適当に飛行機の時間待ちの間でも観光できるよう
にルートを作った。

まず連れて行くのはゴールデンゲートを渡った対岸のサウサリートの反対側のと
ころで、そこからダウンタウンを背景にゴールデンゲートが見える所。 これは
写真ではよくあるが、ここは観光バスで行けないので、普通は行けないところ。

そこからロンバードを引き返して丘を越えて降りて、上るとコイトタワーに着く。
コイトタワーは上の駐車場はものすごく狭いので市バスは入るが観光バスは入ら
ないので、ここのアンティークのエレベーターで上まで登ると見晴らしがよい。
元の火の見やぐら。 その後はフィッシャーマンズワーフへ行って蟹を食べる
か何かしてそれでだいたい一通り終わるというのが最短観光コースで出あった。

特に総務系は、何故かピストルを撃ちたがる。 サンフランシスコではあまり見
たことが無いので、調べたら、対岸のフリーモントにあって、さらに手続きが厳
しい。 以前にロスで連れていけと言われて探して言って、体育館みたいなと
ころで射撃した。 一緒に行った益塚さんは、これはアカンと言って車で待っ
ていたが、こっちの方が危ないかもしれない。 射撃場では日本人の何とかさ
んが良く来ると言っていたが、暴力団関係か。

別に自分でラスベガスで行ったことがあるが、足つきのマシンガンもあって、こ
れも撃てるのかと聞くと、砂漠へ行ってやれと言われた。

綺麗な女の子も護身用に練習している。 22口径だと5ミリぐらいの空気銃並み
なので、店で一箱買うのだが、たくさんあって、そのうちに飽きてくる。 45
口径を撃った時があるが、これはサスガに衝撃が大きい。
【回顧録】 Bluetooth と綺麗なスチュワーデス の話
【回顧録】 Bluetooth と綺麗なスチュワーデス の話
2022年3月2日 11:57:14 作成

カナダの半導体会社のフィルサーというところに出資をした時に、当然そこに同
時に出資している投資家と時々話をすることがあって、郊外のファーストフード
の店で Bluetooth を知っているか?これは北欧の王様の話でと、今では当たり
前だが当時は珍しくて、メジャーになるかどうかわからない話を聞いた。

それで提携してるフィルサーは、銅を使ってそれの低電力タイプを作れるという
ことで、たまたま行った時に IBM から人がぞろぞろと10人ぐらいきて打ち合わ
せをしていた。 こちらは最終的にはキーレスエントリーのチップを作ること
になったと思うが、その辺からはあまり関与してないのでお知らないが、最終的
には失敗したんではないかと思う。

この会社の設立者はイケイケ兄ちゃんみたいな人で、途中から社長を交代するこ
とになって、時々カリブ海で休暇に入っていたけど、途中から社長を交代するこ
とになって後任の社長が見つかって非常に喜んでいた。 やっとこれで肩の荷が
下りたという感じで喜んでいた。 日本では今でもあまり考えられない。

カナダの人は当たりがアメリカと違って当たりが少し柔らかいし、フランス料理
の影響か料理もおいしい。 日本人としては付き合いやすいが、内緒話はフラン
ス語でやるので全くわからなくなるので、それはやめてほしいとよく言っていた
が、こっちは日本語でやるのでお相子だった。

だからカナダにはよく行ったそれでオタワからボストンに向かう小さな20人乗り
ぐらいの飛行機だったけど、そこに乗っていたスチュワーデスはもうびっくりす
るぐらい綺麗で、当然搭乗口はないので降りる時は分厚い毛皮のコートを着て飛
行機の横に立って送り迎えをしていたけど、こんな綺麗な子がこんな田舎の飛行
機に勤めてるんだと思った。 余程親から地元を離れるなと言われているのだと
感じた。
【回顧録】 子供のころの初めての本
【回顧録】 子供のころの初めての本
2022年3月2日 11:36:51 作成

子供の頃のに初めて読んだのはマスの代旅行という本で、これは別稿で書いたよ
うに小学校5年か6年の時に、盲腸のの手術をして家で寝ていた時に友達がくれた
もので、これが初めて読んだ本格的な本で、その後は若くして亡くなった山下先
生の下宿に行ってそこで色々見せてもらって借りて帰った記憶がある。

他でよく覚えているのは空中列車地球号と土星へ行く少年。 両方とも最近ヤフ
オクで入手したが、地球号の方は今読んでも、子供には少し難しい。 この本で
マチュピチュというのを知って、いつからマチュピチュに行きたいと思ってたが、
今はかなりメジャーになってしまって、もう行く気にならなくなってしまった。
もっと早く行っておけば良かった、残念なことをした。

土星へ行く少年は土星の周辺での探検をして、異星人のロケットを見つけて、そ
の異星人のロケットで脱出するというようなストーリーで、これはなかなか面白
くて、それで土星の惑星の名前を皆覚えたりした。 土星の輪の端から土星を
眺めるという表紙の絵があって、これは非常に心に残っている。 それで星に
興味を持ったのが、それのがきっかけだったと思う。 これも中古で中古品で入
手した。

マスの大旅行も今ググってやっと見つけて注文した。 思ったのと表紙のイメー
ジが異なるが。
【回顧録】 アマチュア無線等の資格
【回顧録】 アマチュア無線等の資格
2022年3月2日 11:21:11 作成

アマ無線も別稿で書いたと思うが、中学生の頃に非常にこれに、はまった。 座
敷の廊下の端に机を置いてシャックとして使った。 なぜそこに置いたかと言
うとそこからその上にちょうどアンテナを伸ばせて駐車場のとこから、蔵の上ま
でこれが7メガ 20m のアンテナを綺麗に張れるし、そのど真ん中にあるのでそこ
においた。 ここで夜中まで延々と喋っていたということを覚えてる。

今でも名残の穴とかコンセントとか残ってるんではないかと思う。 これで Y
型ダイポールというの作って、 Y 型っていうのはアンテナを一本の線にしてお
いて給電をその間から入れるので、給電のケーブルは平行線で持ってくるという
やり方で、これは普通のアンテナをだらんと張ると、Y型に見えるので、これは
Y型アンテナですと紹介したら、失笑されたので本当のY型ですと言ったことを覚
えている。

最初に取ったのは電話級で、これはすぐ取れて、ただ申請書は手書きで、字が下
手だったので手書きではわかりにくいので、母親に手伝ってもらって書いた。
母親は字が綺麗で小さな頃は鉛筆を綺麗に細長く削ってもらうのが好きだった。
細長くきれいに削るのはなかなか不思議で、削ってもらいながらよく眺めて
いた。

その後、無線関係は2級を取った。 2級はモールスをやれば取れるので取ったが、
一級は和文のモールスが入るので、これちょっと大変なので諦めた。 その後
は一級無線技士を取った。 これは何と母校の高津中学で試験があったので非
常に懐かしかった。 ここは特殊情報技術士の試験もあったところで、でどち
らがどちらか忘れたが技術士の方は久しぶりにA4で1枚ぎっしり数式を解いても
間違いがなかったという、数学嫌いの私としては非常に良い結果となった。

特殊情報技術者の方は、これは結構大変で最後の論文試験があって、これで皆落
ちるみたいで、だいたい数パーセントしか通らないので一つの教室の50人いた時
に、ここで一人通るか二人通るかというレベルで、周りでは色々勉強した、これ
はどうだ、こうだというの試験前に皆で話していたが、こちらは心細かった。

これはめでたく一発で通ったが、今ではもうこの資格はなくなってしまった。
2種は誰でも通る合格率が30%以上あるので誰でも通る。 一種になるとこれは仕
様書を見てその通りにソフトが作れるかという試験だと思うので、これも20%ぐ
らいしか通らない。 特集情報技術士はこれは、その上の仕様書をきちんと日本
語でまともに書けるかという試験らしいので論文試験が重要視されたんだと思う。
【回顧録】 スキーについて
【回顧録】 スキーについて
2022年3月2日 11:15:00 作成

別稿でも書いたが、若い頃はスキーに凝った。 スキー技術として当時は伸び上
がってターンするのが主流だったけど、我々がやったのは沈み込んで足を引き上げて、
そのきっかけで曲がっていくというやり方で、どちらも体重を抜いてターンの切っ
掛けにするのは同じこと。 沈み込みの方が足が揃う。 こぶに見強い。 伸び
上がりで曲がると足がどうしても、その間にバラけてしまう。 沈み込みで回る
と常に揃えたまま綺麗に曲がれた。 ただ欠点は膝をずっと曲げたままなので
膝に負担がかかるのと、ストックが従来の伸び上がりの寸法だと長いのでこれを
切り詰めて短いストックにすると言うことを当時は大流行だった。 立った時に
ちゃんと握れないくらいの短さのをストックを持つのが大流行だった。
【回顧録】 ファーストクラスと食事
【回顧録】 ファーストクラスの食事
2022年2月19日 15:36:26 作成

アメリカに行き出した時、伊丹空港から出ていたのはユナイテットだけどだけだっ
たが、ユナイテッドが日本人を狙い撃ちにしてビジネスからファーストにアップ
グレードしていた。 それで、この時から病みつきになって7ー8割はアップグレー
ドしてくれるので、残りは自分でアップグレードして、ほとんどファーストクラ
スに乗っていた。 治子と康之は私と旅行するときは必ずファーストクラスだっ
た。

まず搭乗時は一番最初に乗れるので、入って行くとアメリカ人のスッチーががハー
イと言って迎えてくれる。 席で荷物を置くのだが荷物はスッチーががやって
くれるが、一時はものすごい体格の良いスッチーばかりになった時もあったが、
途中から普通のスチュワーデスになったので、自分で入れることになる。

JALなんかは、物凄く緊張感があって、席の数も多い。 チーフがイチイチ挨拶
に来る。 ユナイテットもマイレージの多い人には挨拶に来る。 メニューの
選択もマイレージの多い方から取ってくるので、自分のは取れる。 感心した
のはマイレージを使ってフりーチケットのはずが、その差別は全くしないことだっ
た。 最後に乗った飛行機では少し差別してい多様に思う。

当時のファーストクラスはジャンボの一番先っぽの鼻のところに、席があった。
ここに5列ぐらいあって、それぞれ椅子が2席2席の4席ずつ、真ん中は2席2席あっ
て、、昔はここは喫煙席だった。

私の好みはアメリカに着いた時にサンフランシスコが見れる2A。 それと帰りは、
そちら日が当たって明るいので反対側の2KかJ。 一番前の席は前が先すぼみに
なっているので一体感があって家族とか乗ると良いが、一般的には前に荷物を置
けないのであまり好きではなかった。 ある時にはリートレビの一団が前を
占拠していた。

何時か指宿オープンが合った時に、一緒になった。 3Kの隣はその前に乗ってい
るゴルファーの息子の母親。 ロバートとか言っていた。 いつものビジネスマ
ンばかりの雰囲気とはだいぶ違った。 その時の優勝者はダークホースだったの
で、ビジネスに乗っていたらしい。 降りて税関の所で税関の係官にいろいろ
話しかけられていた。

スポーツではアガシが3に私がその前の2に乗っていた。 隣の日本人があれは
アガシに違いないと言うので、振り向いてそのまま聞いたらそうだと言うが、こっ
ちはテニスを何も知らないので、頑張ってねとしか言えない。 伊丹に着いた
が、当時は優先荷物と言うのはなかったので、延々とバッゲジクレームで待って
いた。

一番端の鼻先はくローゼットになっていて、ここにガーメントバッグをぶら下げ
るようになっている。 当時の出張スタイルは大きめのアタッシュケースと大
きめのガーメントバッグを持っていく。 スーツとシャツと靴。 飛行機には
ラフな格好で乗り込む。

アタッシュケースは重たいので車輪カートでぞろぞろ引っ張っていくというスタ
イルだったが、途中から例の縦長のバッグに車輪のついたものが出てきて、
これをパイロットとスッチーが引っ張っていたのを見て、これがあっという間に
広がった。 ある時東京で話をしてると、例の増田専務が偉いものを引っ張って
歩いとるな、と言いながら自分で試しに引っ張っていたようなことがあった。

飛行機に乗るとアタッシュケースは自分の席に持っていくが、ガーメントバッグ
はでかいのでクローゼットに入れる。 このクローゼットはすぐにいっぱいに
なるので、先に乗るのがやはり必須だった。

搭乗順序はマイレージの多さで決まるので、やっぱりマイレージをたくさん持っ
てるほうが強いということになる。 それとアップグレードとかあとはキャンセ
ル待ちで、特に飛行機が欠航になった時の席の取り合いは熾烈なものになる。
ある時は最後まで二人残ってあと一席しかなかったけど、これは最後に取って、
マイレージの長さで勝った。

たくさん飛ぶと1Kのステータスを、今でもあるかどうか知らないがくれたのでこ
れは最強だった。 当時は1K専用のラウンジまであった。 1Kというのは年間
で10万実マイルを飛んだ人にだけ与えられるので、これはなかなか国内線では難
しくて国際線でも毎月1回ぐらいは飛ばないと取れないようだ。 ある時に初め
て唯一故障で日本行がキャンセルになった時に、付き添いの職員に聞いたら、
Rareと言っていた。 ちなみにこの時は日本で、サンマイクロのマクネリ—に
逢うことになっていたが、出席できなかった。

1K は終身なので、いまだにプレミアメンバーとして扱ってくれるので、中国に
行った時とか普通に旅行するときもラウンジが使えるとか優先搭乗が出来るとか
のメリットがある。

飛行機に乗り込むと、まず出てくるのがウエルカムドリンクでこれはオレンジジュー
スかシャンペンかいう選択になる。 この時にどちらか選んでも良いのだが、
乗りなれている人は、混ぜたものミモザとかミックスドワンとか言っていたが、
それを頼む。 オレンジジュースでは頼りないし、シャンパンをあの時点で飲む
のもイマイチだけど、混ぜると飲みやすいと思う。

飲み物で思い出したが、朝食の時に飲むのに、やっぱりトマトジュースなんかは
もっちゃりしているので、私はよくブラディマリーミックスをだけをもらった。
普通はこれにウオッカを入れてカクテルにするが、このミックスだけを350 ml
の缶で良く売っている。 これを飛行機に積んで、カクテルで出す。

日本からアメリカに飛ぶときは飛行機が飛んでしばらくすると夕食の時間にな
るが、まず出てくるのがキャビアと卵をちょっと潰したものと冷やしたウオッカ
が小さなグラスで出てくる。 最近では絶対出てこないが当時は必ず出てきた。

ある時に全日空にたまたま乗った時に、もうキャビアはいらないって言ってたが
食べ終わってから、食べたくなってきたので言ったら、キャビアの缶一つとスプー
ンとつけて、お皿に乗せて待っていてくれた。

JALかANAか忘れてが、席の後ろの方は、あんまり良い席ではないので、そこがお
立ち台になってる時があって、そこからスッチーがずっと席を後ろから監視して
たという飛行機があった。 ある時には寿司職人が寿司を握ってたような事も
あった。

それから次に出てくるのがレタスのサラダ。 これはさすがに多いのでいつも
Litte とか a Litte とか言って、少しにしてもらっていた。 ここで普段はや
らないが粗挽き胡椒をかけてくるのが気に入って、それ以来その粗挽き胡椒をあ
ちこちかける癖がついてついた。 これはバリバリとひいてかけてくれると非常に味が良くなる。

次はメインディッシュになるが、通常は大きな塊のローストビーフを目の前でカッ
トしてくれるが、ある時ただ一人しか乗ってない時あって、これ全部食べていい
よと言われたのだが、そんなにたくさん食べれないので真ん中あたりを少しだけ
切ってもらった。 最近ではこういうのは全く出てこなくって当時のビジネス
クラスぐらいの食事しか出てこない。

その後は食後のデザートになってフルーツかなんかが出てきて、ケーキとかア
イスクリームとかコーヒーが出てくる。 最後は小さなチョコレートが出てき
て大体終わり。

お酒は最初に出てきたシャンペンの次はやはりワインになるので、ワインリスト
をくれるが、結局赤ワインか白ワインかしかないのでで、ある時に身内で大笑い
した事があった。 ちゃんと指定すると出てくるがその頃はあんまりよくわから
なかったのでもう少しワインを勉強しといて飲めばよかったと思う。

JAL で聞いた話で日本酒が何がのってるのかと聞いたら菊姫だと。 菊姫は飛行
機で揺れると味が変わるので蔵元が嫌がった、というようなこと言っていた。
後で聞くと日本の日本清酒協会か何かのトップの富田さんがやはり菊姫が一番だ
と言ってたという話を聞いたことがある。

最後はやはりブランデーとかシェリー酒とか出てくるが、ある時にウイスキーの
ミルク割りであるアイリッシュクリームを頼んだが、ちょっと待てと言われて妙
だなと思ったら、アイスクリームと間違えていた。 確かにこれは非常に難し
いらしくてスチュワーデスの間でも銘柄名のベイリーズという風に呼んでいた。

ある時 JAL に乗った時にポートワインを勧められたが、我々の年代は赤玉ポー
トワインのイメージがあるので断っていたら、隣のアメリカ人がこれ是非美味し
いから飲めと言われていて、飲んだらこれが非常に美味しい。 その時のスッ
チーは日本人でポートワインを召し上がられたのはあなたが初めてですと言われ
た。 まあそれはちょっと誇張だとしても大概のその年代の日本人は敬遠したと
思うしかし全く赤玉ポートワインと本当のポートワインは違うということがよくわかった。

いずれにしてもこの飛行機の中で洋食のフルコースの食べ方などを、これで勉強
した。 ワインもこの辺ではこれで多少分かるようになった。

飛行機にはたくさんのお酒を積んでいるが必ず余る。 余ったのをどうするか。
次の便で使うのもあるだろうが、スッチーがこれぞと思った人にあげあげるよ
うなことがあった。 私も一度しかもらってないが飛行機降りる時に飛行機で使
うナプキンに包んで一本くれた。 これはおそらくマイレージの多さかも知れな
いが、スッチーの選択があったんではないかと思う。他でもたまにもらってる人
がいた。

昔は非常に優雅なのんびりしたゆとりのある飛行機旅行だった。 おまけにそれ
でもファーストクラスは、今では太平洋を横断すると100万円ぐらいかかるらし
いが当時は一度だけ有料で乗ったが、これは4000ドルだった。 円高だったので
40万円を切ってるという非常にものすごく安いと思った。

アメリカの国内線は非常に長距離になのになるので、必ずファーストに乗ること
にしていた。 ただファーストは国内線の DC 10ぐらいだと8席しかないのでこ
れの争奪戦は非常に厳しい。 あの狭い中でリクライニングもできずに大陸を
横断するのは苦行の他にない。 だいたい日本から言うとシンガポール近くま
で届く距離なので国際線と言って良い。

しかし、この国内線の食事は最悪で、アメリカの食事は当時は普通のレストラン
でも、非常にまずいと思ったが、それからだんだんレストランを選択する能力が
高まったのか、あまり拙いとは思わなくなったし、良くなったらしいが当時はよ
くないし飛行機は特に悪かっただから、シカゴから一緒に出張に行ったガウディ
オなんかは一切食べずに着いてからレストランに行って食べていた。 それにお
相伴させてもらっていたことになる。

食事で思い出すのはヨーロッパのフランス・ドゴールからギリシャに飛んだ時、
橋本君と一緒だったが二人でファーストの一番前に乗ってアルプスの上を飛
んでいった。 この時のスッチーは年寄りのおばあさんだったが非常に気が良
く効く人で、席の前にカーテンがあるところだが、こちらが何かコーヒー欲しいなと思ったら、
はいコーヒーとすぐ出てくる。 なにか欲しいとまたすぐ出てくるという非常に気が付くと言うかタイミングの良いおばあさんだった。

この飛行機に乗った時は一悶着あって、ヒースローから乗った時に大きな荷物は
持って入ったが、ドゴールで乗り換えるときに、トラックの荷台に乗せて持って
いかれるところだった。 そこで慌てて、タラップのドアから出て荷物を取り
返してきた。 戻るとエラク怒られた。 国際線なので降りることは出来ない
が、この荷物がロストすると次はクルーズに乗るので、大変なことになるので、
言葉は分からないふりをして、持ちこたえた。 間一髪で助かった。
【回顧録】 スキーの話
【回顧録】 スキーの話
2022年2月7日 11:51:12 作成

