【回顧録】 立石電機入社からCAT直前まで (再修正、改行をいれる)

【回顧録】 立石電機入社からCAT直前まで (再修正、改行をいれる)

【回顧録】 タイトル
2022年1月20日 16:04:09 作成
立石電機入社からCAT直前まで (再修正、改行をいれる)
立石電機で最初に配属されたのはサイバネという部門で、トップ入社は大渕君でこれは交通に行った。 当時の交通は飛ぶ鳥を落とす勢いで、真っ先に採ったと思う。 その次をサイバネが採って、そこにに入れられた。 ここの部長の阿部さんというのは非常にうるさい人で、いつも怒鳴り声がフロア中に響いていた。 副部長と言うか副長みたいな人が吉田丹治さんで、その後はずっとこの人と付き合うことになる。課長は岩崎さんというシャープから来た人で当時はまだ20歳台だったと思う。
シスマックと言うシーケンサーを作っていてセブンを当時はやろうとしていた。 中心は池田さんと言うお兄ちゃんみたいな人で、頭の回転は良かった。 後々退社して自分で起業したのではないかな。非常に古い022という機械があって、それで色々遊んでいた。
ある時机の上に全部放り出して、帰ったら次の日に言われ呼ばれて机の上を片付けて帰れと言われて、出しておいた方が次の日便利だろうと思ったけども、それはそうではなく片付けるべきであった。 そう言う日常のメンターと言うか指導者が清水さんで、頭の大きな人で、人間的には面白い人だった。
最初のころは、ソフトと言っても誰も何も知らない状態で、時々ソフトとは何かみたいな講習会をやっていた。コンパイラとインタプリタの差も認識されていなくて、説明に苦労した覚えがある。
いずれにしてもこの47年入社組は、世間でもインベーダーと名付けられて、異色の存在だったようだ。私の場合は特にそうだったのではないかと思う。入社当時は、まだ高度成長の最後の段階で、給料が30%も上がった時があったのでビックリした。 何時も組合の集会を時間内にやっていて、マルセイと言う言葉が飛び交って、当時のマルセイは国鉄のマルセイしか知らなかったので、聞いてみたら、制御事業分門の略称だと聞いた。 なににでも最初の文字に〇で囲むのが立石流だった。給料や報酬の件や、組合がらみは、いろいろあるので別校にすることにする。
最初は本館の2階か3階3階なのかなの東の方におったいたと思うが、その後は交通が非常に忙しくなって交通に手伝いに行けと言われて、本館の体育館みたいなところに、だいぶ居た。 中庭を挟んで清皇館という食堂があって、ここで2‐3交代で昼食を食べるが、当時は長岡全体で600人とか1000人とかいたはずはずなので、非常に大量の人がいたということになる。
長岡事業所は、その後取り壊されて、今は住宅地になってしまった。 長岡事業所から北の方へずっと坂を上っていくと、ここに長岡寮があって大卒はみんな入っていたが、大学院卒だったので入寮を資格がもう既に切れていて、裏にある中小路さんの所のアパートに六畳一間の下宿に入った。 長岡事業所から近いので、ある時は予鈴というのが定時の5分前になるのだが、それで飛び起きてなんとか間に合ったということもあった。中小路さんのの自宅がくっついているのでいつも入り浸っていた。ここのみっちゃんという非常にちっちゃい子だったが、なかなか面白い子で、少し仲良くっなった。
お母さんもよくしゃべる人だが、お父さんはほとんど喋らない人で、お花の先生でお花教室をやっていた。 ここも今はは取り壊されてどこかへ移った移転した。ここの西側には少し空き地があったので車はそこで止めていたが、ある時に車上荒らしにあって免許証も盗まれてしまって、しょうがなく警察に行って、車で帰ろうとすると免許証ないやんかと言われたが、まぁしょうがないなということで許してくれた、おおらかな時代だったということ。 免許証盗られると、それは再発行してもらったり、後の手続きが大変なので、それの方がよほど大変で腹が立った。
入社して、しばらくして何がきっかけか忘れたがアーチェリーを始めた。 ずっと東の方へ行った羽束師の所にアーチェリー練習場があって、まあ単なる空き地で草ボーボーなんだが、ここでアーチェリーの練習をしました。 それでそこの練習場の叔父さんが薦めたのでホイットニーという有名ブランドの弓を確か15万円ぐらいで買った。 毎月の給与がそれぐらいしかない時なので、かなり高い買い物をしたことになる。 それでついでに会社にもアーチェリー部を作って巻き藁を長岡寮の裏手の体育館の所に置いておいた。練習は体育館の中でやるが、的を外して、体育館の板壁に穴をあけてしまったこともある。
