回顧録】 酒屋の清兵衛
2018年1月12日 22:24:04 作成
今の大東さんが住んでいるところに酒屋があった。 清平の次男だが清兵衛を
引き継いで酒屋をやっていた。 もっとも造り酒屋では無くて、酒を売っていた
だけだった。 この清兵衛は結構しっかりした人で、当時(明治の終わりから大
正)には、増田一族のトップだった。 お宮の太鼓台の鳴り太鼓の中にも筆頭に
名前があるし、玉祖神社の鳥居の横にある灯籠も清兵衛の寄進。 南の通夫さ
んの話では、どこか東の方に清兵衛の名前が入った石橋があったと言うことだが、
本人含めて誰も知らない。 ちなみに長男の安平は、あまり出来が良くないの
か、親に気に入られないのか、長男であるにも関わらず小さいころに養子に出さ
れている。 墓地の寄進の契約書にも、2人の連名の署名がある。 本来なら
長男一人で済むはず。
清兵衛の次は早苗さんで、この人は達筆で、非常に上手い。 御回在の当屋の箱
書きは早苗さんで、上手く書かれている。
この酒屋からは、中高橋のほとりにある久保田真吾の碑の除幕式の時に久保田の
屋敷を開放して園遊会をやったときに酒を増田酒店から買ったと言う記録が残っ
ている。 ちなみに料理は山徳。
清兵衛の家には、小さい頃に、お使いで酒を買いに行ったこともあり、入ったと
ころは大きな広縁があったように思う。 ある時に、大東さんにしつこく聞い
て、その当時の家の間取りを教えてもらった。 その図面を元に、明治初期の
酒関連の資料を見ると、当時から規制は厳しかったらしくて、桶の大きさまで規
定されていて、それがキッチリ入る大きさだった。 これで、元の酒蔵を改造
してあの家になったのは無いかと想像している。 この想定に合うような資料を
探しているが、なかなか見つからない。
ちなみに、河内の醸造業は、富田林の佐渡屋が元締めで、そっちにいろいろな資
料があるようだが、未だ調べ切れていない。

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