初めて行ったのは極楽坂スキー場で、これは藤田君がのお父さんが富山に単身赴
任していたのでその関係で極楽坂に一緒に行った。 ここで一番下のゲレンデで
滑っていて、良くこけるので、ある時にコケて雪に埋まった時にスキーの板が妙
な方向から出ているので足が折れたかと思ったが、結局スキー板が折れていただ
けだった。

極楽坂は右の方にその後国体のコースができて、大きなスキー場になった。 当
時も第3ゲレンデから第2ゲレンデに降りるところが壁みたいになっていて、こん
な壁をどうするんだろうと思っていたら、そこは競技用のコースになっていた。
当時は第2ゲレンデを降りるのも大変でなかなか降りれなかったことを覚えてい
る 。

オムロンに入って、スキー部に入って、冬はスキー夏はヨットと思っていたが、
ヨットは船酔いがあるので、1回乗っただけで諦めて、スキーだけになった。
冬の休みはスキー場に居て、貯金は夏場は増えるが、冬場は減ると言う生活だっ
た。 スキー部は岡部さんと言う人が部長で、少し変わった考えの持ち主で、
全くの初心者でもスキー板は揃えて滑るのが基本で、いわゆるボーゲンはやらな
かった。

小谷村の蕨平がホームゲレンデになっていて、寝台で行って1泊して夕方帰って
くるゆったりしたスケジュールだった。 昼は必ずロッジに戻ってきて昼寝をし
た。 それは北国というロッジで、小谷村を通ることがあったので、わらび平
まで行くと北国はちゃんとあった。 右隣がコルチナで、左の方は白馬乗鞍につ
ながっているところで、当時のまま残っていた。

スキーは結局あまり上手くならなかったのは、足が X 脚になっていて、足首が
外側に向いているので、これを矯正しないと外エッチが引っかかってひっくり返
るのがやっとわかった。 これを矯正するのが三浦雄一郎が特許を持ってると
いうなんとかエッジと言う斜めに角度のある板を金具とスキー板の間に挟むと矯
正できる。 これでやっと、少しまどもに滑れるようになったが、年も取っていて、それから
の進歩はあまりなかった。

信州はだいたい行って、栂池はあまり行かなかったが、栂池に行った時は、一番
奥のゲレンデでめちゃくちゃ寒くなって手袋が凍ったこと覚えている。 その隣
の岩岳は森君が知っていたので、一緒に行った。 ちょっとマイナーな所なので
あまり混んでいないところだった。 その隣が八方でこれはもう物凄く混むとこ
ろで、リフト乗り場の前の争いは大変で少しでも板を前に出して割り込まないと
進めない。

リーゼンの上から下まで通しでは全く滑れないので、もうあまりあまり行かなかっ
た。 そのこちらは五竜とおみがあって40°以上の斜面があるというので行っ
てみたが、全然まともには滑れない。 青木湖スキー場というのは青木湖にに
向かって降りていくので爽快だった。

その向こうが鹿島槍でこれはなんか円錐状の谷に向かっていくような感じであん
まり面白いとこではなかった気がする。 向かいのいつか車で行っ所は南斜面
なので、雪質は良くなかった。

他は野沢スキー場。 上の方は緩やかだが途中に何とかいう急なとこがあるが、
そこはまともに滑れたことがない。 野沢温泉で温泉から帰るときにタオルが
凍ってしまうということもあった。

後は志賀高原にも行ったが遠いので一回ぐらいしか行っていないと思う。

近いところでは、今では無くなってしまった比良山スキー場。 康之が高校生の
頃だったと思うが、この時に行っておかないともう行くチャンスがないと思って
無理に比良山にスキーに連れ出した。 治子は行かなかったので二人で車で行っ
て、比良山で滑って、オムロンの保養所で止まったような気がする。

比良山の北はサンケイバレー、琵琶湖バレーで、初期のころは何とか言った小型
の2人乗りのトロッコみたいなもので上った。 最近はゴンドラが出来て、スピー
ドアップした。 昔のトロッコのあとは今でも見える。 西の方に降りる斜
面は景色は良くないが、まあまあの斜面なので、良く滑った。

琵琶湖バレーの北にマキノスキー場があって、康之が三つぐらいの時に一緒
に連れて行った。 その時は雪が無くて、滑走不可になっていたが、リフトは動
いていたので、リフトの横をどんどん滑った。

誰も居ないので、リフトの番人のおじさんも最後はリフト券無しで滑って来いと
言ってくれた。 康之は下の雪で遊んでいたが、駐車場までは距離があるので、
治子と2人でスキーで滑ってきたら、康之は取り残されて、泣いて帰ってきた。
先日この話を本人にしたら、覚えていないと言っていた。

その北側にはXXスキー場があって、ここは雪も良いので、良く行った。

国境スキー場にも行ったことがあるが、300m ぐらいしかないので、あまり面白
くない。 別稿に書いたと思うが花背スキー場に行って帰りに雪の大渋滞で、新
車がボコボコになった話。

後は神鍋スキー場。 奥神鍋はまあまあのゲレンデがある。 その奥のハチ北は
結構面白い。 これは9号線を車で走っていて行くということになる。
【回顧録】 子供のころの旅行
【回顧録】 子供のころの旅行
2022年2月7日 11:45:48 作成

子供の頃はあちこち遊びに行ったことを覚えている。 ある時は南海難波の駅か
ら電車に乗って淡輪の方に行ったような気がする。 その時かどうかは忘れた
が、電車はものすごく混んでいて、窓から中に入れられた。 現地では何か怪し
い人に追いかけられて、一生懸命みんなで逃げたようなこともあったような気が
する。

そこかどうか忘れたが父親が催し物のクイズに飛び入り参加して音楽の題名を当てるの
だが、確か「たぬきばやし」だったと思うが、それを当てたのを覚えている。

他は伊勢の答志島に行ったこと覚えていて、先日行った時にどこか探したが、分
からなかった。 おそらく真ん中の辺の浜のある所だったんではないかと思う。
夜に三味線の音が聞こえていたのをかすかに覚えている。 イルカ島にも行っ
たはずだけど、あまりよく覚えていない。 写真はある。

中学生だった頃に突然父親が泳ぎに行こうと言い出したので、しょうがなくつい
て行って二色の浜あたりで、こちらは泳ぎは嫌なので岸で眺めていたようなこと
もあった。
【回顧録】 熊本の足立さんとポートランド
【回顧録】 熊本の足立さんとポートランド
2022年1月29日 16:17:09 作成

熊本のはもともと立石さんの出身地でもあるし、いろいろ付き合いがあったが、
熊本の足立さんで私より二つ三つ上の人ですが、なかなか面白い人で、一時はこ
こに就職しようかと思ったこともある。 二言目には護熙護熙と、細川さんの話
を出してくるので閉口する。

意外に意気投合して色々やった。 ある時にポートランドの大学の医学系と連携
をするということでポートランドにもう一人と連れて行った。 行く時にはファー
ストだったかビジネスだったか忘れましたが、それににアップグレードしてもらっ
て、飛行機の酒を全部飲む勢いで、どんちゃん騒ぎしてたみたいです。

その後もいろいろポートランドのやりとりを手伝ったけど結局あまりうまくいっ
たのか行かないのかよくわからない状況で未だに年賀状のやり取りだけは続いて
いる。

ポートランドからも一度に向こうの人間がやってきたような気がする。 全ての
食事で昼食と夕食は私がクレジットカードでどんどん払うので向こうはびっくり
してたみたいで、エスカイヤクラブの大和実業と関係あるのかということを言っ
てたように思いますが、全く関係なしで、まあいずれにしてもそんなに大したお
金ではないのだが、役所みたいなところはそういうことは自由がきかないみたい
でかなりカルチャーショックを受けていたようだ。
【回顧録】 ワキタのカラオケマシン
【回顧録】 ワキタのカラオケマシン
2022年1月29日 16:10:45 作成

グラフィックスのショーグラフィックと付き合っている時期で、ある時に坂口く
んから話が入ってきて、ワキタがカラオケを作りたがっているが、入り込めない
ので、アメリカに連れ出して、接待してくれというような話であったので、カラ
オケマシンはあまり面白くないと思ったが、コムデックスに行けるので、引き受
けた。

若い社長を連れ出してコムテックスに連れて行った。 会場を連れて歩いたが途
中からはもう勝手に行きたいということで勝手にさせたが、その後サンフランシ
スコへ連れて帰ってきて、そこで色々接待をした。 ゴルフにも行ったがコー
スの予約が取れなくて、途中から横入りしたらえらく怒られて、慌てて出てきた。

エルカミノ沿いのどこかのカラオケ屋に行ったら、これはどうとかこうとか、人
は居るとか、良く知っていていろいろ参考になったみたいだ。

結局カラオケマシンはあまりうまくまとまらずに、ポシャッたと思う。 下手に
カラオケに手を出してるともっと悲惨なことになったんではないかと思う。
【回顧録】 父親の死去と葬儀と墓地
【回顧録】 父親の死去と葬儀 と墓地
2022年1月29日 15:13:22 作成

父親の死去と葬儀

アメリカの新しいサニーベルの所のマンションで寝いて、朝8時ごろに起きると
ページャーに連絡があったので、早速電話してみるとラッキーにも治子につながっ
て、お父さんが大変だというので、それから急げば飛行機に間に合うので急遽す
べての荷物をまとめて大慌てで飛行機に飛び乗った。

後で聞くと加藤さんは同じような状況で戻るのに2‐3日かかったとのことで、今
回は最短で戻れたと思う。

当然その日とか、それ以降のミーティングは全てキャンセルし、飛行機の中から
は衛星通信を使って電話をあちこちにした。 衛星通信は1回あたり基本料金が
5000円なので結構なお金だが、これは社用だとのことで会社のクレジットカード
でどんどん連絡をした。 それでやっとのことで関西空港に着いて、そこから
ラピードで難波へ。 そこからタクシーで都島の病院に向かった。 慌てて病
院に入って行ったが、集中治療室でそのままでは入れない。 アメリカから10
数時間かけて帰ってきたんだから、と押し問答したが埒が明かないので諦めて帰
り、その日かどうか忘れたが帰りがけた時に、またこれまたページャ鳴って、も
う危篤だということで、それで急いで戻るとも心音が止まってしまった。

その前にちょっと頭の CT を見せてもらったが、ほとんど真っ白で脳死状態になっ
ているのが分かった。 無理に人工呼吸器で生かされているだけなので、呼吸
もなんか非常に不自然な呼吸をしていた。

この後に中之島の銀行でATMからお金をおろしてしまう。 分かってから死去ま
で1週間ぐらいあったので、この間にいろいろやれば相続税も減らせたが、その
時はそんな事に気が回らなかった。

ちょうどその時期に、ダイワハウスの紹介で、ダイワハウスの総務のXXさんと話
しており、さらにその紹介で税理士の山野上さんとも話しており、ミーティング
をキャンセルしたぐらいだが、住所を八尾に移すことを忘れていたし、アドバイ
スもくれなかった。

大和ハウスの人には、久保田マンション建設対応のアドバイスもいろいろもらっ
て世話になったが、その後山野上さんと話すことがあって、その時に聞いたら鬱
になっているとのこと。 山野上さん自身も脳梗塞か何かで、頭を手術したとの
ことで、自分より若い税理士を選択したが、あまり当てにならなくなった。
最近は年賀状も来るようになったが、どうも息子がやっているらしいとの治子の
推測。

都島の病院のその後は、どうしたのか覚えてないが親父が死んだ時には同窓会の
会食をやっていたので、その時の同窓会の幹部メンバーが何人かやってきてくれ
たが、もうどうしようもないのでお礼を言って帰っていただいた。 何人かは
その後も家にお参りに来たり、年賀状をやり取りしたが、途中で沙汰止みになっ
てしまった。

しばらくすると遺体が大阪の警察に持っていかれてしまって、医者も怒っていた
が、通常の死亡とは異なるとのことだった。 医者によると喉に肉が詰まって
いたらしい。 自分も最近は喉が詰まるようなことが多いので、これは良くな
いと思う。

事故みたいなので、大同生命保険にAUIの事故特約が付いていたので、保険屋に
聞いて、どんな文言を書いて請求したら良いかと聞くと、事故性を示す急にとか
突然とかの言葉を入れると良いと聞いたので、これらの言葉をちりばめて、ダメ
もとで請求したら3千万がおりた。 これは相続税の納入に非常に助かった。

後で遺体を引き取りに行かないといけなくなって、まずは大阪城の南側にある何
とかいう事務所で書類をもらって、それを持って曽根崎署に持っていって、冷凍
庫に入ってる父親を引っ張り出して、それを納棺して輸送車を先導して自宅に戻っ
た。

父親が死んだ時に、確か山田という刑事が同い年の昭和22年生まれで、タクシー
かパトカーか何かの後部座席で保険のことを、結構しつこく聞いてきて、後で分
かったが暴対刑事で暇なので引っ張り出されたらしい。 父親を引き取りに行く
時に暴対の事務所に入ったが、これがとても殺伐としているところで交通課とは
全く違う雰囲気でびっくりした。 ヤクザの事務所とほとんど変わらんなとい
う感じだった。

そこで書類とか手続きして、とりあえず家に連れて帰って、枕経をあげて納棺す
る時になって八尾の火葬場の大きさは小さいので、それに入る棺桶は小さく、背
の高い父親は入りきらなので、く足を縛って入れるみたいなことを葬儀屋が言っ
たので、修さんはそれはないだろうということで着物である程度きっちり巻いて、
ちょっと足を曲げているような格好にした。

葬儀は八光殿でやって、八尾の25号線の方の火葬場に行って、八光殿に戻って、
また骨上げにいった。 葬儀の詳細は別稿にある。

墓は最初は角卒塔婆を立てないといけないのだが、これは宝積寺のちょっと下がっ
たところにある工務店にお願いして、普通の柱に背割りを入れてもらって、ちょっ
と上を加工してもらって、それを宝積寺へ持って行って戒名を書いてもらうとい
う手順になっていて、母親の時に一回やっていたので父親の時は非常にスムーズ
にできた。

これを祖父母の墓の右側に母親の卒塔婆を立てた。 それでまた父親が亡くなっ
たので、しょうがないので母親の2番目の兄の横に立てて、しばらくしてから母
親の場所に墓石を立てて、その中に両方の骨を混ぜて入れてしまった。 もとも
と養子だったんで母親のとこへ、また行くのかという感じだった。 融通念仏は
割と荒っぽいと言うか、さらしに骨を入れてそのまま花台の奥に入れてしまった。

自分の墓石は、どうしようかと思うができたら清兵衛の前、母親の2番目の兄の
横に建てて欲しいと思う。 万願寺の墓石もそこに移したいと思っているが、
なかなか踏ん切りがつかない。 万願寺の元禄の3基は、初代安平の右側に置い
たらどうかと思う。 それで安平の妹のお国さんは単独墓で万願寺でも離れて
いて、かわいそうなので、できたらお父さんの横、初代安平の右側に置いて、さ
らにその右に元禄の墓石を置けば良いかと思う。

母親の一番上の兄は2番目の兄の横に置いてやれば良いと思う。 本当は父親の
横がいいんだろうが場所がないので、しかしこれで家族の全てが L 字型に並ぶ
ことになる。

それで我々の墓石は、それの手前、南側、入り口に近いところになる。 ただ母
親の一番上の兄の墓石はだいぶ側面が崩れてしまっているので、これをどうする
か。 新調してもいいがなんか不自然だし元々砂岩で出来ているのでセメントで
補修してもいいかもしれないがよほど綺麗にやらないと今度は見える側になるの
でまずいかもしれない。

これは墓石の話だが、万願寺の墓地はお国さんの所は、もう村に返して一番手前
の墓石のところは、一つの代々墓を建てて通常はそこをお祀りしておけば良いん
ではないかと思うが、本当はもう今行ってもいいのだがなかなか踏ん切りがつか
ない。
【回顧録】 母親の入院と死去、葬儀
【回顧録】 母親の入院と死去、葬儀
2022年1月29日 14:41:36 作成

一度八尾に戻った時に、風邪を引いたようなこと言ってて、しんどいと言って
いたのでそのままにしておくと、次の週ぐらいに白血病であるということが分かっ
た。 それで急遽高槻の医大に入院をしたが、それは死ぬ前の春過ぎ頃だった
と思う。 それからずっと抗がん剤治療して、年末まで続いたと思う。

当時の抗がん剤治療は非常に厳しいもので、 QOL なんか全く無視でやっていた
し、おまけに感染が大変なので完全にビニールシートで覆われた中に入っていて、
こちらも入る時は必ず殺菌をして入るというような状態で、よくあれを我慢した
もんだと思う。

それで当時は完全看護などはなかったので、付き添いが必要で、自分とあとは昭
さんの奥さんの百合子さんとぐらいで交代で付き添いをした。 私も病院
から直接会社に出勤したこともある。 一時はお手伝いできてもらった人もい
たがある時に母親が窓から飛び降りそうないなったことがあったので、それ以来
恐れをなして来てくれなくなった。

住んでいた若山台の隣の町だったのですぐに行くことは行けた。 一度状態がよ
くなったので鵜殿の葦原を見に連れて行ったことがあるが、これが外出の最後に
なってしまった。 それから年末に退院して一度家に連れて戻ったが、1月頃に
検査入院をした時に、再発が発見されてそのまま入院となって、それからずっと
入院をして結局5月の連休に死んでしまった。

連休には照子の一家が見舞いにやってきたが、厚木に戻る途中から引き返してき
た。 それまでも口内炎がひどくなって口の中がひどくなって口が閉じられな
くなって、うめき声をずっと上げていたので、これはなんとかせないかんと思っ
て医者にちゃんとに談判しようと思ってたあくる日の朝にトイレに入っていると
電話が鳴って、これは絶対危ないと思って電話も取らずにそのまま車に直行して、
ぶっ飛ばして行った。 まあこういうことは必ず起きるだろうと思って予想し
ていたが、いざ走ってみると前に遅い車がいて、無理に追い越すかどうかは迷っ
た。 ここで事故起こすと余計ややこしい話になる。 病院の駐車場に着いて、
そのまま走って病室に行くと、廊下のベンチに永田のおばさんが座り込んでいた
が、目もくれずに病室に入ると医者が母親の上に馬乗りになって心臓マッサージ
やってる最中だった。 最後には、むき出しになった母親の胸はどんと叩いて、
いてて、と言っていた。

しかしどうやっても心拍は戻らないし、もし戻ったとしても、それで行けること
はあり得ないと思ったのでもういいですということにした。 それが死亡時刻に
なった。

その前に母親に内緒で医者と相談してこれはどういう風にな最後になるのだということを聞い
たが、医者もあまりはっきりしたことはわからないみたいだったが、全身が衰弱
して死んでしまうという事みたいだ。 病室に戻ると母親はさすがに直感が働
いたらしく何を話してきたんだっていうことをしつこく問い詰められた。

それで父親がまだ家にいたので連絡したが。こういう時こそタクシーを使えばい
いのに律儀に電車でゆっくり来たので、時間がかかった。 早く来たからどうと
言うこともないが、非常時の行動がちょっと怪しいなと思った。 康之はその前
に来ていて遺体の横に座っている写真が残っている。

看護婦さんなんかは手慣れたもので、みんな追い出して遺体を綺麗に拭いて、納
棺してというのはもう一連のことで、お悔やみの言葉もなかなかスムーズであっ
た。 これでとりあえず連れて帰らんといかんので、運送の車を手配して、そ
れを私が先導して一緒に帰ってきた。

今でも覚えているのは玉串川沿いの道の白いハナミズキの花がずっと咲いている
のが非常に印象的だった。 これは5月の5日だったが、その前の5月3日ぐらい
には同期の吉川君が亡くなって葬儀に行った。 それは癌で亡くなって、その前
日までピンピンと仕事していたが、急に亡くなって、私と同年代なので子供も小
さく奥さんは大泣きでした。 それの時に皆にうちの母親も怪しいと言ってま
したが、その2日後に亡くなってしまった。