大塚さんと言う同じ府大出の人で後でデジタルに移った目上の人と恩地君というこれも府大の卒業生の後輩が割と上手で、若いOSK の技術屋の星くんだけれど大きな人間ですけど、これも後で入ってきて、その辺のメンバーでやっていた。女の子が入ってきて、えらく熱心なのでおかしいなと思ったらどうも気があったらしくて、そういうことを言うので、こらいかんと思って車に乗せて、これこれこうだともすでに婚約してると言ったら、その子はあっという間に会社も辞めてしまって国に帰ってしまった。
アーチェリーは大会に出たりしたけれども、あんまり上手にならなかって途中でやめた。 万博公園の所にもアーチェリー練習場があること分かったけど行かなかった。 当時は360点360点満点で358ぐらいが世界記録だったが、今は360点満点が当たり前で、30m はもうなくなってしまって 50 m と70m、男子は90mになってていて、さっきの練習場は50mが最大だった。当時は50mでも的に当たったら良しとするくらいで、30 m で300点 というのは初段クラス、これぐらい行くと大会にも一応は出れるとして50 m にすると、だいたい260点ぐらいしか出ないで、最近の50 m はもうそれでも300点 ぐらいは初段クラスになった。 用具が良くなったのかトレーニング良くなったのか、ものすごい進歩だと思うが、当時はちゃんとストリングに対して顔をちゃんとを向けて、鼻先と顎の先をきちんと合わせ事はやっていたのだが、今はもう顔をまっすぐにして鼻は当てるが顎はずれずれてても構わないということになってるみたい。 確かにこの方が�狙いやす�い見やすい。 どっちにしても当時と今では、かなりルールに変化があったと思う。 当時はオリンピックに出る最短コースと言われていて、始めてから5年でオリンピックに出た女子もいたけれど、今はなかなかそうはいかない。才能があれば体力が、そんなにいるわけないので一気に上手になる。
同志社に亀井というのが居たが、OSKの堀君の友達で、どん亀と言われてたらしい。 的に矢を取りに行って帰ってくる時もブラブラブラと歩いて帰ってくると審判から注意されても、それでも知らん顔して帰ってくるということで、まあこれぐらい図太くないとアーチェリーはうまくならないと言う見本見たいだった。
大阪府立大学の話ですが大学紛争があって この話は別に書いたかもしれないが二重になっても書いておく。 大学紛争があって非常に少数の20人かそこらの、いわゆる新左翼を形成してたが、大学改革ということで大学の学長選挙があった。その時に何をどう間違えたのかはルール上教職員と学生と両方の信任投票が必要いうことになり学部の学生の信任を取るの難しいが大学院生は、 そんなに数がいなかったので、これは否決できないんじゃないかということで何講座の誰か忘れたが、彼と一緒に運動して要するに大学院生の半分の不信任を得て、結局候補者は不信任となってしまった。それを事務局的にやっていたのが、自分の所属講座の畑先生で、先生はカンカンになって怒って、こちらはもう大学にはおられないなという風に思っていた。
その後畑先生は学部長から学長学習にまで行った。 そう言う野心があったので当時そんなに怒ったんだろうというふうに思っている。それで御堂筋でデモがあったが、その時に参加する、しないと言うことでどっかの実験室で議論をしてたが、相手が滝口さんで、議論伯仲で、はっと気がつくと周りにいろんな人が取り囲んでその議論を聞いてた。その時は議論に夢中になってて、気がつかなかったが、みんな結構関心があったということだった。しかし最近になって、滝口さんに直接その話をしたら覚えていなかった。 途中で時間が来たので、その人ごみをかき分けて出て中百舌鳥の駅で検問に遭いながら靭公園まで行ったが、そこは大したこともなかったが扇町公園はもっと大変だったみたい。
大阪駅前は陸橋も人がいっぱい乗って凄い騒ぎになってた。 破防法が発動されたとか、どっかでは暴動が起きたとかいう噂が流れてくるが、あの時ほど現場ほど何もわからないと思った。後で家に戻ってテレビを見ると、いろんなことがなるほどこうなってたのかってのは分かるが、現場によるとさっぱり分からない。