当時は現役のIT研長だったので、確か総務の川村さんがいろいろ手配してくれた
と思う。

連れて帰ると米屋の中谷さんと消防団長のxxさんが門前で待っていてくれて、
いろいろ手配を手伝ってくれ、死亡届を市役所に持って行かないといけないのだ
が、中谷さんが自分の車で抜け道をするすると抜けて市役所に連れて行ってくれ
た。 休みだったがこれだけは受け付けてくれた。

自宅で葬儀をやることになって仏間に祭壇を作って座敷の南の方から参拝するこ
とにした。 公益社が飾りつけをしたが、町会仕様なので、極めて安くて、文
句を言っていた。 門屋から入ってぐるっと回って駐車場の方から出ていくと
いうルートにした。 この時に久保田の当主お参りに来たのを覚えている。

オムロンからは松岡さんとか結構いろんな人が不便な所を来てくれた。応接間を
帳場にしてそこで香典の記録とか樒の受けつけとかのとかの処理をした。
その後がまた大変で、手伝ってもらった人のところに料理とビール一缶を、これ
を修さんの指示で持って行って、皆さんいらないとおっしゃいましたがこれは無
理に置いてきた。

この時は父親がまだいたのであまり細かいことはよくわからない何で言われるが
ままにあった感じ感じだった。 この時に自宅で葬儀をやるのは大変と治子は
思って、次回の父親の時は、発光殿でやることに固執したが、結局ローターリー
の関係が大きかったので、そちらでやるしかなかった。
【回顧録】 アメリカ活動を支えた人々
【回顧録】 アメリカ活動を支えた人々
2021年2月4日 12:17:41 作成

アメリカ活動を支えた人々

ロッキ―尾崎
1989年あたりからアメリカで活動を開始したが、最初にそれを助けてくれたのがロッキ—尾崎だった。 彼とはあちこち一緒に行って、特に東部のコンピューター会社にはよく行きました。 それまで教科書に出てたような名前の会社とか特に軍絡みの会社が多かったのですが、ビジネスはともかく非常に面白かったと思います。

ロッキー尾崎は特にコンサルタント料を取らずに、そらくオムロンの名前をフルに使って自分のビジネスをしてたと思うのですが、飛行機代を含めて全部手弁当でやってくれて非常に助かりました。 それと英語が非常に堪能なので半分通訳に使っていました。

またクパティーノに事務所を開くときには、彼がもともとクパティーノに家族で住んでいたので色々情報をもらったり手伝ってもらったりしました。 奥さんにもお世話になりました。 少しオムロンとの間でトラブったときも奥さんが電話してきました。 自宅にも行ったことがあります。

1989年初期の頃の企業訪問は、必ず彼にアポを取ってもらって一緒にいたことを覚えております。 一時はワークステーションの輸出問題で少しトラブルがあったのですが、別にそれが原因ではなかったのですが、それへんから音信不通になりました。 彼からクパティーノが良いということを聞いて、最初の事務所を当時のアップル本社の隣のクパティーノシティセンターアパート(CCCA)に決めた経緯があります。 最後はその後いつか思い出さないのですが中国の上海で朝食の時に一緒になって、その時に一緒にいた女性が少々生意気だったのであまり良い印象がありませんでしたが、そこで別れた別れて再び音信不通になりました。

台湾ににも一緒に行きました。雷が鳴って、機体がガンガン揺れる中を台風の上を越えていきました。 オムロンの事務所に行くと定時後はクラブに行って、看板になると店の子と一緒にホテルに戻ると言うスタイルになっていました。 サウナにも一緒に行きましたが、巨大な施設で、冷水から温水、蒸気までみんな揃っていました。

彼も結局は日本に戻ってきて、娘がトラブルを起こしたみたいなことを言っていました。

トムメイス
トムメイスは最初は OSF に行った時に出会ったと思いますが、そういうアライアンス企業を渡り歩いて社長をやっていて、割と気さくな何処にでも入っていけるタイプでインドネシアに居たとか、日本でも英語の先生がやってたようなこと言ってました。 時々先生の顔になって私の英語を直してたりしていました。

ずっと知り合いだったのですが、私が1996年頃にIT 研究所を引退した後に彼をコンサルとして雇いました。 確か1500万円ぐらい払ってたので高額なコンサルだったと思います。 彼は非常に気さくな性格なので、あちこちどっか行きたいという時には、すぐに電話したりコンタクトを取ったり色々やってくれました。 コンサルとして雇う時には日本で面接を兼ねたプレゼンをしましたが、当時の中研の小沢さんとかが、少し弱いところがあるんじゃないかという評価でした。 それでアメリカではあまりメジャーで受けられないでしょうが日本とのやり取りとしてはちょうどいいと感じました。

彼の息子も私の息子と同い年で、年も彼の方が少し若かったですが、そんなに離れてなくって、割と気が合った方だと思います。 自宅はサラトガに豪邸を構えていて一度招待されたので、タックさんと一緒に訪問したことがあります。 奥さんは割と気の強そうな人で私が紹介されると「You are (the)Masuda-san」と言われて、theが付いているのは無いかと感じました。 夫婦仲はあまり良くないように見受けられました。

一度サンノゼ空港の傍の飛行機の看板のある店で打ち合わせディナーを取っているとき、横のブースに2人ずれが居たので、彼は話を聞かれると面倒と思ったのか、そこに言って確認していました。

一度日本に来た時に、一緒に新橋かどこかの飲み屋に連れて行きました。 そこでサンマの丸焼きを食べてみせると顔をしかめていました。

彼とはあちこちの会社に訪問してましたが、最後の方で記憶に残っているのは早朝5時頃にサンノゼ空港で待ち合わせて、そこからコロラドに行くことになっていました。 彼は昨夜は一睡もしてないと女房と喧嘩をしたと言っていましたので、そんなこともあるのかと思っておりましたが、コロラドに着くいてしばらくすると彼が手紙をくれました。 その手紙には何回読んでも良くわからなかったのですが、要するに 性同一性障害とカミングアウトしていたのです。 後で英語の特異な市原さんに見せても良く分からなかった、要するに病気と言うことか、と言っていました。

当時の日本の常識ではあまり受け入れられなかったのですが、既に車の免許証もFemailになっているのを見せてくれました。 こんなの診断できるかと言うと、脳のCTを見れば分かるそうだ。 半信半疑でその場は過ぎました。 その後はお前に運転は女みたいだとか、冗談を言ったりしました。

その後彼は手術をして完全に女性になって結婚してベネズエラに行ったと連絡がありました。 その後は一度メールが来ましたが無視していたら、それそれ以来音信不通になりました。 せっかくアメリカ人でで人間関係が出来てきたと思ったので、少し残念なことをしました。 奥さんとは当然離婚し豪邸も売り払ったということでしたサンノゼ空港での出来事はその一件でその前の晩に大喧嘩をしたらしいです。 訪問したコロラドコロラドでは確か学校の銃撃事件があったような気がします。

Tak Sugimoto
一番助けになった人はTak Sugimotoです。 本名はタカユキと言い、英語名はTakでした。お父さんが広島出身で本人にも広島弁が少し混ざり、お母さんは2世で、本人は2.5世と言っていました。 奥さんは既に亡くなっていて、独身でした。 もともと ORD のドクター山本の下で細々した仕事をやっており、アカウンタントということでしたが、どうもその知識技能は怪しいところがありました。 任せておくと会社の決算がなかなか出来ないこともありました。

一番初めて会った時は以前早朝サンフランシスコ着のフライトがあったのですが、その時に迎えに来てくれたのが、Takさんでした、その時はポルシェに乗っていてすごいなと思いました。 しかし多少表裏のある人のようで、私や市原さんには非常に優しいおじさんなんですが、裏ではかなり強硬な脅しをかけるような人だったらしいです。 後で聞いたところによると、あまり役に立たないと思うのですが節約のために支払いを遅らせようと届いた請求をみんな廃棄していたということです。 それで督促の弁護士からの通知連絡が来てやっとわかったこともあります。 現地で買ったチケットの支払いをどんどん遅らせるので、そのチケットの会社のおばさんから、本人には絶対言わないで下さいと言いながら、実は支払いが遅れていて、督促すると物凄く怒られると言われてたことがありました。

まあこういう色々ある人でしたけどオムロンに対する忠誠心は非常に高いので、ずっと会社の副社長を任せてやってもらっていました。 ただ会社のメンバーとの関係はあまり良くなくてよくトラブルを起こしていたと思います。 この会社に関しては別章で詳述します。

マイアミでもバッゲージロスト。 これもタックさんに連絡してもらって、これは次の日にホテルに送られてきました。 少し厳しい乗り継ぎをするとロストする。 それ以来は、ロストすることを前提に手荷物を持つことにしました。 1日分の下着とか洗面道具は肌身話さず。 自分一人で出張するときは、荷物は全部持ってはいるので、厳しい乗り継ぎでも大丈夫だったが、家族で荷物を預けて、今まで通りの乗り継ぎをしているとテキメンにロストすることがわかりました。

それで私が OAS を引いて引いた後、家族で治子康之、友達の野村君と一緒に行った時にもアテンドをしてくれました。ロスに行ってそこからサンフランシスコで乗り継いで戻ったのですが、その途中でバゲッジがロスト。 なかなか出てこなくて、タックさんに連絡してもらって、やっと他の空港で見つかって、若山台に送られてきて、やれやれと思ったらやたらと軽い。 中身が全部抜かれていた。 外部ディスクとかPCとか大事なものがやられていた。 もともとUAが先の便に載せてしまって、空港で置き去りになっていたのが原因。 だいぶ文句を言って補償してもらいましたが、当時の関空のUA職員にみな知れ渡ることになりました。

それ以来音信不通になっていましたが、2013年頃に最後のアメリカ旅行に行った時に、半日かけてあちこち電話をかけまくり、サニーベルとかサンタクララの市役所まで電話しサンフランシスコの日本人会にも電話しいろいろやったのですが、見つかりませんでした。 日本人会では女の子が出てきて、日本語をトライすると言っていましたが、どっちもどっちなので、こっちが英語で話しましたが、手掛かりなし。 最後にネットか何かで調べた同姓同名の人にダメ元で電話をしてみたら、アメリカでは珍しく本人がスッと出て来て色々話をしました。 同性同名ですと言うと興味を示してきて、結局相手の場所は明らかにしなかったが、お姉さんか何かが知ってるかもしれないと言うことで電話番号を教えてくれたのですが、電話がちゃんと繋がらずにそこで終わってしまいました。後はサンノゼの日本人会があったのですが、ちょうど帰る日の水曜日は休みだったので連絡が取れずに日本に戻ってから、メールを出したのですが全然返事はなかったです。 生きてたとしても既にもう90近くになってると思うので生きてないと思います。

彼の自宅は相続した盆栽店がPageMillとElCaminoの交差点近くにあって、奥さんは既に亡くなって彼自身はお母さんがにアメリカ人お父さんが日本人で2.5世と言われてます本名は孝之とか言ってましたので実際はたっくたっくと言っておりましたたっく杉本で広島出身だとか言っていました私が広島弁が少し日本語に入ります。

一時はサニーサニーベルのローレンスだと思いますが、そこに住んでいましたが、あちこち転々としててよく分かりません。 自宅は最後に2013年に行った時はもうすでに更地になっていても元の面影もなくなっていました。 確かジョナサンという息子がいたと思うんですが、このもうちょっと探し探すのは難しくて連絡は取りませんでした。

ついでに書くとORDはそのPageMillから少し南の Mountain View にありました。 引っ越して小さなオフィスを2階にあったのですが、これが確か Los altos にあったと思います。 そこに初めて行った時にドクター山本も居て写真が掛けてあって、そこには孝雄さん、NTT の真藤さん、ドクター山本が写っているという、非常にすごい写真があってびっくりしました。 それで元々2倍くらいのスペースを持ってたらしいんですが、半分を当時の NTT にサブリースしてたみたいで、後で聞くと祐源君がアメリカに来た時にここを訪問していた様子です。 本人はあまり良く分かっていなくて、地理的に何処に行ったのか認識していない様子でした。 当時のNTT の拠点というのは、そこしかなかったはずなので、そこに行ったんだと思います。

この ORD の残骸があるおかげで、当時はシリコンバレーになかなか寄りつけなかったらしくて、私が最後にOASを作って、一真さんの負債を払拭したことになります。 OASは長い話になるので、別章にします。

スタンフォード大学とか ORDのオフィスとかは皆ElCaminoに面してますので。この道は一番最初に覚えたシリコンバレーの道です。 縦に走ってるのは、あと101と280それとセントラルと4本があるのですが、どうこれを使い分けるかというのがシリコンバレーで活動する大きなノウハウになります。 やはり一番難しいのセントラルでセントラルで、空いてるのでうまく使うと非常にスムーズに動きますが、サンノゼ空港で行き止まりになってるのでこの辺をちょっとうまく処理しないといけないです。

101はメインの国道なので一番良いのですが混んでいる。 280は裏通りで空いているが、少し遠回り、それと斜めに85っていうのが走ってるんですがこれもうまく使うとあのクパティーノへのアクセスは非常にやりやすいですが、フリーモントへのアクセスになるので、通勤ラッシュがひどいです。 当時はクパティーノで終わってたのですが、その後でずっと南の方まで伸びたみたいです。
【回顧録】 初めて一人で行った伊豆旅行 とミリ波の話
【回顧録】 タイトル
2021年9月18日 15:12:17 作成

初めて一人で行った伊豆旅行 とミリ波の話

中学生のころだと思うが、初めて一人で伊豆旅行に行った。 行きは何とか言う
夜行急行を東海道線を行って、三島かどこかからか、長距離バスに乗って、ずっ
と下田まで行った。 途中は一番前の席に座って、自分で作った 50メガのトラ
ンシーバーを横に置いて、それずっと点けていたことを覚えているので、おそら
く中学校の後半だったと思う。 中学校の時に化学部で事故を起こしてしまっ
て、それから化学部には入れなくなったので、電気を主力に転向した。 それ
までも無線やってたと思うので、その時に自作したものを持って行った。

河津温泉から下田まで行って、そこからまたバスで帰ったのか、列車で戻ったの
かの記憶は無いが、帰りは当時動いていた新幹線で帰った覚えがある。 従っ
て、この時は夜行で一泊してその日に帰ってきたと思う。 まあ自分としては大
旅行だったと思う。

持っていたトランシーバーはA4ぐらいの大きさので厚みは10ぐらいあるような
やつで、スピーカーが付いていて、スピーカーのグリルをアルミで曲げて接着で
着けたことを覚えている。 それで半導体で作ったのか、真空管で作ったのかの
記憶がないが、当時は半導体はあまり無く、真空管だとしたら DCーDC コンバー
タが非常に大変だったと思うが記憶がない。 現物は2階を整理した時に捨てて
しまったと思う。

その後しばらくして高校か大学の時に400メガの機械を真空管と平行電極で作っ
て、初めて交信のが中央環状を走っている車だった。 これはには非常に感動し
た。 パサパサパサっと言うフェージングがあって、400メガ特有だった。 そ
れですぐに交信は出来なくなった。 今ではもうごく当たり前と言うより、TV
の電波帯域だった。 しかし当時としては画期的で、CQ誌に400メガに参加して
いる人をリストまで行かずに、文面でこの人この人というコールサインが書いて
あったと思う。

400メガは許可されていた帯域が10メガもあって、普通の通信では使い切れない。
50メガも54メガまであったが、51メガ以下しか使っていななった。 144メガも
広かったが、今では考えられないようにスカスカだった。

400メガの帯域を使うのには、動画を送ると言う事をやっていた。 TVのNTSC形
式で送る。 しかし、これでも半分ぐらいしか使えななった。

それに気をよくして次は1200メガや2300メガを作ろうと思って、キャビティのシ
ステムを作ろうと、真鍮パイプとベローズでキャビティを作るつもりが、そのま
まに中途半端になってしまった。 1200は中途半端で、キャビティなら2300か5600
の方がやりやすかった。 当時は交信できた段階で、もうすでに日本記録を達
成するのでチャレンジ目標としては面白かった。

今となっては デジタルである CPU のクロックが2ギガ とか 4ギガ になってる
ので隔世の感がある。 当時は、それをアナログで処理して電波で出すだけで
四苦八苦していた。

オムロンでミリ波の仕事を始めた時に、イスラエルにも行って自動車のミリ波
レーダーを造ろうとしたが、当時のミリ波は10ギガとか20ギガだったと思うので、
これも隔世の感があった。

オムロンがミリ波を始めた切っ掛けは、白水さんがミリ波の技術を持ち込ん
できて、さらにミリ波は自動車のセンサーに使えると言う事で、取り組んだ。
当時はミリ波はトヨタだけがやっていた。 私が手を引いた後は、中研でレー
ザーを使った車間距離センサーを作ったが、結局精度を上げようとするとレーザー
が目に入った時の安全性に問題があって失敗した。 ミリ波レーダーは当時は
大きくて高かったので、トラックに乗せるつもりで作っていた。 基盤でアレ
イアンテナを作って送受信する。

これに悪乗りして、M2Mの時に、液面センサーを作ったが、結局タンクの内側に
着く水滴に邪魔されて、結局は失敗した。 渥美半島の醤油屋さんの実証試験
ではうまく行っていたが、時々データがおかしくなっていたが、結局水滴のせい
だったらしい。 展示会に出すと競合がたくさん見に来たりして、注目は浴び
たが、微弱電波に固執するとうまく行かない。 通信もDopaでやったので、電源
さえあれば液面データをタンクの外からサーバーに送れると言う画期的な、今で
いうIoTが完成するところだった。 小松の駅前の三谷産業にも良く行って、実
証実験をした。

オムロンのミリ波は通信にも使えるが、これは伝統的な複変調とは違い、ガンダ
イオードによるミリ波の発信を、そのままONOFFすると言う荒っぽいやり方で、
これで1ギガとか2ギガの速度が出た。 伝統的な無線技術の発想を超えると言う
のが触れ込みだったが、単なるONOFFなので、不要なスプリアスがいっぱい出て、
電波の有効利用という観点ではダメな方法だった。

これに目を付けたのがソフトバンク。 東電の電柱を使って、インターネットの
最後の100mをミリ波でやろうとする孫さんのアイデアだった。 その話をサン
フランシスコ空港の近くで説明会に行ったが、その時点でも秋だったが、もう春
から万台オーダーで実証実験をするということで、その時には間にソフトバンク
の事業スピードが違うことを実感した。

その時に絡んでいたのが白水言う人で、アメリカのボストンでベンチャー
をやっていた。 中国的な名前だったか忘れた。 彼はガンダイオードで発信
した電波をONOFFさせて1ギガとか2ギガの送信を出来たと言って、大きな顔をし
ていた。

当時同じような研究をNICT要するに昔の電波研究所が、もう十年も二十年もやっ
ていて、うまくいってないのだが、彼はそれを達成したって言っていたが、結局
単に電波をONOFFするだけなので、帯域が広がってしまって不要なスプリアスが
たくさん出てしまって、最終的には使い物にならなかった。

今では、ちゃんとした電波として扱われていて、ちゃんとした変調器とフィルターで、
通信が行われている。 現在では5Gではもうすでにその辺のミリ波での世界に入ってい
て、その上がサブミリ波で、これは宇宙電波天文学にも使われている。 その上
がすでに遠赤外線となり、その上は近赤外で光というふうになるので、もうすで
に電波と光は繋がってしまったということになる。

サンフランシスコの集会ではこれ別の項でも書いたと思うが、いろんな人が集まっ
ていて増田さん私覚えていますか、というんで誰かと思ったら、昔KABAに居たペ
ンギンと言うあだ名で、彼は後に ADSL の大家になって分厚い教科書を書いてい
た。 もう1人か2人ぐらいいたと思うが、大体こういうとこに集まってくるの
は大体似たようなとこに集まってくるらしい。

その時の印象としてはソフトバンクと東電は全く異質の関係なので、これはう
まく行かないだろう言っていたが、結果的に案の定うまく行かなかった。 そ
の後 SoftBank は ADSL で事業を始めて、さらには光ネットになり、最後は携帯
の電波に到達したという歴史があって、流石にここまで持ってくるのはやはりソ
フトバンクの孫さんと言うのは大したもんだ、常人ではないと思った。