自分の入っている工学部の建屋からの向かいというか池を挟んで 反対側に試作工場がありました。 ここには旋盤初め何でも機械があって、いつも空いているという状況で、そこの工場長は学生であろうが何であろうが自分でものを作れないといかんという考え方の持ち主で、そこへ行っていろんな工作をして簡単な拳銃を作って火薬は花火をほぐして作って、それで池に浮かんでいる鴨を狙ってたんですが、あまりにも初速が遅いんでパンと音がしてから着弾するまでの間に鴨は水に潜って逃げてしまいました。
試作工場の横には航空工学ってのがあって誰とかなんとかいう先生のが導入したハイブリッドコンピューターってのがあって、アナログ計算機とデジタルを組み合わせたやつで、まあ当時のデジタルコンピューターは微分方程式を解くのは非常に遅かったので、その辺はアナログでやって精度は低いがアナログならすぐに結果が出るので、それをデジタルで取り込んで処理すると言うことをやってました。
コンピューターの話は第6講座にあったHITAC201で 日立のドラムにレジスタが切ってあるという代物があってちょっとした大型の冷蔵庫ぐらいの大きさで、今から考えると非常に良く出来ていたように思います。 テープも付いていてこれは使わなかったですけども確か10進で16桁ぐらいの計算機で縦4 Bit のランプが横に並んでるという。 それで同じように押しボタンスイッチが並んでて一番最初のブートは押しボタンを押して10数ステップが入れるんですが、その当時の助手だった木下さんという人が、それの御守役で、俺はなんぼ酔っててもこのブートだけは目を瞑ってても入れられるという事を豪語していました。
何の必要があったかというとラリー競技での距離距離から分速から出すのに、逆は必ず計算しないと出てこないのでこれを全部印刷して電話帳みたいなのを一冊作ってラリーの時はその1ページを使うということになります。 なんでそんなたくさんいるかというと実際の走行距離と実際のオドメーターの表示の差を計算してその係数をかけるのでその係数ごとにそのページが必要なっており、だからその計算は1回決まると1ページしか必要でない。 どの係数になるかわからないので最初から全部持って行って、その場で該当の1ページを選択する。この計算は簡単な掛け算と割り算だけだが、縦に10km/hから60km/h を0.1km/h毎に、横にさらにその下の桁を10列印刷するのですが、計算も結構かかり、印刷はTTYと言うテレックスのタイプライタなので、110ボーの通信。1秒に10文字くらいしか印刷できないので、ほとんど徹夜で動かさないと終わりません。
コンピューターは前にも触れたように、ドラムにレジスタをおいてあるようなもので、全てミリ秒単位で動くので、実行命令のアドレスを示すランプを見てても大体何やってるか分かるようなしろものだった。データをロードするのにメモリーからロードしてレジスターに持って行くのでもドラムのアクセスしてそっから引っ張ってでまたドラムに書き込むということやらないといけないので時間はかかります。 ただバランスというか全体として非常に良く出来たコンピューターだと言う印象です。
他にはHIPACというのがあって日本で発明されたパラメトロンと言う技術を使った計算器で、非常に大きなものでどの部屋に置いてあったのが忘れたが、部屋に入ったら計算機はどこにもないので、おかしいなと思っていたら、前の壁のような大きなそのずっと続くキャビネットみたいなのが全部計算機だった。 これは磁気を利用したコアメモリの応用なので、遅いし大きいし半導体がない時代に頑張って作ったもんだ、というふうに思う。これあまり使った記憶はない。
だいぶ使ったのが機械工学の杉本先生が導入したJEC(ジェック)という機械でこれはコアメモリの機械でHITACより1000倍ぐらい速いという感じだった。 これは非常にシンプルと言うか何もない機械で16ビットだったが、機械語命令が10個かそこらしかないという非常になんかシンプルなマシンでした。 この機械でいろいろ遊んだ。スイッチはピアノの鍵盤みたいで、これでまず最初のブートローダーを入れるが、それもまあ結構16ステップもいらない程度。あんまりシンプルなんでこれはアセンブラぐらい書けるのではと思ってアセンブラを書き始めたが、アセンブラ自体は本当の機械語で書かないといけないが、数字で書くのはよいが、相対アドレスと言うかがアドレスの割り振りができないので、一旦決まったらそこから動かせないということになってしまう。