この話には森ビルも絡んでいて、東京の都心に沢山ある森ビルの屋上にアンテ
ナを付けるという話で、実際にやってみたが、ビルと言うのは結構、揺れていて
そこに指向性の高いアンテナを建てると、アンテナの方向を自動調整しないと使
い物ならないと言う事が分かった。 意外とビルと言うのは揺れて、特に捻れる
のが良くなくて、ねじれると方向は完全にずれてしまう。

オムロンはもう一時はミリ波をやろうということで、忠雄さんも頑張って直方に
話を持って行ったらしいけど、私はあまり乗り気じゃなかったので、結構陰では
ボロクソに言われていたらしいが、結果的にはこれは無理な話だった。

その後M2Mで携帯モジュールを使って送信する時に、内臓アンテナを作らないと
いけないと言う事になって、横浜のなんか電気試験所みたいな所に出かけてテス
トした。 M2Mの最年長の何とかさんにやってもらったが、彼はアマ無線をやっ
ていたので、話が通じやすかった。 目に見えない電波を扱うのは、土地勘が
必要で、計測したデータもばらつきが大きいので、土地勘が無いと何が何やら分
からなくなる。 これが結局最後電波と付き合う最後になった。
【回顧録】 ボブ・ジェームス
【回顧録】 ボブ・ジェームス
2019年6月17日 15:46:13 作成

何かの都合で成田と思うが、そこから東海岸か西海岸に飛ぶJALだったと思うが、
例のごとく一番前のLに乗っているとKにボブ・ジェームスが乗っていた。 イ
ンドネシアからの帰りで、太鼓の音が良かったと、口真似しながら言っていた。
いろいろ話して、ベースをやっていたと言うと誰が良いと思うか? ロンカーター
かとかいろいろ言うので、これ人はひょっとして有名な音楽家ではなかろうかと
思って、スチュワーデスに写真を撮ってもらう。

おなかの調子が悪いと言うので、スチュワーデスに言って、お粥を用意させると
感謝された。 当時はピアノにはあまり興味が無くて、ボブジャームスと言われ
てもピンと来なかった。 お粥が出てきたのでJALと思う。 JALのFには1-2回
ほどしか乗ったことが無いので、ひょっとしたらANAかもしれない。

相手はそれでも、ニューヨークに来たら遊びに来いと名刺の裏に名前と住所を書
いてくれた。 本来ならお宝で、しばらくは財布に入れておいたが、どこかに紛
失してしまった。

あとで調べると超有名なピアニストで、びっくり仰天。 その後も20年ほど経っ
たあとでは、ジャズピアノの大御所になっていて、TVでみてこれもびっくり。
【回顧録】 大和実業、ニコラス、葬儀、ロータリークラブ
【回顧録】 大和実業、ニコラス、葬儀 、ロータリークラブ
2022年1月20日 16:41:09 作成

大和実業、ニコラス、葬儀 、ロータリークラブ

父親は、成和貿易と言うところを辞めて、自分で大和実業を立ち上げた。 当時
は取締役が7人必要で、結構大変だったと思う。 貿易商をやっていて主な取引
先はフィリピンだったと思う。 しかし切手を色々貯めていて切手は世界中のあ
ちこちの所があってその切手を見ていていろんな国の名前を覚えたと思う。

海外出張も、よくやってやっていて伊丹空港によく送っていたり迎えに行ったり
した。 最初のころはまだ進駐軍がいて、進駐軍の白い建屋が残っていて、その
事務所でイミグレをやっていたような気がする。

フィリピンのは貿易の主な出荷物は雑貨の輸出があったと思う。 何で輸入をし
ないかと言うと輸入は売り先を見つけるのは大変なので輸出して売るということ
だったらしい。 当然政府の支援もあったと思う。 消費税の時だと思うが、輸
出に絡むので、税務調査を受けたようだ。

死んだあと経理を引き継いだが、かなり勝手な仕訳が多くて、整理するのが大変
だった。 その前に弥生のPC版があった時に、何とか経理をPCでと思って、入れ
ようとしたが、期初の数字の入れ方が分からなかったのと、仕訳が一致しないの
で、諦めた経過がある。

当時は輸出を政府が推進していたし、商社もそんなに大きくなかったので、個
人商社が入る余地はあったが、その後に商社の力が強くなってきたので、個人商
社の入る余地がなくなってしまった。 また最近になって、ネットのお陰で、
個人の輸出入が盛んになって、今ならまた別の意味の貿易ビジネスがができたの
ではないかと思う。 最初は自分一人と事務員1人でやっていたが、途中から
治子が手伝うようになった。 その後は修さんが別のところで医療関係をやって
いたので、それも一緒の事務所を使うようになったと思う。

事務所は江戸堀の教会の横の松尾ビルで一番奥の階段を上った左側にあった。
古い建屋で床がギシギシなっていた。

大学からの帰りにもよく迎えに行ったので、連絡取るために無線基地を置いた。
アンテナを屋上の建てて、そこからケーブルを引っ張って部屋の中に無線機を置
いていた。 これで一応の連絡は着くようになって、24号線を走って行って事
務所まで行った。 それで行くとお腹が少し減っているので一富士という食堂
があって、そこから細めんのうどんを取って夜食で食べて、それから一緒に家に
戻った。

フィリピンの商売相手は主にニコラスという現地人でおそらく色んな雑貨、特
に印刷インクを送っていたと思う。 あとは印刷関連の活字の田中母型という会
社と付き合いがあって、葬儀の時も香典をもらった。田中母型とは何回かあった
と思うけども忘れてしまった。 あとはミシンの針とか色々あって、東文化を取
り壊したときに整理すると日本人形とか日本の土産物のサンプルがたくさん出て
きた。 記念に一部だけ置いてあるが、こういうの輸出しようとしてたんでは
ないかと思う。 それとフィリピンかどこかの東南アジアの木製品のサンプル
もたくさんある。 これは逆に輸入しようとしてたのかもしれないが、あまり
その後発展しなかったと思う。

事務所にあった大きな机は机のガラスの下敷きと共に誰かにやってしまった。
残った荷物は全部当時の東増田文化の部屋に入れておいて、東文化を取り壊すと
きに、現在の増田マンションの004号室に入れた。 余分なものは、その時で全
部捨ててしまったが個人の手紙類をし捨ててしまったのは、少しもったいない気
がして、あれぐらいを置いておけばよかったと思う。

後はタイプライターとかそういうのは置いてあるのでいずれは価値が出るかも
しれない。 事務所にあった時計とか温度計とか小さい頃に見慣れていたものは
とりあえず置いてあって004号室に飾ってある。

ニコラスは何回かやって来て、最初の頃は家が狭いので松尾さんの座敷を借りて
そこでもてなした。 確か2回目は自宅の台所の掘りごたつで一緒に何か食べた
ような気がする。 息子も一度やってきて、車で連れて回った。 いずれにし
ても当時は前の道が狭かったし、うちもそんなに広くなかったので父親としては
ちょっと気が引けたのではないか。 そのぶんフィリピンに行った時はいろい
ろ歓待されたらしい。

それと父親は ロータリークラブに熱心に参加して、ある時はアメリカ旅行に一
緒に行ったのも、その関係だった。 色々お世話になったので父親が死んだ時に
はその香典を300万円ほど寄付させて頂いた。 一応お礼と言うことで、例会の時
に少し挨拶をさせていただいた。 時間が無くて、物凄く早口になってしまっ
た。

寄付は、フィリピンかどっかのどっかに目に見える形で何か出来ないかというこ
とを言ったが、結局は何かそういう目に見える形の寄付にはならなかった。 これちょっ
と残念だと思う。

その関係もあって、最後はロータリークラブに入ろうかと思って坂本さんに紹介
してもらって集会であいさつまでしたが、どう考えても毎週一回行くのは無理な
ように思うし、体育会系みたいなところがあったので、これを年を喰ってから体
育会系に入るのは、非常に苦痛だと思ったので、電話でだいぶ言われたけど結局
は断ってしまった。 行った時は本当に入るつもりだったが、やはりちょっと付
いていけない感じがした。 当時は治子の病気もあったので、若い頃から入っ
ていれば、問題ないんだろうと思うが、それで結局ロータリークラブとの縁はこ
れで切れてしまった。

最初八光殿がやってきた時にカタログを見せられて700と書いたのがちょっと感
じが良かったので、この700番にしてください、いくらですか? と聞いたら700
万円と言われた。 相続税も半分助かるが修さんが高すぎると言うし、私も少
し高いなとは思ったが、まあちょっとこれぐらいやっといてよかったかなと思う。

結局900万円以上かかったが、これは貯めておいても結局は相続税
で半分ぐらい持って行かれるので実質500万円ぐらいだと思
えばそんなに高いんではないんじゃないかと思う。

父親の葬儀は結局、総額で1000万ほどかかったが、何かロータリーの社葬みたい
になってしまった。 お金をかけたせいなのかどうなのか、めったに来ないと言
われていたガバナーもやってきたし、ロータリーのメンバーが半分ぐらいいたん
ではないかと思う。 今改めてその八光殿の会場見るとそんなに広くないと思
うが当時はもっと広かったように思ったが、まあいずれにしても一階の会場全部
借り切って行ってかなりの人数が入ったと思う

オムロンからも福島君とかあと山下さんとかみんな一応遠いところみんな来てく
れた。 お坊さんもあまり少ないと寂しいので宝積寺と相談したら楽僧を入れま
しょう、ということで鳴り物を入れた。 これも費用がよくわからなかったの
で宝積寺に聞いてそのまま支払った。

楽器とか衣装とか全部自分持ちなので結構やるほうも大変だったと思う。 総勢
で5−6人はいたのではないかと思う。 南の和子さんは結構喜んでいた。 ちょっ
と大規模にやりすぎたんではないかと思うが、これくらいやっておいて良かった
と思う。
【回顧録】 立石電機入社からCAT直前まで (再修正、改行をいれる)
【回顧録】 タイトル
2022年1月20日 16:04:09 作成

立石電機入社からCAT直前まで (再修正、改行をいれる)

立石電機で最初に配属されたのはサイバネという部門で、トップ入社は大渕君でこれは交通に行った。 当時の交通は飛ぶ鳥を落とす勢いで、真っ先に採ったと思う。 その次をサイバネが採って、そこにに入れられた。 ここの部長の阿部さんというのは非常にうるさい人で、いつも怒鳴り声がフロア中に響いていた。 副部長と言うか副長みたいな人が吉田丹治さんで、その後はずっとこの人と付き合うことになる。課長は岩崎さんというシャープから来た人で当時はまだ20歳台だったと思う。

シスマックと言うシーケンサーを作っていてセブンを当時はやろうとしていた。 中心は池田さんと言うお兄ちゃんみたいな人で、頭の回転は良かった。 後々退社して自分で起業したのではないかな。非常に古い022という機械があって、それで色々遊んでいた。

ある時机の上に全部放り出して、帰ったら次の日に言われ呼ばれて机の上を片付けて帰れと言われて、出しておいた方が次の日便利だろうと思ったけども、それはそうではなく片付けるべきであった。 そう言う日常のメンターと言うか指導者が清水さんで、頭の大きな人で、人間的には面白い人だった。

最初のころは、ソフトと言っても誰も何も知らない状態で、時々ソフトとは何かみたいな講習会をやっていた。コンパイラとインタプリタの差も認識されていなくて、説明に苦労した覚えがある。

いずれにしてもこの47年入社組は、世間でもインベーダーと名付けられて、異色の存在だったようだ。私の場合は特にそうだったのではないかと思う。入社当時は、まだ高度成長の最後の段階で、給料が30%も上がった時があったのでビックリした。 何時も組合の集会を時間内にやっていて、マルセイと言う言葉が飛び交って、当時のマルセイは国鉄のマルセイしか知らなかったので、聞いてみたら、制御事業分門の略称だと聞いた。 なににでも最初の文字に〇で囲むのが立石流だった。給料や報酬の件や、組合がらみは、いろいろあるので別校にすることにする。

最初は本館の2階か3階3階なのかなの東の方におったいたと思うが、その後は交通が非常に忙しくなって交通に手伝いに行けと言われて、本館の体育館みたいなところに、だいぶ居た。 中庭を挟んで清皇館という食堂があって、ここで2‐3交代で昼食を食べるが、当時は長岡全体で600人とか1000人とかいたはずはずなので、非常に大量の人がいたということになる。

長岡事業所は、その後取り壊されて、今は住宅地になってしまった。 長岡事業所から北の方へずっと坂を上っていくと、ここに長岡寮があって大卒はみんな入っていたが、大学院卒だったので入寮を資格がもう既に切れていて、裏にある中小路さんの所のアパートに六畳一間の下宿に入った。 長岡事業所から近いので、ある時は予鈴というのが定時の5分前になるのだが、それで飛び起きてなんとか間に合ったということもあった。中小路さんのの自宅がくっついているのでいつも入り浸っていた。ここのみっちゃんという非常にちっちゃい子だったが、なかなか面白い子で、少し仲良くっなった。

お母さんもよくしゃべる人だが、お父さんはほとんど喋らない人で、お花の先生でお花教室をやっていた。 ここも今はは取り壊されてどこかへ移った移転した。ここの西側には少し空き地があったので車はそこで止めていたが、ある時に車上荒らしにあって免許証も盗まれてしまって、しょうがなく警察に行って、車で帰ろうとすると免許証ないやんかと言われたが、まぁしょうがないなということで許してくれた、おおらかな時代だったということ。 免許証盗られると、それは再発行してもらったり、後の手続きが大変なので、それの方がよほど大変で腹が立った。

入社して、しばらくして何がきっかけか忘れたがアーチェリーを始めた。 ずっと東の方へ行った羽束師の所にアーチェリー練習場があって、まあ単なる空き地で草ボーボーなんだが、ここでアーチェリーの練習をしました。 それでそこの練習場の叔父さんが薦めたのでホイットニーという有名ブランドの弓を確か15万円ぐらいで買った。 毎月の給与がそれぐらいしかない時なので、かなり高い買い物をしたことになる。 それでついでに会社にもアーチェリー部を作って巻き藁を長岡寮の裏手の体育館の所に置いておいた。練習は体育館の中でやるが、的を外して、体育館の板壁に穴をあけてしまったこともある。

大塚さんと言う同じ府大出の人で後でデジタルに移った目上の人と恩地君というこれも府大の卒業生の後輩が割と上手で、若いOSK の技術屋の星くんだけれど大きな人間ですけど、これも後で入ってきて、その辺のメンバーでやっていた。女の子が入ってきて、えらく熱心なのでおかしいなと思ったらどうも気があったらしくて、そういうことを言うので、こらいかんと思って車に乗せて、これこれこうだともすでに婚約してると言ったら、その子はあっという間に会社も辞めてしまって国に帰ってしまった。

アーチェリーは大会に出たりしたけれども、あんまり上手にならなかって途中でやめた。 万博公園の所にもアーチェリー練習場があること分かったけど行かなかった。 当時は360点360点満点で358ぐらいが世界記録だったが、今は360点満点が当たり前で、30m はもうなくなってしまって 50 m と70m、男子は90mになってていて、さっきの練習場は50mが最大だった。当時は50mでも的に当たったら良しとするくらいで、30 m で300点 というのは初段クラス、これぐらい行くと大会にも一応は出れるとして50 m にすると、だいたい260点ぐらいしか出ないで、最近の50 m はもうそれでも300点 ぐらいは初段クラスになった。 用具が良くなったのかトレーニング良くなったのか、ものすごい進歩だと思うが、当時はちゃんとストリングに対して顔をちゃんとを向けて、鼻先と顎の先をきちんと合わせ事はやっていたのだが、今はもう顔をまっすぐにして鼻は当てるが顎はずれずれてても構わないということになってるみたい。 確かにこの方が�狙いやす�い見やすい。 どっちにしても当時と今では、かなりルールに変化があったと思う。 当時はオリンピックに出る最短コースと言われていて、始めてから5年でオリンピックに出た女子もいたけれど、今はなかなかそうはいかない。才能があれば体力が、そんなにいるわけないので一気に上手になる。

同志社に亀井というのが居たが、OSKの堀君の友達で、どん亀と言われてたらしい。 的に矢を取りに行って帰ってくる時もブラブラブラと歩いて帰ってくると審判から注意されても、それでも知らん顔して帰ってくるということで、まあこれぐらい図太くないとアーチェリーはうまくならないと言う見本見たいだった。

大阪府立大学の話ですが大学紛争があって この話は別に書いたかもしれないが二重になっても書いておく。 大学紛争があって非常に少数の20人かそこらの、いわゆる新左翼を形成してたが、大学改革ということで大学の学長選挙があった。その時に何をどう間違えたのかはルール上教職員と学生と両方の信任投票が必要いうことになり学部の学生の信任を取るの難しいが大学院生は、 そんなに数がいなかったので、これは否決できないんじゃないかということで何講座の誰か忘れたが、彼と一緒に運動して要するに大学院生の半分の不信任を得て、結局候補者は不信任となってしまった。それを事務局的にやっていたのが、自分の所属講座の畑先生で、先生はカンカンになって怒って、こちらはもう大学にはおられないなという風に思っていた。

その後畑先生は学部長から学長学習にまで行った。 そう言う野心があったので当時そんなに怒ったんだろうというふうに思っている。それで御堂筋でデモがあったが、その時に参加する、しないと言うことでどっかの実験室で議論をしてたが、相手が滝口さんで、議論伯仲で、はっと気がつくと周りにいろんな人が取り囲んでその議論を聞いてた。その時は議論に夢中になってて、気がつかなかったが、みんな結構関心があったということだった。しかし最近になって、滝口さんに直接その話をしたら覚えていなかった。 途中で時間が来たので、その人ごみをかき分けて出て中百舌鳥の駅で検問に遭いながら靭公園まで行ったが、そこは大したこともなかったが扇町公園はもっと大変だったみたい。

大阪駅前は陸橋も人がいっぱい乗って凄い騒ぎになってた。 破防法が発動されたとか、どっかでは暴動が起きたとかいう噂が流れてくるが、あの時ほど現場ほど何もわからないと思った。後で家に戻ってテレビを見ると、いろんなことがなるほどこうなってたのかってのは分かるが、現場によるとさっぱり分からない。

自分の入っている工学部の建屋からの向かいというか池を挟んで 反対側に試作工場がありました。 ここには旋盤初め何でも機械があって、いつも空いているという状況で、そこの工場長は学生であろうが何であろうが自分でものを作れないといかんという考え方の持ち主で、そこへ行っていろんな工作をして簡単な拳銃を作って火薬は花火をほぐして作って、それで池に浮かんでいる鴨を狙ってたんですが、あまりにも初速が遅いんでパンと音がしてから着弾するまでの間に鴨は水に潜って逃げてしまいました。

試作工場の横には航空工学ってのがあって誰とかなんとかいう先生のが導入したハイブリッドコンピューターってのがあって、アナログ計算機とデジタルを組み合わせたやつで、まあ当時のデジタルコンピューターは微分方程式を解くのは非常に遅かったので、その辺はアナログでやって精度は低いがアナログならすぐに結果が出るので、それをデジタルで取り込んで処理すると言うことをやってました。

コンピューターの話は第6講座にあったHITAC201で 日立のドラムにレジスタが切ってあるという代物があってちょっとした大型の冷蔵庫ぐらいの大きさで、今から考えると非常に良く出来ていたように思います。 テープも付いていてこれは使わなかったですけども確か10進で16桁ぐらいの計算機で縦4 Bit のランプが横に並んでるという。 それで同じように押しボタンスイッチが並んでて一番最初のブートは押しボタンを押して10数ステップが入れるんですが、その当時の助手だった木下さんという人が、それの御守役で、俺はなんぼ酔っててもこのブートだけは目を瞑ってても入れられるという事を豪語していました。

何の必要があったかというとラリー競技での距離距離から分速から出すのに、逆は必ず計算しないと出てこないのでこれを全部印刷して電話帳みたいなのを一冊作ってラリーの時はその1ページを使うということになります。 なんでそんなたくさんいるかというと実際の走行距離と実際のオドメーターの表示の差を計算してその係数をかけるのでその係数ごとにそのページが必要なっており、だからその計算は1回決まると1ページしか必要でない。 どの係数になるかわからないので最初から全部持って行って、その場で該当の1ページを選択する。この計算は簡単な掛け算と割り算だけだが、縦に10km/hから60km/h を0.1km/h毎に、横にさらにその下の桁を10列印刷するのですが、計算も結構かかり、印刷はTTYと言うテレックスのタイプライタなので、110ボーの通信。1秒に10文字くらいしか印刷できないので、ほとんど徹夜で動かさないと終わりません。

コンピューターは前にも触れたように、ドラムにレジスタをおいてあるようなもので、全てミリ秒単位で動くので、実行命令のアドレスを示すランプを見てても大体何やってるか分かるようなしろものだった。データをロードするのにメモリーからロードしてレジスターに持って行くのでもドラムのアクセスしてそっから引っ張ってでまたドラムに書き込むということやらないといけないので時間はかかります。 ただバランスというか全体として非常に良く出来たコンピューターだと言う印象です。

他にはHIPACというのがあって日本で発明されたパラメトロンと言う技術を使った計算器で、非常に大きなものでどの部屋に置いてあったのが忘れたが、部屋に入ったら計算機はどこにもないので、おかしいなと思っていたら、前の壁のような大きなそのずっと続くキャビネットみたいなのが全部計算機だった。 これは磁気を利用したコアメモリの応用なので、遅いし大きいし半導体がない時代に頑張って作ったもんだ、というふうに思う。これあまり使った記憶はない。

だいぶ使ったのが機械工学の杉本先生が導入したJEC(ジェック)という機械でこれはコアメモリの機械でHITACより1000倍ぐらい速いという感じだった。 これは非常にシンプルと言うか何もない機械で16ビットだったが、機械語命令が10個かそこらしかないという非常になんかシンプルなマシンでした。 この機械でいろいろ遊んだ。スイッチはピアノの鍵盤みたいで、これでまず最初のブートローダーを入れるが、それもまあ結構16ステップもいらない程度。あんまりシンプルなんでこれはアセンブラぐらい書けるのではと思ってアセンブラを書き始めたが、アセンブラ自体は本当の機械語で書かないといけないが、数字で書くのはよいが、相対アドレスと言うかがアドレスの割り振りができないので、一旦決まったらそこから動かせないということになってしまう。

結局途中で諦めてまともに完成しなかったと思うし、あまり使いみちがなかった。最終的に、これは何に使ったかというと当時の大学院での研究である人間機械系のデータ解析に使った。 大学院での研究というのは先にそれより先に防衛大学から来たなんとか言う人がやってたんですが回転椅子を使って人間の制御係数を測って同定するという研究テーマで、要するにランダムデータを入れてその結果を見るというやり方。ただランダムデータはホワイトノイズをデータレコーダーを遅回しにしてやってるんで本当にランダムかが怪しいし、計算もアナログのテープを使った相関計を使ってやってるんで、本当にそれで相関が本当に取れているのかどうかの非常に怪しいと思った。

引き継いだ後はやったかというと、非常にきちんとやらないと信頼性のあるデータが得られないので、まず全部きちんとやること。 まず回転椅子はON/OFFみたいな制御だったので、巨大なアナログアンプを作ってそれで動かした。 アナログなので熱が出るんで水冷にした。 ある時に間違えて、トランジスタが全部飛んでしまったが、当時の担当講師である畑先生に一生懸命説明してまた買っていただいた。これで椅子はキチンと回転するようになったが、データのホワイトノイズは、どうも色々考えたが、先ほどのジェックコンピューターで三角関数を合成して一つのホワイトノイズ的なものを作った。これの欠点は0点付近で全部ゼロになってズバッと振れるので、これが欠点。

人間は結構振られて制御できなくなる。他の所はまあそれなりにランダム的な動きをする。 最初やったらデータがずれて何で出るのかわからなかったが、ディレイがある。 人間の操作が遅れてるにしてはえらく綺麗な遅れということなので、よく考えたらデータレコーダーに 2ch あったので、 開始信号と本来のデータというのを同時に取り込んで開始信号はトンと上がる立ち上がりの信号を入れて、それでデータを取り込み始めるが、どうもそこに何秒かの差があってそれが計算に全部出てきた。 要するに記録のヘッドの位置がチャンネル毎にずれいてたので、時間差が出る。 それを修正するとぴしゃっと合った。

最初にLCR回路を作って、それで計測すると、バッチリ合ったので満足して、昼間はデータを取って、夜はデータ処理をするという生活に入った。 要するに計算はフーリエ解析をするのだが、これはFORTRANの出来合いを拾ってきて、少し直したと思う。 その後何年か後に、丸岡と久しぶりに会った時に、バグがあったと言っていた。 結果に大きな誤差を生じるものではなかったと思う。それでも、まだまだばらつきが多くて本当にこんなのでいいのかなと言うことになる。

最後に修士論文を発表した時に、2講座の斉藤先生からこれはちゃんと誤差分布解析あったのかと聞かれて、それ全く考えもしなかったんで、唐突だった。 やっとけばよかったかなという風に思った。このデータを使って、同定式を合わせ込むが、最小自乗法でもあまりうまく行かない。 最後はグラフを目てみて適当に合わせこんだ。 あまり複雑な式にすると訳がわからなくなるので、単純な確か2次式とディレイを入れただけだと思う。 それもで、グラフで見るとばらつきがものすごくある。 参照した論文でも似たようなものだったので、これで良しとした。

最後は人間工学会で発表したが、あまり反応はなかった。それでなぜこういうことになったかと言うと畑先生が人間の環境からの影響を受けることを検討しようということで、大きなその恒温恒湿室を作ってですねその中で実験するということで、さすがに畑先生はお金を取ってくのが上手なんで取ってきて、それを作ってその中で環境を変えていろいろやったが、人間の適応性が高いので多少寒くしようが蒸し暑くしようがあまり影響はなかった感じがする。 だからもう一度別のテストをしないと回転椅子ではなかなか環境の対する影響が出てこない。 だけどそのおかげで温度と湿度の関係というのは非常に頭によく入ったような気がする。 この後を引き継いだのが近鉄に入った誰やったかな何とか君でるが、あまり大した答えは出てこなかったように思う。

オムロン立石電機に入ったのちサイバネに行って最初は研修ということで三島にやられた。 三島で何やってたかというと当時の専売タバコの専売公社の工場を3つ同時に作るということやってて、金沢盛岡函館。 私は盛岡を担当して盛岡に行った。当時のオムロンは制御盤をいっぱい作ってて、あちこちにその工場の設備の発注はあるが最後は全部オムロン へ外注でくるという不思議な状況がよくできたシステムなってて、立石電機の三島の工場では一つの図面を色々手直しして他の工場の制御盤を作ってた。

盛岡では、やっぱり機械屋さんがメインで電気屋は地位が低いんで機械屋はベルトコンベアではモーターまでつけてモーターの線が出てて、それまでできたら機械屋はもう終わりで帰ってしまって、あとはよろしくという感じ。こちらの仕事は大体始まるのが午後遅くから。やっとこさ。 それまで別に対してすることがないということになり、帰るのは夜中になる。当時は若かったんで夜中よりちょっと前に終わると、今日は早いなということで一斉に街へ飲みに行ってそれで明け方に帰ってきて、また次の日行くという何か不健康な生活をしていた。

川田さんと言う先輩と一緒に行った。彼は今どうしてるのか。 あまりの忙しさにだんだんだんだん曜日がわからなくなって、さすがに最後は専売公社の人から、もうちょっと休んだらと言われるようになった。 一度三島に戻るつもりだったが、どうも専売公社からあいつは置いとけという話だったらしくて、しばらくずっと付き合う羽目になった。

ある時などは全く見たこともない初めての盤の前に連れてかれて、これを動かんが直せと言われて分厚いシーケンスチャートも一緒に渡されて、あーどうしようかなと思って床に座り込んでシーケンスチャートを一つ一つ眺め始めたが、そのうちには他の人がやるという話になったが、これは1日かかるか2日かかるかわからんけどとりあえずやらやらんといかんなあというところで座り込んでやってた記憶がある。

川田さんというのはブルーバードの 3S を持ってて、それを持ってきたのを乗りまわした。 夜中に八幡平に女の子と一緒に行って色々やってたことを思い出す。下宿は何とか言うおばさんの下宿で、そこの娘がまだ高校生なのに駆け落ちをして大騒ぎになったこともある。 詳しいことは知らなかったが、後でなんかそういう話があった。 盛岡の市内は全く知らずに終わってしまった。

たばこの製造というのは非常に大規模で25メータープールにいっぱいぐらいのタバコの葉っぱを作るが、それはサイロと言われてるが、もし何か妙なことがあったらこの一杯ぶんの煙草を全部パーなるからそれのそれの弁償しろと言われて大変なこっちゃなと思ったことがある。タバコの葉っぱだけを吸ってもほとんど美味しくない。 砂糖、グリコース、ココアなどを混ぜる。 葉っぱもオリエントか言う種類があって、ピースはこれが入っていて、セブンスターも同じ。 要するに日本人はオリエントが好きと言うことになる。そこから引っ張り出してタバコの紙巻きタバコを作るが、これは英国製で英国人が調整にやってきてたと思う。 すごいスピードで巻いていって、真ん中にフィルターがあって、真ん中でスポンと切って2本にする。 休憩所には当然のことながらタバコがいっぱいも最初から置いてあって、みんな吸い放題になっていた。

今から考えると非常に不健康な職場であったが、今から考えると良い思い出。それでオムロンでは最初に三島に行って盛岡に行って戻ってきてしばらくするとなんか交通は忙しくなったので交通に行けと言われて交通に応援に行った。 当時、井上さんというモデムの専門家がいて、その人と一緒に大阪の曽根崎署の上に大阪管制を作っいたので、そこに一緒に行った。

びっくりしたのは信号機のセンサーの ON OFF 信号 をそのままリアルタイムで常時伝送で送っている。 信号機から全部線を引いて全部モデムがいると言うことで、商売にはなったんだと思った。 しばらく交通で特にそういう通信関係の仕事していた。 課長が香坂(こうさか)さんという人で、ちょっと吃りの傾向があるのか、あまり上まで行かなかった。

いつもだいたい席が一番前で何もすることない時は寝てたが、偉い人が来るからちょっと起きとけと言われて、はいわかりましたみたいな感じで学生そのままで、まあのんびりした時代であったと言うこと。戻ったサイバネでは今度中央研究所というより、事業部が関与しないような独立組織になった初めての課になってしまった。

それで何をするかというところで内海さんと言う少し怪しい人が課長になって運営していた。 それで最初は4ビットと8ビットのコンピュータらしいのを作りたかったんで、やることになった。 OMRAC4は PPS と言う ロックウェルのチップで 4 bit のやつがあってこれを使って作った。 バージョンは2つ作って、シーケンス図のとおりにプログラム出来るのと裸のPPSの2つを作った。 単発で売れるのと量産で流れるもの。 結局、やはり裸のPPSのの方がよく売れたと思う。ずっと後になってデジタルの誰かが買いましたよと言っていた。

シーケンスコードを読んでそれをエミュレートして実行する方式は、カウンターを内部で作るとメモリ容量も足りないし、速度も出ないので、それだけ外付けのハードを付けた。 処理プログラムであるエミュレータは64バイトx4バンクの256バイトの紫外線消去のPROMに入れてることにしたが、どうやっても入らない。 一週間かけて1バイトづつ押し込んでいった。 バンク毎に入れないといけないので、ますます制約が多い。 押し込む決め手は、PPSがマルチファンクションの命令を持っていたので、そのマルチを最大限に使うように組み直していった。 一種のパズルのようなもので、最後にパチっと入った時は感動した。

大きな紙に64バイトx4バンクの表を書いて、毎日眺めて過ごした。その時に、不便だと思って、ついでに作ったのがPROM書き込み器。 これのほうがヒットしたらしい。 書き込み可能なROMでプログラマブルロムと言うのがあってこれは紫外線で消去するようになっていて、石英ガラスの窓が付いている。 ここから紫外線を当てて消去して、また書き込む。 後に電気的に書き換え可能なEEPROMというもの出てきたが、今で言うフラッシュメモリみたいなものだった。 しかし最初物は256バイトしかない代物だった。それにプログラムを焼き付けて、実機でデバックするが、書き込むのに5分以上かかって、デバックして直して、消去したものにまた書き込んでと、これを繰り返すことになる。

従って、書き込みの時間は、何もすることなく、じっと待っているしかない状態となる。 消去は紫外線ランプの下に並べて放っておけば良いのであまり問題にならないが、書き込み時間は待っているだけでイライラする。書き込みの方法は書き込み手順を複数回行うもので、これが時間のかかる要因で、1回書き込むと結果を検査して、書き込めたら、その後の書き込み回数をプログラム出来るようにした。 書き込み回数で消去の時間も変わるので、テストの時は少しだけ書く。 本番の製品の場合は、仕様通りの書き込み回数までとことん書き込む。 これで書き込み時間が5分から数十秒まで短縮できて、ヒット商品になった。

仕様通りの書き込みならやはり元の5分はかかる。 これをアタッシュケースに入れて、持ち運びできるようにした。これは元々私の担当ではなくて、隣の座っていた森くんの担当だったが、彼はハード屋だったので、ソフト処理に不安を感じてあまり乗り気ではなかったが、毎日囁いて、その気にさせてしまった。 あれが最初のヒット作やという風に思うが、入社した最初から何かプロデューサー的なことをずっとやってたような気がして、自分でゴリゴリものを作ったことは、そんなにたくさんないような気がする。

ビジネス的には、サイバネの何とか言う営業の人がやってきて、当時は営業は自分で商材を探してきて、それを売り込むと言うスタイルで、面白い営業に当たると売り込んでくれる。 課長の内海さんはちょっと変わった人で何もしない人で、当時はセクレタリという女性事務員が課長と机を並べるというのが習慣になっていて、それが丸1日中おしゃべりをしているという状態で、毎日よく喋ることがあるなあというところで皆で噂をしていた。

途中でこの人がねずみ講マルチ販売に引っかかってしまって、それで結構色々あって結果的にも会社は辞めてしまった。その前にOMRAC4の後にOMRAC8というの作ったが、これバンキング金融部門が入ってたOMROC-Bと字体も似てるし仕様も似てるが二弾を作ってしまった。OMROC-Bを作ったのは西村さんで、最後は技術者でATMの事業部長までやった人で、ハード屋さんとしては一枚上手で非常によくできていて、かなわないと感じた。そんな状況で、OMRAC8は使い道がないんで止めるって話になってしまって、課長といろいろ議論と言うか喧嘩になってしまった。

その日は気分が悪くなってきて医務室で寝込んでしまって、それからしばらくはちょっとノイローゼ気味になってしまった。 心臓もドキドキするのでおかしいと思って医者に行ったら心臓病の薬を処方されて、結果的に神経的な問題だったが、なんか妙な薬を処方されたので、それからちょっとおかしくなったような気もする。 ある時は夜中にドキドキしてきて救急車を呼んだが病院に着くとけろっとして、帰りは電車で帰ってきてなんか気まずい感じがした。 要するに今で言うパニック症候群やったんだが当時は全く分らなかった。 当時やってたパソコン通信でも、そういうそういう人がいてどうしたらいいでしょうかみたいな話で、適当に答えていた。 今で言うとパニック症候群でかなり一般的になったんじゃないかと思うが、これで大体30歳ぐらいまで色々あったと言うこと。

その後は思い出すのはOMROC8を作ってリアルタイムモニタを入れてたが、この時に BIOS 的なものあったら良いなと思って、いろいろと分離して書いてコードを変えてたが、後ではっと気がつくと当時アメリカでは Microsoft がそれを作ってた。ほとんど同じ事やってたような気がするが、その時は全く世の中を見てなかったなと反省した。 それでとリアルタイムモニタのベースは扇谷さんという、交通の先輩だけど、DECのなんとかモニタの焼き直しみたいなのを必死になって勉強して自分なりに作り変えた。

これは OS というよりはモニタみたいなものの一番最初の話でこうを作るのかというのはよく分かったような気がしたが、それまでは全く知らなかった。 なかなかか面白くて、待ち行列なんか割と丁寧に作ってて待ち行列の入れ替え方みたいなことに面白いやり方があった。

その後なんでこうなったのかあまり記憶ないが岩本さんが持ち込んできたゼネラルオートメーションという会社のマシンがあって、これをコピーしろと言う話になって、今の中国を偉そうに言えない状態だが、それをコピーして作った。最初はいくつかは導入したが、その後はコピーして OS なんかも、その当時の著作権というのはどうなってたのか、いずれにしても中央研究所 岩本体制では大きなテーマになっていた。

ハードは一部をIC で作ってあったが、これを解析して全く同じものをディスクリートでコピーを作ってしまったというのは、さすがにビックリした。 交通のハード屋さんの実力は大したものだった。 詳細はわからないが非常に大きな基盤で作って、全部ディスクリート で作ってそれでいて、ちゃんと動いていた。

OS もリアルタイムモニタとあとは今のDOSみたいなものが両方あったが、DOSの 方はほぼ MS DOS と似たような感じだった。使っているディスクは何と確か1メガをパックで 2つ目が固定で10メガバイトで、大きなそのラック幅いっぱいの機械が入ってい た。 それでも今のマイコンよりずっと遅い処理をしていたが最終的にあちこち入ったと思う。

当時は、入社して3年で辞めるつもりが、ちょうど石油ショックが起きて、辞めるに辞められず、仕事も予算がつかないので、することもなく、体育館のような長岡の本館で暗いので蛍光灯の照明をそれぞれ点けて仕事をしていた。 することも無いので、ゼネラルオートメーションの説明書を片端から日本語にし ていった。 出来たのは、セクレタリの女性が清書して完成させていた。 周りも暗く、することも面白くなく、良い時代ではなかった。 しかし、翻訳して日本語を書くようになって、少しは日本語が書けるようになった気がする。 文体はこのあたりで確立したような気がする。

最終的に草津の金融工場の森さんと言う人が声をかけてきてくれて、ここの工程管理に使いたいということでそこへ入れた。 ディ スクは大きなものが要るということで パック のディスクで80メガで大きな洗濯機か冷蔵庫みたいな大きさの代物。 これはすごい音がして地下鉄をの電車が走るような音がごーっとしていた。 またヘッドがしょっちゅう壊れて、一 回壊れると20万円ぐらいかかり、工場が全部ストップするんで非常に怖かった と思う。 森さんはなかなか気の多い人で、オムロンをやめて自分でホロンと言う会社を 作ったが途中でおかしくなって、助けてくれと言う話になったが、それには乗れなかった。

他に自分でやったのは成田空港の ジェット燃料パイプラインの漏洩検知。 当時の成田空港反対運動の影響で、空港に運ぶジェット燃料のパイプラインを作る時に、漏洩検知装置が義務付けられれて、この話が落ちてきた。 自然の漏れは確率的に20年に一回とか言われていたが、過激派が破壊する可能性もあるとのことだった。 ジェット燃料のケロシンと言っても所詮は灯油で、ガソリンほどは危険ではないものの、市街地を抜けるパイプラインはほとんど例が無いらしい。 おまけに通常のパイプラインは地上に敷設するが、成田は市街地を通るので、そこは地中に埋めるらしい。 そうすると漏洩が起きた時には掘削をしないといけないので、それなりの精度が必要と説明された。 実際の現場には行かなかったが、最近ユーチューブで、このパイプラインを紹介している動画を発見して、懐かしかったし、だいたい想像していたものと同じと感じた。

それまでは貨車で運んでおり、流通に問題があった。パイプラインは全長が45 km あるが精度は1mとのことで、一気には無理なので、1km毎に端末を置いて、精度0.1%で1mの精度を確保しようということでした。 センサーは同軸ケーブルみたいなもので、灯油が染み込むとインピーダンスがわずかに変化して、その変化を検知して位置を割り出すというもの。 ハードは確か同期で入った内藤くんが担当した。 私はシステムの担当で、岩崎さんというおとなしいソフト屋さんと一緒に作ったが、いつもの癖で少し複雑に作りすぎた。