結局途中で諦めてまともに完成しなかったと思うし、あまり使いみちがなかった。最終的に、これは何に使ったかというと当時の大学院での研究である人間機械系のデータ解析に使った。 大学院での研究というのは先にそれより先に防衛大学から来たなんとか言う人がやってたんですが回転椅子を使って人間の制御係数を測って同定するという研究テーマで、要するにランダムデータを入れてその結果を見るというやり方。ただランダムデータはホワイトノイズをデータレコーダーを遅回しにしてやってるんで本当にランダムかが怪しいし、計算もアナログのテープを使った相関計を使ってやってるんで、本当にそれで相関が本当に取れているのかどうかの非常に怪しいと思った。
引き継いだ後はやったかというと、非常にきちんとやらないと信頼性のあるデータが得られないので、まず全部きちんとやること。 まず回転椅子はON/OFFみたいな制御だったので、巨大なアナログアンプを作ってそれで動かした。 アナログなので熱が出るんで水冷にした。 ある時に間違えて、トランジスタが全部飛んでしまったが、当時の担当講師である畑先生に一生懸命説明してまた買っていただいた。これで椅子はキチンと回転するようになったが、データのホワイトノイズは、どうも色々考えたが、先ほどのジェックコンピューターで三角関数を合成して一つのホワイトノイズ的なものを作った。これの欠点は0点付近で全部ゼロになってズバッと振れるので、これが欠点。
人間は結構振られて制御できなくなる。他の所はまあそれなりにランダム的な動きをする。 最初やったらデータがずれて何で出るのかわからなかったが、ディレイがある。 人間の操作が遅れてるにしてはえらく綺麗な遅れということなので、よく考えたらデータレコーダーに 2ch あったので、 開始信号と本来のデータというのを同時に取り込んで開始信号はトンと上がる立ち上がりの信号を入れて、それでデータを取り込み始めるが、どうもそこに何秒かの差があってそれが計算に全部出てきた。 要するに記録のヘッドの位置がチャンネル毎にずれいてたので、時間差が出る。 それを修正するとぴしゃっと合った。
最初にLCR回路を作って、それで計測すると、バッチリ合ったので満足して、昼間はデータを取って、夜はデータ処理をするという生活に入った。 要するに計算はフーリエ解析をするのだが、これはFORTRANの出来合いを拾ってきて、少し直したと思う。 その後何年か後に、丸岡と久しぶりに会った時に、バグがあったと言っていた。 結果に大きな誤差を生じるものではなかったと思う。それでも、まだまだばらつきが多くて本当にこんなのでいいのかなと言うことになる。
最後に修士論文を発表した時に、2講座の斉藤先生からこれはちゃんと誤差分布解析あったのかと聞かれて、それ全く考えもしなかったんで、唐突だった。 やっとけばよかったかなという風に思った。このデータを使って、同定式を合わせ込むが、最小自乗法でもあまりうまく行かない。 最後はグラフを目てみて適当に合わせこんだ。 あまり複雑な式にすると訳がわからなくなるので、単純な確か2次式とディレイを入れただけだと思う。 それもで、グラフで見るとばらつきがものすごくある。 参照した論文でも似たようなものだったので、これで良しとした。
最後は人間工学会で発表したが、あまり反応はなかった。それでなぜこういうことになったかと言うと畑先生が人間の環境からの影響を受けることを検討しようということで、大きなその恒温恒湿室を作ってですねその中で実験するということで、さすがに畑先生はお金を取ってくのが上手なんで取ってきて、それを作ってその中で環境を変えていろいろやったが、人間の適応性が高いので多少寒くしようが蒸し暑くしようがあまり影響はなかった感じがする。 だからもう一度別のテストをしないと回転椅子ではなかなか環境の対する影響が出てこない。 だけどそのおかげで温度と湿度の関係というのは非常に頭によく入ったような気がする。 この後を引き継いだのが近鉄に入った誰やったかな何とか君でるが、あまり大した答えは出てこなかったように思う。