何処かのセグメントだけ止めるとか、複数のセグメントとかでややこしくなった。 何かあれば全体を一発で止めれば良いが、何故かこまごましてしまった。 この癖はずっと抜けずに、最後の大きなシステムの試作センターのシステムも飛んでもなく複雑になってしまた。コンピュータは、それまでやっていたゼネラルオートメーションのコピーを使って組んだ。 言語はFORTRANだったと思う。

実際の現地調整には行っていないが設置工事は結構大変で、機動隊と一緒に朝出ても昼過ぎには終わって帰らないといけないということらしく、設置も結構かかったよう。

ずっと後の10年後ぐらいだったが、そこの保守部品、特にディスクの部品がないとかいう話になって、草津まで行って探したが出てこなかった。 まだ現役で使っているだと思って、その分は嬉しかった。窓口はなんとか言う別会社で、当時の役所の担当は国土省だと思うが、そこの部門が立会検査に来ると言う話になって、祇園のお茶屋と琵琶湖を見たいと言うので雄琴とセットして接待していた。 それで私も参加することになって、確かお茶屋と言っても普通の家だったが、そこで料理を食べた記憶がある。 なにかの都合で客先はこなかったようだ。 そこで若い若いと散々言われて、こっちは30を超えたので、年取ったと思ったが、今思うとたしかに若かった。

ソフトウェアに関しては自分は全く才能が無いと思っている。 IBMのソフト適性試験でも藤田君は合格してIBMに入社したが、私は不合格だった。 ああいうコードを書くということに対してはなかなかうまくいかないが、システム全体のことを考えるのは、多少複雑でも全部頭の中で処理できる。 しかし何故かコードは書けないと言うのが私のトラウマ。 それで全生涯で書いたコードと言うのは、おそらく1万行も行かないと思う。 前に触れたモニターのコードは全部自分で書いたが、それでもそれはそんなに大した量ではない。

それでソフトをやっぱり書いてもらう人が要るので色々集めてたのですが、富士通の割と偉い部長だった井上さんに手伝っていてくれることになって、その人に色々書いてもらった。 井上さんは A4の用紙に縦一直線にフローチャートを書くという方法論の持ち主で、これは非常に役に立ったと言うか助かった。 まっすぐ書く、それとジャンプはちゃんとジャンプでできるように書くとかなかなか面白かった。 妙なスパゲッティにしない昔のアセンブラの書き方だが、これを徹底してて、なかなか気持ちよかった。 コメントも全部書いて、実際のコードに入れるかどうかは別にして後のドキュメントとしては非常に良いということにある。 この人はずっとやってもらってたが、最後になって他に仕事をしたかったらしくて、難題をぶつけてきたんで、縁が切れた。

次の話題のCATが進行している途中の話だったと思うが、組合が2つに別れて分裂していたので、それを統一すると言うことで、インフォーマルグループが作られた。 最初の一期生みたいだったので、鎌倉まで極秘で行って、そこで3日ほどの研修があって、次のグループの中核になるはずだったらしい。 どうもサイバネ時代の上司の清水さんが引いたらしいし、話をしてきたのも清水さん。 他は長野、香月、齋ぐらいか。 毎週、興正会館に集まって話をした。 ただでさえ忙しいのに、仕事を終わってから出かけた。 途中の王将で夕食を食べるのが習慣になった。 戻るのは夜中すぎ。

しかしこのグループは最悪のグループで、最後はみんなに見放されたらしい。 次は若手の福島くんとかの世代で、これは伏見の方に行ってこれも夜中にやった。 結局10年ほどやって、全金の組合をひっくり返した。 当時の主要メンバーは定年を過ぎて、70を過ぎたはず。 福島とか安田とかは、管理職になったら自分の組織で面倒を見た。 ずっと後になって、定年頃に用件があって京阪奈に行った時に、資料室で老眼鏡をかけて本を読んでいる安田氏を見かけて、時代も過ぎたと思った。

オムロンは私が入社した後は新卒を採らなくて、ずっと新入社員だった。 10年後ぐらいに福島くんの世代が入社して、その次の世代が入ってきて、その面倒までは見たが、その後は、ほとんど知らない。ゼネラルオートメーションの後は特にする事もなくあまり体の調子も良くないんでぶらぶらしてたが、ある時田崎さんが CAT の案件をアメリカの会社のボブ・ガウディオVPから話を持ってきた。 営業はポメランツで ポメポメとみんな言ってたが、彼が持ち込んできた話でそれを言うと周りから、深入りするとやらされるぞと言いいていたが、私はもうすることないし、案件としては手頃だし、これしかやることないと思って、サンプルを取り寄せたが、みんなサンプルと言っても試作品ばかりで、その試作品も非常に酷かったので、これはれは絶対勝てると思ってスタートした。

その直前に康之が生まれたし、この辺りが人生のターニングポイントのような気がする。 当時 EL パネルをオムロンでもやろうとしいて、ELパネルが光らないと言ってるんで、日経エレクトロニクスの記事を見て、原理はわかったので、それを回路で組んだらちゃんと光った。 要するにかける電圧を上げたり下げたりひっくり返したりしたら光ったので、みんなびっくりしていた。

そのうちにCATの話が来たのでスタートした。 これは確か9月ぐらいにスタートして、これも手がないんでどうしようかとなって、経戦に預かりになって後の越尾さんが担当になって外注先を探すということになって、新小岩の、今潰れてしまったがSORDと言う会社の佐久間さんにお願いに行った。 東京から JR で行くが、越尾さんはJR に乗った途端にかばん広げ報告書にコメントを書き出したのでビックリした。 ソードも手がないのでさらに下請けを紹介するということでテレデータを紹介してもらった。 そこでスタートしたのは確か10月ぐらいであったと思う。 社長は日立の人で歯が全部入れ歯で、これは柔道で歯が折れたと言うてました。 その数人しかいないテレデータで神さんと言うのがハード担当で、今野?とか言う若いのがソフト担当でした。

最初に設計してくれたのは物凄い教科書的な回路で、これは絶対コスト合わないと思って、以前に交通の事務所で居たところが全部実験室になっていて、この中をぶらぶらと何か参考になるものが無いかと見て歩いたら、非常に簡単な表示とキーと基盤しかしかないようなエントリーレベルのECRがあって、これで良いと思って、それを参考にしたら、極めて簡単な回路になった。 表示とキーの取り込み CPU とモデムで出来てしまって、最終的にコストは営業の指値より2割ぐらい安くてきた。 普通はだいたい営業の指値より20%高いのは当たり前だったので、これには皆びっくり。

それをとりあえず手作りで一個作ってその上でソフトを作り始めた。 11月11月ぐらいから作り始めたソフトを作った。 今野君はセンスが良かったので、割と良いのが出来たと思う。 結局年末の大晦日も年始も全部も缶詰なって作ったが収束しないので、これはいかんと思ってアメリカ行きのチケットを買って、1月15日だと思うが、それを行くぞと渡して取り敢えず完成した。

最後のアメリカでの打ち合わせの時に20桁表示の所をこれでは大きくなるし、コストも上がるので16桁表示にして、オムロンのキーを並べて、電話のハンドセットを置いたら大体の構成が決まったので、飛行機の中で黄色いファックス用紙の裏側に手書きでスケッチを描いて、日本に着いたときにファックスで送って、これが最終系になった。

それを受け取った当時の工業デザイン担当の小林さんが見ていて、あの原稿は無いのかと未だに言っていた。 彼のすごいところは、それにぴったりの受話器をきちんと探してきてデザイン的にはピシャと合った。

それで年明けにアメリカに持っていったのは、少なくとも外観はいかにも出来てるという感じにした。 最終系と比べて、手前が少し厚くて、その後修正してまともなった。 外形は最終的には射出成型にするが、サンプルは手作業の削出しが常識だったが、これで20台も作るのは天文学的なコストがかかるので、当時始まっていた真空成形でやることになった。 また技術が未熟だったので、ボスとか細かいところに、ちゃんと流れてなくって出来上がってもボスの頭がショートしているのが沢山あって、これを手加工で修正しなければならなかった。

だいたい20台ぐらい作ったと思うが結構手間がかかって大変だったがとりあえず1台か2台前に合わせて持って行った。 持って行く時に当時境さんというのが経戦担当だったが Northwest かどっかのファーストに乗せてもらえるはずだったが、結局エコノミーだった。 ロスでの乗り換えがちょっときついなあと思って、シカゴに着いたら荷物が来てなくて。大騒ぎなった。 荷物の中には当然サンプルも入っているのでサンプルがなくなったら何しに来たかわからんということになって、

それでは明くる日の朝には当然着いたんですけど朝は、 OBS 池田社長のところへ顔を出したが、何もなかったので、そのまま髭剃りなしで行きました。 前来た時にそういえば3か月か6か月で持って来るって言ったけど、本当に持ってきた、という話になった。 依然の9月には物がなかったので情けない話だったが、今回はそれなりのものがあるので、そのせいか家に招いてもらって、アラスカカニとかの夕食をご馳走していただきました。 アメリカの担当は竹村さんで、これはCATはすぐに何億の事業になるよと言っていたが、私は半信半疑で本当かなと思っていた。 しかし実際にそうなった。

現地で回線に繋いでテストすると動かない。 私の単純なコードの解釈ミスだったが、それとモデムの感度の調整とで、何晩も徹夜に近くなった。 詳細は別稿にあると思う。

彼らと一緒に今度はサンフランシスコに行って、一番最初に行ったのはバンクオブアメリカだったが、ここは女のマネージャーでけんもほろろで、全然取り合ってくれずしょんぼりホテルに戻った。 お客さんはやっぱり銀行で銀行に買ってもらって銀行が配布するということになってたのだが全然駄目だ愕然としてしょんぼりとして帰ってきた。

この後に今度は ハーフムーンベイへ行く途中にあるVISAの本社行った。 別荘みたいな本社で、ここはどうせあまり反応してくれないだろうと思っていたが、そこの副社長が技術系で、サンプルと言うので、バラックと思っていたが、これは完成しとるではないか、すぐにでも持ってきてくれと言う話になった。 こっちが仕込んでおいたモデムのスピーカーもちゃんと理解してくれて、非常に歓待してくれた。

モデムの音をわざわざスピーカーつけてたが、それもちゃんと評価してくれて素晴らしいという事言ってくれて非常に安心したことを覚えている。 それで後は動作テストをしたが何故か動かない。 一つはモデムのレベルが低いこと、もう一つはデータがセンターに認識されないのこの二つだった。 それでシカゴに戻って国際電話を繋ぎぱなしにして神さんにテストしてもらって、オペアンプの抵抗の問題なので抵抗の値を教えてもらってそれを当時はそこのアメリカの会社の倉庫で作業していたので、その倉庫の中をあちこち抵抗を探して出して、やっとアンプのゲインを上げて完成した。

後はセンターのデータなのだが、これは要するに通信コードを取り間違えてたことが原因で、それにある時はっと気が付いて、直したら一発で動いた。

それから量産に持ち込むのが大変で、1月に戻って結局、初回のロットが9月ぐらいにやっと出せた。 その間の4月に田中君がやってきて田中君が新人ながら量産の対応して、ついでに一緒に流通に異動してしまい、未だに恨みを持ってるんじゃないかと思うが彼はちょっとそういうセンスがあまりなかったんで、ちょっと大変だったんじゃないか。

今は能関係でがんばっているみたいだけど、そういう方面の方が得意みたい。 量産してる間に今度は国内を何とかしろと言う話になって、当時の吉田事業部長がやってきて食堂の清皇館に連れ出されて、なんとかしてくれという話をひざ詰めでやられた。 疲れてたんでもあまりやりたくなかったが、それと日本の使用に厳しい決済をする必要があるので、大丈夫かなと思った。 アメリカは単にチェックするだけなので大したことがないが、決裁するとなると信頼性が重要で、伝票も印刷するプリンタも付けないといけない。 それでも言われるままに作ったが、あまり満足のいくものではなかった。

結局その後金融かどっかが引き継いで仕上げたみたいだが、だいぶ違ったものになっていた。 伝票そのものは私が作ったものそのままで、最近まで同じものを使っていました。

アメリカのCATは、9月にぐらいに初出荷したが、その時に大変なニュースが飛び込んできて、竹村さんが死んでしまったということになり、境さんが電話してきて「竹村君死んじゃった」とか言うんでびっくりしました。 よく聞くと初出荷で届いたんで、その時にミシガン湖の最後のシーズンだった週末にヨットに遊びに行って、ヨットのブームがぐるっと回って頭に当たって水に落ちてしまったとのこと。 岸では奥さんとか子供が見てたことなんで非常になんか劇的なシーンだと思うが、オムロンのアメリカ事業の方向は大分変わってしまったのではないかなと思う。

竹村さんで思い出すのは途中で8051というチップを使っていたが、その書き込み機が無い。 出たてのチップなので書き込み機はあまり出回ってなかった。 それで向こうに行った時に日本でも一応借り出して、今日1日とか半日とか言って借りて行ってたんですがアメリカに行った時はどこからか入手しないといけないが、竹村さんにお願いしたところ、彼は曰く今日オヘア空港に着くやつが持っていると言うニュースを何処かで聞き込んできて、今から行ってくると言うてオヘヤ空港に行って、その人にそれ貸してくれって言ったらしいです。 突然空港で知らん人間が現れてそれを寄越せと言われたら、みんなびっくりすると思うんですけど、それでも彼はちゃんとそれを取っていてくれてそれで書き込みをして修正し出来た。

当時は時差ぼけもあったので夜中まで平気で仕事してたが、彼もそれに付き合ってくれて、いつも遅いので最後帰る時にアラームを仕掛けて帰らないといけないが、それがある時うまくいかなかった。 それで結局外へ出て鍵はかけたけどセット出来ない。このむちゃくちゃ寒い100年代の寒さで火事も凍るというような新聞記事があったが、その中でそこの警備の担当者が来るのを待ってたことを思い出す。

この街は本当にもう冬はもう本当に凍りついて幹線道路は除雪してるが、ちょっと脇に入るとほとんど道が氷で覆われてると思った方が良い。 だからちょっとしたことで、車が追突してるものは、よくあった。 こちらも車で下宿してベルサイユとか言うコンドミニアムで、そこから会社へ通勤するが当然車の上にも雪が積もっるが、もうめんどくさいので雪も下さないで、そのまま突っ走っていて、池田社長に今度の出張で来たのは、アメリカ人みたいに雪も降ろさないと、ビルの上の事務所から見ていて言ったそうな。 どうせ後ろが見えないして変にブレーキ踏んでもダメ出し、カーブでもブレーキ踏まずに回って行った。 それを上から見て池田さんが今度出張で来たやつは雪も降ろさんと言ったらしいが、そういうこともあったということ。

車は空港で借りたらよかったのですが、その暇がなかったので、街のレンタ事務所で借りたら、サンダーバードしかなかったので、それに乗っていました。 重い車体のFRでノーマルのタイヤで、氷の道路を走っていました。

会社の向かいはショッピングモールになっているが、そこはあったかくて皆Tシャツでいるようなところですが、外でちょっと立ちションして、しばらくしても別にあんまり寒くないんでいいかと思ってしばらくウロウロして戻ったら、このモールが暖かいので、おそらく血管が抹消結果開いたんやと思うけど心臓がドキドキしてきて、あこれは倒れるんじゃないかと思っていたが何とか持ちこたえた。

ちなみにアメリカの0度カッシの0℃で、摂氏でマイナス20℃ぐらいなので、摂氏0℃は温暖と言う感じがする。 何でカッシを使うかと言うのをやっとここで理解出来ました。 要するに塩を撒いた道路が凍る温度なので、車で外に出れない温度だと言う事。 またカッシ100度は体温で、これ以上だと外に出るのは危険だと言う事。 いつかサンフランシスコでタクシーに乗った時に、黒人の運転手が何処に行くのか聞くので、ロスだと言うと、100度以上だぜー!! と冷やかしたのが印象に残っています。

アメリカのシカゴの場所はシャンバーグと言うんですがシャンバーグビレッジと言う小さな町だった感じですが、最近行ったら非常に大きな街になっていて、ショッピングモールが他にもいっぱいできていて、当時の日本食堂は日光という韓国人がやってたが、そういうレストランがあって、偶には行った。 やはり疲れてくるとどうしても日本食でないとだめだと。 他の時はあまり苦にならないが疲れてくると、どうにも日本食になるという感じ。

ゴルフという通りがあってゴルフをずーっと行くと出たような記憶がある。 一番最初に行った時に空港からホテルへ行く時にタクシーに乗ったが、どうもなんか逆の方へ行くと思ったら、そのダウンタウンの方へ来てしまって、他のお客を降ろして、引き返して結構なお金になった。 会社は空港と反対側にあるのでホテルがあってハイヤットががあってそこにはよく泊まっていた。

ある時に遅く着くとマネージャーがいて予約してギャランティしてるはずなのにないと言う。 黙って無料券みたいの作り出したので頭に来ましたが、それでも代わりのホテルに行くと道が分からない。 同じ道でもNorthとWestと違う方向が書いてある場合があって、結局行きつけなかったので、戻って無茶苦茶言って、お前とか二度と来ないと言って出て近くのマリオットかに行ったが、次の日はそこに帰ってみると真っ暗になっていて、聞くと停電で電気設備が壊れてどうしようもない、今夜はもうどうしようもなくコンピュータも止まっていると言うので、とりあえずセキュリティと一緒に懐中電灯を持って部屋に入ったんですけど、セキュリティは部屋の前までで、室内はもう真っ暗だったが、どうも何か他の荷物を置いてあるような感じで、いつもだいたい荷物をまとめててる様にしているので、そのまま荷物持って出て、どこも駄目だと言ったらコンピューターも止まっているので、無料で良いととのことで、どこ行ったら良いかと言うと元のホテルになってしまった。 他に戻るホテルもないので、しょんぼり昨夜のホテルに戻ったら、昨日のマ��ージャ��が顔を見るなり、「You are so happy last night」。 言われてしょうがないなぁということでチェックインしが、一番いい部屋に入れてくれて、後でワインが手紙と共に届いた。 丁寧なお詫びの手紙がついていて、最初からちゃんとやっとけばいいのにと思った。 それでこのチェックアウトするときに一泊分と言うから、その時はカウンターにマネージャーは居なかったが、全部無料だろって言うたら、少々お待ち下さいと奥に引っ込んで、結果的に無料でいいです、と言うことで結局2泊共無料になった。 あまり嬉しくはなかったが、まあ良い経験だったなと思った。

それで怒り方は、その来る前にサンフランシスコにいたが、いつものセブンスクリークの端にある小さなイタリアンレストランに行ったが、そこで、あまり遅いので、他のお客がエラク怒って、子供に渡した風船まで突き返して大声で何とか文句言って帰ったが、どうもそれが残ってたみたいで、それと同じような事を言ったような気がする。何しても言うべき時に言わないかんというのが、これでよく分かった。

その後でオーストラリアへ旅行に行った時に買い物に行くと、そこに私の作ったCATがばっちり置いてあったので、冗談でこれは私が作ったんだよ、私のカードは全部通るよって言ったのですけどあまり通じてなくっ、2件目ではちゃんと通じてウケました。 そういうのはては、まだ使われてるんだと思いました。 もともと汎用的に使えるように色んな仕込みをしてあったので、一時シンガポールで株の取引の端末に使うみたいなこと話があったので、これはしめたと思ったが、なかなかそれは広がらなかったみたい。

直方工場に行ったときに10万台記念の金のCATがあったので、10万台を超えてに20万とか行ったのではないかと思うが、一時はクレームを起こしてジャンボを借り切って持って帰ってきたらしいが、それくらいしてもいいというレベルで儲かっていた。 アメリカの会社のCAT担当は何とか言うのお兄さんが一人しかいなかったが、彼の稼ぎが他の部門全体の稼ぎより多いということになって、なにしろ営業の指値より20%も安く、250ドルぐらいの工場仕切りで800ドルで銀行に直売していたので、おお儲かりのはず。 それで、そこの会社の暦年の赤字が一気に解消されたということを聞いた。

最初持って行った時に皆えらく喜んでるんで、何を喜んでるのかと思って聞いてみたらオムロンのロゴ入ってると、それに何が珍しいんだと思ったが、それまでのビジネスがOEMばかりで、オムロンのロゴは入っていないかったので、営業としては士気が上がらなかったらしい。 最初にしては割と大きなヒット作やったと思う。 これ以来短納期でものを作るというベースができたように思うが、オムロンの作り方は、あまりにも時間かかりすぎる。 時間をかけて作るべきものもあるのでしょうが、短期間でできるものはできるはずで、最短3ヶ月でできるはずで、これやってるのは今の韓国中国でやっている。

これでは日本は太刀打ちできないと思うが、それに顧客の要求レベルに合ったものが作れるかどうかだと思う。 あまりにも高品質ばっかり追い求めて時間もかかって良くないということ。 時間かかって良くないのは、別に開発コストがかかることもさることながら、出荷しようとした時のマーケティング情報がもう古くなってしまう。 だから短期で作らないといけない。 欲しいなと思った時はやっぱり3ヶ月ぐらいで物を出す、量産するということが非常に大事。 そしてタイムリーに物が出せるということになる。

この時以来、割と車内での発言力が増したように思うので、この後のスーパーメイト・ワークステーションに繋がっていくことになる。 まあこれが良かったのか悪かったのか難しいところだが、特に日本のものづくりのベースというのをどこに求めるのかというのは非常にポイントになると思う。 やはり今見てたら、やはり素材などが日本は強い、私が素材は作り込みが非常に重要なので競争力も出ると思うが、ああいうアップル的なものの作り方は日本では向かないだろうと思う。 やっぱりマーケティングからの情報で即ものを出すもしくは全く違うインパクトのあるものを出すのはなかなか日本では難しい。

部品とか素材は割と得意で韓国の輸出管理強化の問題でもあり素材が問題あって、ます韓国にはできない、中国でも同じだと思うが、ただ Huawei なんかの作りこみがやっぱり驚異的です。 あれは凄いものがあるんで日本ではまずまず対抗できないんじゃないかなと思う。 だんだんそれが基幹部品にまで及んできてるので、そこもだんだん押し込まれてるような感じがする。 だから本当の素材とかのレベルではいいと思うがリエンジニアリングしても突き止められない所で、そこは非常に強いと思うが、ただそれが根底から崩れるとどうしようもなくなるという風に思う。

います例えば CDプレーヤーの後に MD プレーヤーが出てきたが日本では MD プレイヤーを一生懸命に作ってメカ的に素晴らしいもの作ったが、これは他の国では真似ができないと思うが、アメリカで見てると mp3のプレイヤーが売っていて、それも思わず買ったけど、何でこんなものは要るんだと思ったら、ジョギングしながら聴きたいという要望があってメカではどうしても、そういう衝撃振動に弱いので mp3がいいということだが、mp3は基本的にはすぐ出来てしまうのです、それが浸透してきて結果的にアップルの iPod みたいなものに繋がっていくということになる。
【回顧録】 CAT以降 修正2 完了
【回顧録】 CAT以降 修正2
2020年3月8日 13:34:59 作成
20200310 修正

ブラブラしている間に、田崎さんがアメリカらの話を持ってきた。 CATの話だっ
た。 VPのボブガウディオと営業のベンポメランツが持ってきた。 周りのみ
んなはあんまり関与するとやらさせるぞと言っていたが、モノが小さく、それま
では大きなもので、手に持てるくらいのものをやりたかったので、話に入っていっ
た。

その時に世の中に出ていたサンプルを6種類送ってもらったが、確かにバラック
に近くて、これなら十分に勝てると確信した。

後で気が付いたが、アメリカのオムロン子会社はまともな会社では無いので、白
人は来なくて、こう言うガウディオはスペイン系、ポメランツは後でイスラエル
に行った時に分かったが、イスラエル系つまりユダヤ人だった。

事業部が手を出さないので、経戦預かりとなり、越尾さんが担当した。 やるこ
とになったが、実際に開発をするところが無いので、越尾さんと一緒にJRで新小
岩まで行って、当時のSORDの何とか言う常務と話をして、SORDは出来ないが、そ
この下請けを紹介すると言う話になった。 越尾さんはその後もそうだったが、
忙しい人で、JRに乗って、座ったかと思うとレポートにコメントを、それもぎっ
しりと書き始めたがので、エラい人と一緒にやることになったかと思った。

それでテレデータと言う神田にある零細の開発会社を紹介してくれたのが、9月
の肇だったと思う。 社長は日立の脱藩組で、小柄だががっしりとしていて、前
歯がみんな入れ歯で、柔道をやっていたと言う事。 そこのNo2は神さんと言う
ハード屋さん。 おとなしい常識的な人だった。 ソフトは今田と言う若い技術
者で、センスはそこそこ良かったと思う。 もう一人は名前は忘れたがハード屋
さんが居て、最終的に彼が混乱の元になる。

アメリカに行って打ち合わせて、竹村さんと言う日本人のVPが担当になった。
一緒にサンフランシスコまで行って打ち合わせたと思う。 と言うか彼が最初の
火付け役だった。 後で営業業担当として名前を忘れてしまったが、一人やって
きて、この営業の利益で他のSWEDAへのOEMのレジスターの利益を超えたらしい。

その時はガウディオも一緒で、毎晩彼に夕食を食わせてもらった。 と言うか出
張費か交際費で出たと思う。 東の人間は、西に行くのを非常に喜ぶ。 気候が
良いのと、食事が美味しい。 この時に連れて行ってもらったGrott No9がその
後も行きつけになる。

セントルイスにも行った。 何処に行ったのかは全く記憶に無いが、川船のレス
トランで、キャットフィッシュつまりナマズ料理を記念に食べた。 この時は行
かなかったが、後にアーチの中に登ってみた。 エレベーターになっている。

現地での打ち合わせで大体仕様は詰まっていたし、帰りの飛行機の中で黄色のファッ
クス用紙の裏に手書きしたスケッチを元にデザインした。 この話はその時に担
当した小林氏がいつも飲み会で言っていた。

ハンドセットありとなしのバージョンがあって、ハンドセットを用意しないと行
けなかったが、これまで作るのはしんどいので、適当なのを探してくれと小林氏
に言ったら、探してきて、これが本体のデザインとピッタリだった。 今でも話
の端に出てくる。

こう言う仕様を元に9月初めにテレデータと打ち合わせて、まずハードの設計を
始めたが、しばらくして送ってきた回路図は、一見して到底要求コストに合わな
いごついものだった。 これではいかんと思って、当時の体育館みたいな本館は
実験室になっていたが、何か参考になるものはないかと見て回ると、ワンチップ
CPUにキーボードとディスプレイを繋ぎ込んだだけのエントリークラスのレジス
ターがあって、これだと思って、そのアイデアで回路を設計した。

8051と言う当時の最新のインテルのワンチップCPUを使うつもりだったが、結局
は使いこなす最大のポイントはLSIのピン数つまり入出力の数の問題だった。 ディ
スプレイとキーボードの入出力を共通にして、ディスプレイを消している間にキー
ボードを制御したりした。 ハード屋さんの神さんはハードしか分からないので、
こう言うソフトとの協調で動くシステムは考えられないと言う事だった。 しか
し低速とは言えモデムを搭載しないといけないので、この設計には実力を発揮し
た。

ソフト開発に使えるバラックのシステムを作ってソフト開発を進行させ、その間
にデザインと手作りのケースと基盤を20台ほど作って年明けの完成を目指した。
年末もギリギリまでやって、大晦日に神田からそのまま家に戻って、正月はまた
出掛けた。 1月15日出発のチケットを用意して、ソフト開発の今田君に渡して、
何が何でもやると言う事にした。

大きな問題は、最新チップである8051は例の紫外線消去のPROMが乗っていたが、
これへの書き込器が世の中にも数少なく、何とか借りても、期限には現場まで引
き上げに来たほどだった。 これは後にアメリカに行った時も問題となる。

ケースは当時の最新技術の流し込みの真空成形だったが、技術が未熟で、長いボ
スなどは途中で切れているようなのが多かったので、後修正で時間がかかった。

それで何とか2ー3台を仕上げて、ノースウエストでロスまで行ったが、この時の
経戦の担当は境さんになっていて、彼がノースの営業と話をして、ファーストに
乗せてもらう話になっていたらしいが、これはそうではなくて、結局エコノミー
の座席を2つもらっただけだった。 さらにはロスでの乗り換えがギリギリで、
荷物をほおって置いたのが気になったが、シカゴに着くと荷物が来ない。 荷物
の回転台が停まってしまった時はがっくりした。 せっかく作ったサンプルもみ
んな荷物のなかなので、もし完全にロストしたら大変な事になるところだった。

その後バッゲージロストはしょっちゅう起こることを体験する。 ちょっと厳し
い乗り換えをするとロストする。 後述するが一時は完全にロストして、要する
に盗難に遭ってしまった。

着替えもみんな荷物の中なので、翌朝は髭も剃らずに、そのまま会社に行って、
当時の池田社長に会うことになる。 この前会ってから3ヶ月でサンプルを持っ
てきたことに感銘を受けておられた。 その後自宅でアラスカンクラブをごちそ
うになった。 当時はまだ30そこそこだったので、若いのが来たと言う感じだっ
たと思う。

事務所に戻ってしばらくすると、会議室で大騒ぎしている。 何かと見るとCAT
を見て騒いでいる。 よく聞くと今までオムロンの会社に居て、オムロンのロゴ
の入った機械を見たことも売ったことも無いらしい。 レジスタはSWEDA印で売っ
ているので、営業のテンションがあがったらしい。

現地に着いて、やっと現地の電話線に繋げたので、早速テストをするがうまく行
かない。 何度やってもダメ。 作業場は、会社の倉庫の一室で、しかし寒いの
で倉庫全体が暖房されていると言う日本では考えられない設備だった。 結局
原因は、送信コードの理解が間違っていたと言う事で、一気にケリがついた。
あとは、モデムの感度が少し足りないので、国際電話を繋ぎ津嗅ぎっぱなしにし
て、神さんにテストしてもらって、その定数の抵抗を倉庫中を探しまくって交換
してやっとうごくようになった。

当時のシカゴは100年来の寒さと言う事で、火事の放水が凍り付く新聞記事を良
く覚えている。 車で移動中に車が故障して凍死したとか、自宅で寝ている間に
暖房が停まって死亡したとかのニュースがあってビックリした。

後に会社の前にあるモールで買い物をして、ションベンがしたくなって、外に出
たらあまり寒い感じはしなかったが、中に入ると心臓がドキドキして、ぶっ倒れ
るかと思った。 思ったより体温が落ちていて、旧に暖かいところにはいると毛
細血管が広がって、血圧が下がるらしい。

空港に着いた時にレンタカーを借りておけば良かったが、空港からはタクシーに
乗って、しかも行く方向が逆方向で、街の方に行ってしまって引き返す羽目にな
る。 それで、会社のあるシャンバーグのレンタカーに行って、ここにはあまり
車が無かったので、ムスタングのファイアーバードを借りて乗っていた。 道は
凍っていて、少し無理にブレーキをかけると追突される。 交差点で信号待ちを
していると、ドーンと言う追突の音が良く聞こえた。

宿泊は近くのベルサイユと言うコンドミニアムで、現地で言うと普通のマンショ
ン。 入口付近にDenysがあったか。 食事は日光という韓国人が経営する日本
料理屋と、その後にもう少し遠くに出来た何とか言う、日本の飲み屋そのままの
ものがあった。

ベルサイユからは、ムスタングで会社まで行くが、後ろの雪を落とすのも面倒だ
し、どうせ見てもしょうがないので、そのまま走っていったら、ビルの上から見
ていた池田さんが、こんどの出張で来たのは雪も落とさずに現地人並だなと言っ
ていたそうな。 日本人は必ず落とすそうな。

倉庫で毎晩、時差ボケを幸い夜遅くまで作業していると、最後になって、最後の
人間は、戸締まりをして、玄関のセキュリティをセットして帰るが、有る時にこ
れを間違えてしまって、車のキーを置いてきたのか、零下20℃の玄関で、助けを
待つ羽目になった事もある。 倉庫の周りは除雪をしていないので、分厚い氷
になっている。

ちなみに、この時ほど華氏温度が有効だと思ったことは無い。 100℃は体温だ
として、何故中途半端な温度が零度なのかは分からなかったが、ここに来ると零
度は、塩を撒いた道路が凍る温度で、要するに外に出られないと言う事。 100
℃越えは言うまでも無い。 有る時にサンフランシスコでタクシーに乗ったら、
黒人の運ちゃんが、何処に行くのかと聞くので、ロスだと言うと、ひえ-、あそ
こはオーバーハンドレッドだぜと言っていた。

前述したが、8051の書き込器の入手が最大の問題だった。 ソフトを修正しても
書き込めないので、最終テストが出来ない。 そこで竹村さんが何処かで今晩の
飛行機でその書き込み機を持って行くのが居ると言う話を聞きつけて、夜中に行っ
てくるわと言って出て行って、戻ってくると書き込み器を持っていた。 どう言
う話をしたのか、向こうにしてみれば、飛行機を降りたら突然東洋人がやってき
て、書き込み器を寄越せというのでビックリしたのではないかと思うが真相は分
からず。

【書き込みここまで】
20200310再開

やっと調整が出来て、意気揚々とサンフランシスコに出かけたが、最初に行った
バンク・オブ・アメリカの女性マネージャーは散々で、全く評価してくれない。
他も行ったが、あまり評価は良くなかったので覚えていない。 午後に101から
ハーフムーンベイへ行く途中にあったと思うが、道を少し上がった一見別荘風の
建物がVISAの本社だった。

半分諦めて技術担当のVPに会うと、これが絶賛してくれた。 曰く、サンプルを
持ってくると言っていたが、どんなバラックかと思った。 これはほどんど製品
になっているではないか。 モデムの音がスピーカーで聞こえるのは非常に良い。
などなど。 スピーカーはコストアップになるし、音量調整を付けないといけ
ないので、手間はかかるし、美くなかったが、無理に付けた。 使用する店頭
ではほとんど意味が無いが、調整中とか、このような技術の人に評価されるので
はないかと思ったが、VISAでは、その狙いがバッチリとあたった。

この時にハーフムーンベイと言う非常にロマンチックな地名を覚えて、その後に
この辺をウロウロすることになる。

ビジネスの詳細は知らないが、この高評価でビジネスが決まった様に思う。 他
にはディスプレイの輝度を調整できるようにもした。 今田君が、輝度の指標を
どうのこうの言うので、それは適当で良い、適当な数値で輝度が変われば良いと
言うことで作った。

この端末は設定が多いので、当時はまだ珍しかったポータブルPCで設定ツールを
作った。 シリアルは電話線のモジュラージャックの空きを使ったと思う。 オ
ズボーンと言うミシンみたいな形で、小型のディスプレイが入っていて、キーボー
ドがカバーになっていた。 これを2-3台買って帰って、設定ソフトを作ったが、
機能は簡単なので、すぐに作れたと思うので、あまり覚えていない。 生産の最
後の設定が楽にできたと思う。

他のアプリにも使えるように、拡張性をもたせるのと、PROMをマスク化した時の
リスク回避に、ソフトの所々にスタブと言っていたが、外部のPROMで処理できる
ようにしておいた。 その後のバージョンアップで、マスクはほとんど使わなく
なっったと言うことも聞いたし、拡張性があるので、シンガポールで株取引の端
末に使う話もあったが、あんまり広がらなかった。

ずっと後にオーストラリアに旅行に行った時に、CATが置いてあったので、これ
は俺が作ったので、俺のカードは無条件でパスするようになっていると冗談を言っ
たが、最初の店では通じず、次の店では大受けだった。

記念にサンプルを1台持っているが、流石にケースは黄変してきているし、もの
すごく重い。 確かあまり軽いとカードを入れた時に落っことすということでわ
ざと重くしたのかもしれない。

決済機能は無いので、割と楽に作れたと思う。 後述するが、この後で手掛けた
国内版は決済があったので、結構面倒だった。

アメリカからは2月頃に戻ったが、それからの量産準備が大変だった。 デザイ
ンは少し厚ぼったかったので、全面を薄く修正した。 他の設計も見直して、ソ
フトもバグがたくさんあったので、それを修正。 信頼性試験もしないと行け
ない。 真空成形で取り敢えず作ったので、残りのサンプルも仕上げて、ケー
スは金型を作って成形品にしないといけない。

回路は少しやったことがあるが、成形品は初めてで、タックデザインと言うこと
ろに設計を任せたが、汚い図面で、後に成形屋さんから、大分嫌味を言われた。
成形のための金型を作らないといけないが、デザインは最初からやっていたオム
ロンは小林くん、連れてきたデザイン会社は名前は忘れたが、中川さんという同
い年だった。 そのカバン持ちで来ていたのが実務をやってくれた大内田さん。
小林大内田組とは、数少ない付き合いの一つになった。

長岡事業所の玄関に商談コーナーというものがあって、ここに社外の営業がやっ
てきて打ち合わせをしていく。 いつも誰か居て活気があった。 ちなみにその
後移転した京阪奈のイノベーションセンターにも広々とした商談コーナーがあっ
たが、一度ずっとそこで待つことがあったが、誰も居なかった。 車での出入り
もなくて、山に籠もっても駄目だと思った。

元々京阪奈には反対で、その時は方向を左右する力はまったくなかったが、せめ
てもの抵抗で、京阪奈には一度も行かなかったが、義雄会長と話しをしないとい
けなくなって、機会を見て行ってみたが散々だった。 ここに行かなくてよかっ
たと思った。

4月からは新入生として田中くんがやってきたので、彼に手伝わせてやったが、
彼も京大は出ているが、こう言う作業には向いていなくて、世話がかかる。 彼
は結局事業部に移管した時に一緒に異動してしまった。 元々仕舞が趣味だった
らしくて、今では能の先生になってしまった。 オムロンでは事業的にはあまり
パットしなかった。 最後はオムロン財団に行かされていた。

工場は直方で、キャッシュレジスタを作っている会社。 片田舎にあるが、工場
には万国旗が立っており、世界中からお客がやってくるらしい。 入った奥の建
物は食堂で、最盛期には3交代ぐらいで、女の子がわんさと居た。 オムロンか
らの出張者は、ここで奥さんを見つけて、と言うか捕まえられて、結婚したのが
多かったようだ。 直方で一番大きな企業で、商工会議所の会頭を社長がいつ
も務めていた。

食堂の手前は本部の建物で、ここに展示スペースがあって、後に我がCATの10万
台記念の金色のモデルが飾られていた。 食堂の前の建屋は総務で、その奥は資
材倉庫になっていた。 その手前は基板工場で、はんだ槽で基盤を作っていた。

さらにその手前はメインのラインで、このラインで一気に組み立てをする。
CATの最初のロットは、定時後に係長クラスが試作ラインを作って、そこでやっ
てみる。 自分でも面白いので、中に入れてもらって作ってみた。 これやりに
くいなーとか叫びながらやっていて、その結果は設計に反映した。

その手前の2つの建屋だったと思うが、大物の組み立て工場で、後に持ち込んだ
ワークステーションは最後の第6工場で作ることになる。

これだけ国際化しているのに、後で色々出来たらしいが、当時はホテルは一つし
かなくて、直方ビジネスホテルで、おばさんがやっていた。 とんでもない通路
を通って風呂に入ったような気がする。

この時は気が付かなかったが、直方工場の節目節目に、新しい製品を持ち込んだ
ようだ。 この時はレジスターが下火になった頃で、それからはアメリカのCAT
と国内のNTT向けのものを手掛けることになる。

そうこうしているううちに時間が経って、9月だったと思うが、やっとの思いで
最初のロットの確か100台が完成して、アメリカに送ることが出来た。 しかし
これが悲劇につながっていく。 到着したタイミングは、冬の早いシカゴの最
後の温かい週で、これを機会に竹村さんは湖にヨット遊びに出かけたそうな。
その時にヨットのブームが頭に当たって、湖に落ちて、そのまま死んでしまった。

長岡の何処かの会議室で電話を取ると、境さんが「竹村くん死んじゃった」と言
う。 びっくりして声も出ない。 映画のワンシーンのように、奥さんや子供の
見ている前の話で、奥さんにも自宅で料理をご馳走してもらってこともあり、本
当に他人事とは思えなかった。 大きく言うと、このおかげでオムロンのアメリ
カのビジネスは大きな影響を受けたのでは無いかと思う。 翻って自分の立場も
強くはなくなってしまった。 頑張って1週間納期を早めたことが悲劇につながっ
てしまった。

彼はこCAT事業は何億にもなるビックビジネスだと言っていたが、そんなになる
とは想像が出来なかったが、その後は本人が居なくてもその通りの展開になった。
何しろ営業の原価指値を20%も削減したので、これで儲からないわけがない。
普通は営業の指値から20%ぐらい足が出るが、その後の習熟で目標に収まると言
うのが常だったので、原価3万、売値8万で、OEIの会社の積年の赤字が一気に吹
き飛んだと言うことだった。 その後はいろいろ沢山お金を使ったが、この時
の利益でお釣りが来ると思っていた。

その後の事業は金融に引き継がれて、最初のはCAT100となり、市橋が担当したCAT200
も出たが、単に大きくなってコストが上がっただけになった。 コンペティタは、
その間に小型のカードリーダーに毛の生えたような安いものを作ったので、オム
ロンのビジネスはだんだん縮小してきた。 せっかく育たて営業もコンペティタ
に引き抜かれてしまい、せっかくのECの入り口に立ったのにまたしても負けてし
まった。

後追いで、小型をテレデータに作らせたらしいが、似たものを作っても駄目だし、
開発の契約を巡ってトラブルになり、テレデータも分解してしまって、CATビジ
ネスは終わってしまった。

CAT100の改良設計は直方工場でやったそうだが、設計ミスで全数引き上げで、ジャ
ンボ一機の3000万で運んだそうな。

CAT100 が一段落していると、金融の事業部長のこれも吉田さんと言う人が一人
でやってきて、清皇館と言う食堂の端に腰掛けて、NTTの国内向けをやってくれ
と言う。 あまり気乗りがしなかったが、プリンタ付きの端末を20台直方で作っ
た。 デザイン的にはあまり良くないと思ったが、NTTからの指示がやたらと細
かくて、その通りにやったら、あまり出来は良くなかった。

バグだらけのほとんどまともに動かない端末で、NTTの立ち会いをした。 20台
を直方の会議室に並べて、NTTがサイコロで端末を選んで試験したが、幸運にも
バグはには当たらなかった。 バグが出た時の言い訳まで用意していたが、何と
か通ったが、ビジネスは進まなかった。 その後、エースのXXさんがプリンタ
内蔵の端末を作って、それが店頭に並ぶことになる。 ちなみに最初の端末を
作った時に伝票が必要なので、伝票を作ったことなどなかったが、伝票の会社を
呼んで、例の商談コーナーで打ち合わせて作った。 ほぼNTTの原案どおりだっ
たが、この4枚複写の伝票がその後ずっと使われる事になる。 カードを使って、
伝票を受け取るたびに、当時を思い出す。

CAT100の最初の営業は、ずっと後になって、管理職研修の時に、研修所でバッタ
リ出会った。 I miss you と言っていた。

いつか休みの日に暇だろうからと、名前は全く忘れてしまったが、自分の車で、
何とか言うテーマパークみたいなところに連れて行ってくれた。 りんごのサイ
ダーとか土産を売っている、古い村を再現したところだった。 何処にあるった
のか思い出せない。

ホテルがあってファンやってたと思うんですけどホテルがあってそこにはよく止
まってましたがある時へ行くと細くつくとマネージャーがいて予約して予約して
ギャランティしてるはずやのにないと言うとね黙ってなんか無料券みたいの作り
出したんで頭に来てですねその時にも無茶苦茶言うてですねもうお前とか二度と
根本言って出たんですもんねどこ行ったら選んだということで次のとこはえっと
近くのマリオットかなんかだと思いますけどそこへ行ったんですそして次の日は
そこも帰ってみると真っ暗なんですね音で聞くと停電で中華電気設備が壊れてど
うしようもないとね今夜はもうどうしようもないと無理だとコンビらはみんな止
まっとるということでとりあえずセキュリティに懐中電灯を持って一緒に持って
もらって部屋に入ったんですけどその時はもう真っ暗行ったんですけどどうも何
か他の荷物を置いてあるような感じなんで怒らいかんと思っていつもだいたい荷
物をまとめててる曲があるんでそのままも荷物持って出てお前どこも駄目だと言
うたらコンピューターも持って干してる子も無料で弾いたいう所で出たんですけ
どどこ行ったら選んだら元のホテルを踏んでもしょうがないなと他に踊るあそこ
はなかったんでもうペンションしょんぼり言ったら昨日のマネージャーが言って
あーあーそーはっぴーと言われてしょうがないなぁということでチェックインし
たんですけどもうちょっと一番いい部屋に入れてくれて後でワインが届きました
ので丁寧なお詫びの手紙がついてましたまあ最初からちゃんとやっとけばいいの
にという風に思いましたけどそれでこのチェックアウトするときに一泊本と言う
からそん時はマネージャーいなかったんですけどめんどくさいねこらんこんなこ
とはこの全部無料だろって言うたらちょっと少々お待ち下さいと奥に引っ込んだ
んですけどそれで結果的に無料でいいですということで結局203泊200日に置くと
も大きく無料になったんであんまり嬉しくはなかったんですけどまぁいい経験だ
ったなと思いますそれで起こり方はですねその来る前にサンフランシスコにいた
んですけどこのいつものいくとセブンスクリークの端にあるイタリアン小さなイ
タリアンレストランに行ったんですけどそこで あまり遅いんで他のお客が偉い
怒ってですね子供にも出して汗風船までとってそれを突き返して大声で何とか文
句言って帰ったんですけどどうもそれが残ってたみたいでそれみたいなこと同じ
ような事を言ったような気がしますだけど何しても言うべき時に言わないかんと
いうのがこれでよくわかりました

完了

まぁ最初にして割と大きなヒット作やったなと思うように思います これ
以来超短納期でものを作るというベースができたように思いますあまりオムロン
の作り方あまりにも時間かかりすぎるまあ時間をかけて作るべきものもあるんで
しょうが短期間でできるものはできるはず8歳3ヶ月でできるはずやでこれやって
るのは今の韓国中国でやってるわけですねこれでは日本は太刀打ちできないと思
いますそれに顧客の要求レベルに合ったものが作れるかどうかだというふうに思
いますあまりにも高品質ばっかり追い求めて時間もかかって良くないということ
ですね時間かかってこないのは別に開発コストがかかることもさることながら帰
ろうとした時の UR マーケティング情報がもう古くなってしまうんですね1年ぐ
らい経ったらだからだから短期で作らないだから欲しいなと思った時はやっぱり3
ヶ月ぐらいで物を出す量産するということが非常に大事ですそしてタイムリーに
物が出せるということになります

まあこの時以来割と車内での発言力が増したように思うんで、この後のスーパー
メイト・ワークステーションに繋がっていくことになります。 まあこれが良かっ
たのか悪かったのか難しいところですが、特に日本のものづくりのベースという
のをどこに求めるのかというのは非常にポイントになると思うんです。
やはり今見てたら、やはり素材などがあり日本は強い私が素材は作り込みが非常
に気分ので競争力も出るながらああいうアップル的なものの作り方いのは日本で
は向かないだろうというふうに思いますやっぱりマーケティングからの情報で即
ものを出すもしくは全く違うインパクトのあるものを出すのはなかなか日本では
難しい何故か難しいという風に思いますね部品とか素材は割と得意ですねだから
韓国の輸出管理の出教科の問題でも輸出管理強化の問題でもあり素材が問題あっ
てます韓国にはできない中国でも同じだと思いますただ HUAWEI の Huawei なん
かの作りこみがやっぱり驚異的ですねあれは凄いものがあるんで日本ではまずま
ず対抗できないんじゃないかなと思いますだんだんそれが部品まで及んできてる
んで基幹部品にまで及んできてるんでそこもだんだん押し込まれてるような感じ
がするだから本当の素材とかお姉さんみたいな部品見てレベルではいいと思うん
ですがよそリエンジニアリングしても突き止められない料理ですねそこは非常に
強いと思うんですがただそれが根底から崩れるとどうしようもなくなるという風
に思います例えば CDプレーヤーの後に MD プレーヤーが出てきたんですが日本
では MD プレイヤーを一生懸命に作ってメカ的に素晴らしいもの作ったんですけ
どだからこれは他の国では真似ができないと思うんですがと持ってるとアメリカ
で見てると mp3のプレイヤーがちょっと打っててそれも思わず買いましたけど断っ
ていましたけどなんだこんなもんはいるんだと思ったらやはりジョギングしなが
ら聴きたいというあれがあってメカメカしいではどうしてもそういう耐衝撃耐振
動に弱いので mp3がいいということですが mp3は基本的にはすぐできるんでどん
どん野村それが浸透してきて結果的にアップルの iPod みたいなに繋がっていく
ということになります
【回顧録】 円光寺
【回顧録】 円光寺
2022年1月20日 11:49:47 作成

円光寺

円光寺は父親の出身家でよく行きました。 通称キタと言います。 小さな頃はこの辺では珍しくテレビを買ったので、それを見に行ったこと覚えています。 フランキー堺の「私は貝になりたい」というような場面があって、公園でブランコに乗っているような場面が記憶にあります。 昔の改築する前の本堂の奥にある部屋だったと思います。 その頃はまだ一番上の兄貴が生きていてそれが買ったんだと思います。

お寺の東側は畑になっていて、そこで少し作物を作っていたような気がします。 今はそこは修さんの家が建っていて、もうそこの隙間はなくなりました。 さらにそれの東南のところに吉松、よっしゃんの家があって、そこにもたまに遊びに行ったような気がしますが、中に入った記憶はあまりありません。 現在でもそこの辺は非常に細い通り道になっていて一応通れるようになってますが、昔の面影はその道以外にはありません。

円光寺は父親の義理の姉、要するにお寺の住職の奥さんですが、それが亡くなった時に急遽若山台から車で走って行って、お通夜に行きました。その時はかなり久しぶりだったので誰が誰かあまり良く分からなかったんですが、清さんが来たという声があちこちから聞こえたのを覚えています。

今の住職は私のいとこにあたるわけですが一時は心臓をやられて、阪大の千里の病院に入院していましたので、その時に治子と一緒に見舞いに行きました。 その後かなり弱って寝たきりになったようなことを聞いていたのですが、最近は道で自転車をに乗っているのを時々見かけるようになりました。 しかし昔からそうですがあまり話しかけても反応がないので下手に声をかけると、ひっくり返ると駄目なのでそっとしてあります。 まあ調子の良い時は祭りの太鼓見物にも出てきていたのですが、コロナで祭りが中止になったのでそれもあまり見かけなくなりました。

現在、月参りも自分で行けるようになってるみたいですが、他はほとんどは奥さんの優子さんがやってるんだと思います。 奥さんも衣を着て自転車で走ってるのを時々見かけます。

結婚が早くてもちろん仏式で御堂会館でやったと思いますが、その後も子供もすぐできてその子供も大きくなって孫も大きくなってひ孫ももうできるんではないかという風に思っています。
【回顧録】 台湾旅行
【回顧録】 台湾旅行
2022年1月20日 11:34:29 作成

台湾旅行

台湾には確か2回ほど言ったような気がするがだんだん思い出せなくなっています最初に行った時はどっかのコンピューターアッパーパソコンメーカーにいたと思うんですがそこの工場の工場の工場が非常に良く出来ていてその時点でもう2本とよりレベルが上かもしれないと思った時がありますまあそれ以降っていうかそれその時からもうパソコンのマザーボードは全部台湾製だということになっています

その後で言ったのは確か8常岡さんと一緒にロッキー尾崎と一緒に行ったと思いますロッキー尾崎とは東京から成田から台風の上を飛んでいたような記憶がありますだからそれとは別と時に言ったのかもしれませんが台風の上を飛んだ時は雷はなるし飛行機は揺れるし本当に大丈夫かなという風に思いましたそれで台湾のオムロンの事務所に行って結局仕事が終わるとキャバクラみたいなところに行って結局最後はお持ち帰りをするということになりました

他は大きなお風呂屋さんみたいな所があってそこはもう麗水から本当の冷蔵庫で作った霊水から普通の水から何から何まで全てやって垢すりをする人もいて結構台希望に行っていたところ今日だけに連れて行ってもらったことを覚えています

空港から町の町までのタクシーが非常に面白くて別々に書いていますがものすごい車間距離の短さでそれもスピードを速くて非常にスリリングなドライブになりますまぁ絶対助手席には乗らない方が良いと思います

それで思い出しましたが1度香港でから台湾に来た時に荷物がロストしてこれは大国だったんですが結局出てきたんですがそれを空港まで取りに行かないといけないことになって空港まで何回か行ったり来たりしたことがありますその時は上海から香港に飛んだんですがこれ上海で亡くなったら送ら絶対出てこないなと思う覚悟したんですがどうも香港で乗り換えた時にロストしたらしいんでこれはなんとか出てきたということです子供を引き取るのに結構時間かかりました

それやこれやで結局台北と空港以外にはほとんど行ったことがありませんあと桃園とか言うなんて読むのか知りませんがそこの工業団地のコンピューター工場工場にを訪問したことはあります

一度夜に街で食べに行ってアサリの醤油漬けを食べてこれが張り当たって下痢を起こしたこともあります
【回顧録】 シンガポール旅行
【回顧録】 シンガポール旅行
2022年1月20日 11:23:56 作成

シンガポール旅行

シンガポールは smcp ががあったためかそれ以前からも何回か行きました一度は春子と安い人で個人旅行をしましたシンガポールは山さんという人がやっていたのでマイクとやまさんがやっていたので山さんに連れて行ってもらった鍋のお店に思い出してタクシーで行きましたその時はその時に入ったのか別の時に言ったのか忘れたが忘れましたがシンガポールからその南の方のインドネシアのなんとかいう千島に行きましたと春子と二人で行ったように思いますフェリーでシンガポールから出るんですがなんと同じところにあるのに時差が1時間あって非常に紛らわしいで下手すると次の船の出港に乗り遅れてしまうということになるらしいですのでよく注意されました

それと島に着くとそこからタクシーで40分ほどホテルまでかかるということやったんですが小さな島なのでまさかと思ってたんですが確かに40分はかかりましたそれとびっくりしたのは島に着くとタクシーの運転手がうわっと寄ってきてみんな乗ってくれと言って寄ってくるんですがその中の一人を捕まえてやっと乗って行きましたその時は特に準備も何もしてなかったのでなんとシンガポールで泊まっていたホテルのタオルを持っていただけでしたパスポートはシンガポールの港で出国のために預かると言って取り上げられてなんとか非常に心配になりましたが一応戻ってきました

ホテルは誰もいなかったんですがなんと日本人の女の子が3人いたのにはさすが日本人だと思いましたが他にはほとんど誰もいなくてすることもないのでホテルの案内にあったジャングルクルーズに行きましたコラおじさんの船で二人で連れてってもらうということで後でチップをあげようと思ったんですが何もなかったんで5ドル札しかなかったので5ドルチップをあげました

それで一泊して戻ってきましたここでまさか靖幸をホテルに置いてくるということはあり得ないので二人で行ったんだと思います

その後行ったのは確か3人で行って火鍋の店に入ったのを覚えてます 動物園にも入ったような気がします

大体シンガポールにはよく行くんですが別に特に遊びに行くこともないし当時はまだセントーサ島もそんなに開発されてなかったので私がいつも言う日帰りをやっていました日帰りといっても1日は潰れるわけで夕方まで仕事をして夜の夕方の便で大阪を断ってシンガポールには夜中の夜中過ぎに着くよそこからタクシーでホテルに着くとだいたい1時頃それで寝て朝起きて会社に行くと9時ぐらいになると9時か10時ぐらいになるとそれから1日打ち合わせをしてみんなで夕食を食べてそれから空港に向かって空港のラウンジで昼夜中までいてすぐ押して夜中の飛行機便で戻ってくるとだいたい痛みに7時ぐらいに着くのでそこから会社に行くと会社には9時に入れるというパターンでこれを日帰り投票していました

OMC P 2は日本で仕事していた中国人なんかがコンピューターの仕事で出張可愛い石化していたと思いますそのうちの一人はずっと後にアメリカの OS に行ってきました東 OS でもなかなか人間関係がうまくいかずにまた辞めてしまったと思います

この時そのすぐその時は日本には中国人とかアメリカ人とか今で言うダイバーシティが非常に盛んでいろんな人がいたんですがその中乗さんっていう方がのがまだ年賀状を送りしますカードを送ってきてくれています確かカレーのなんか就職する時に就職のインタビューと言うかお電話でしたような気がします

電話での問い合わせっていうのは他にもあったような気がしたしていくパーティーののなんとかいう会社だって名前忘れましたがそこからも電話がかかってきて結局そこの場所が元のカヴァティーナの仕事していたとこ近かったのでその話で盛り上がって本人の話はあまりしなかったように思います誰誰誰が対象だったかも思い出せないです

シンガポールは結局仕事でも南海海域プライベートでそれで2回ほど行ったような気がしますがあまりあちこち動いてませんいつかはたくさんと一緒に行ったような気がします参加ホテルのタクシーに乗せられて色々連れて行かれてシンガポールにはないと思っていたが1000人を連れて行かれました真昼間だったのでそれを断りましたが周りは何かあ赤坂とかなんとかいう名前の日本名のお店がたくさんあったようなに思います

シンガポールは意外とシンガポールは民主主義の国ではなくって独裁主義の国でリークアンユーの独裁主義の国で非常に厳しいです麻薬を持っていると死刑になるしトイレで水を流さないところが罰金だと書いてありませんがもうしてるところも罪になるという非常に厳しいとこですがまあそういうとこでも発展ができるという見本で現在地2022年の段階でもそういう民主主義がいいのか先生主義がいいのかという議論がありますがシンガポールはその先駆だと思います先生主義でもうまくやれば民主主義とあまり変わらない発展ができるという日本だと思う思います 今の中国はこれを少し見習ったらどうかというふうに思いますがあのサイズでまともな口になってしまうとあまりも兄弟になるのでそれが心配ですむしろ小さく分かれて連邦国家になる方が世界のためになるんではないかと思います
【回顧録】 イーサネット
【回顧録】 イーサネット
2020年7月13日 10:54:18 作成

ゼロックスがALTOと同時に発明したのが、イーサネット。 メトカルフェが作り
ました。 いちど会ったというか話を聞いたことがあります。 最初のバージョ
ンは3Mbps、ALTOの頃は10Mbps、さらに100Mbps、今では1Gbpsで、2.5とか5とか、
ケーブルは違いますが10Gbpsも登場してきて、完全に主流になりました。

革新的なもので、今では当たりまえですが。従来の通信の概念を根底から打ち破
るやり方です。 出たとこ勝負で通信するという旧来の通信屋さんにとっては
驚天動地の発想だと思います。 ずっと後になってオムロンに NTT 出身の人が
何人か来たんですが、その人と議論していてイーサネットをどう思うかと聞くと
彼はあれは嫌いだと言ってました。 理屈なしで嫌いだと。

その後工場に導入しようとしても、確定できでない、遅いと言われて、工業用の
MAPなどを導入しようとしていました。 一度、工場の技術者を連れてきて、コ
ンピュータと工場のライン間の伝送遅れ時間を詳細に検討しましたが、結果は最
大の遅れはディスクだと分かって、それからやっとイーサネットが導入され始め
ました。 今では嘘みたいな話です。

初期の頃は、伝送に同軸を使っていて、その同軸に針を突き刺して、通信してい
ました。 黄色をしているので、イエローケーブルが代名詞になりました。
長岡事業所の大部屋に自分でイエローケーブルを張りました。

さらにはコンピューターとの間にMAUと言うインタフェースが必要なのですが、
これが当時は20万ぐらいしました。 これを5万にすると提案して、NTT出身の上
司からあきられてしまいました。 5万でもまだまだ高いと思ったのですが。

フジクラと言うメーカーがイーサネットにケーブルで参入していて、新しい製品
のアイデアを聞いてくるので、マルチポートのMAUを提案したら作ってきて、結
構商売になったらしくて、その後もしつこく聞いてきましたが、こちらもそれほ
どアイデアの手持ちがあるわけでもなく、そのうちに沙汰止みになりました。