オムロン立石電機に入ったのちサイバネに行って最初は研修ということで三島にやられた。 三島で何やってたかというと当時の専売タバコの専売公社の工場を3つ同時に作るということやってて、金沢盛岡函館。 私は盛岡を担当して盛岡に行った。当時のオムロンは制御盤をいっぱい作ってて、あちこちにその工場の設備の発注はあるが最後は全部オムロン へ外注でくるという不思議な状況がよくできたシステムなってて、立石電機の三島の工場では一つの図面を色々手直しして他の工場の制御盤を作ってた。
盛岡では、やっぱり機械屋さんがメインで電気屋は地位が低いんで機械屋はベルトコンベアではモーターまでつけてモーターの線が出てて、それまでできたら機械屋はもう終わりで帰ってしまって、あとはよろしくという感じ。こちらの仕事は大体始まるのが午後遅くから。やっとこさ。 それまで別に対してすることがないということになり、帰るのは夜中になる。当時は若かったんで夜中よりちょっと前に終わると、今日は早いなということで一斉に街へ飲みに行ってそれで明け方に帰ってきて、また次の日行くという何か不健康な生活をしていた。
川田さんと言う先輩と一緒に行った。彼は今どうしてるのか。 あまりの忙しさにだんだんだんだん曜日がわからなくなって、さすがに最後は専売公社の人から、もうちょっと休んだらと言われるようになった。 一度三島に戻るつもりだったが、どうも専売公社からあいつは置いとけという話だったらしくて、しばらくずっと付き合う羽目になった。
ある時などは全く見たこともない初めての盤の前に連れてかれて、これを動かんが直せと言われて分厚いシーケンスチャートも一緒に渡されて、あーどうしようかなと思って床に座り込んでシーケンスチャートを一つ一つ眺め始めたが、そのうちには他の人がやるという話になったが、これは1日かかるか2日かかるかわからんけどとりあえずやらやらんといかんなあというところで座り込んでやってた記憶がある。
川田さんというのはブルーバードの 3S を持ってて、それを持ってきたのを乗りまわした。 夜中に八幡平に女の子と一緒に行って色々やってたことを思い出す。下宿は何とか言うおばさんの下宿で、そこの娘がまだ高校生なのに駆け落ちをして大騒ぎになったこともある。 詳しいことは知らなかったが、後でなんかそういう話があった。 盛岡の市内は全く知らずに終わってしまった。
たばこの製造というのは非常に大規模で25メータープールにいっぱいぐらいのタバコの葉っぱを作るが、それはサイロと言われてるが、もし何か妙なことがあったらこの一杯ぶんの煙草を全部パーなるからそれのそれの弁償しろと言われて大変なこっちゃなと思ったことがある。タバコの葉っぱだけを吸ってもほとんど美味しくない。 砂糖、グリコース、ココアなどを混ぜる。 葉っぱもオリエントか言う種類があって、ピースはこれが入っていて、セブンスターも同じ。 要するに日本人はオリエントが好きと言うことになる。そこから引っ張り出してタバコの紙巻きタバコを作るが、これは英国製で英国人が調整にやってきてたと思う。 すごいスピードで巻いていって、真ん中にフィルターがあって、真ん中でスポンと切って2本にする。 休憩所には当然のことながらタバコがいっぱいも最初から置いてあって、みんな吸い放題になっていた。
今から考えると非常に不健康な職場であったが、今から考えると良い思い出。それでオムロンでは最初に三島に行って盛岡に行って戻ってきてしばらくするとなんか交通は忙しくなったので交通に行けと言われて交通に応援に行った。 当時、井上さんというモデムの専門家がいて、その人と一緒に大阪の曽根崎署の上に大阪管制を作っいたので、そこに一緒に行った。
びっくりしたのは信号機のセンサーの ON OFF 信号 をそのままリアルタイムで常時伝送で送っている。 信号機から全部線を引いて全部モデムがいると言うことで、商売にはなったんだと思った。 しばらく交通で特にそういう通信関係の仕事していた。 課長が香坂(こうさか)さんという人で、ちょっと吃りの傾向があるのか、あまり上まで行かなかった。
いつもだいたい席が一番前で何もすることない時は寝てたが、偉い人が来るからちょっと起きとけと言われて、はいわかりましたみたいな感じで学生そのままで、まあのんびりした時代であったと言うこと。戻ったサイバネでは今度中央研究所というより、事業部が関与しないような独立組織になった初めての課になってしまった。
それで何をするかというところで内海さんと言う少し怪しい人が課長になって運営していた。 それで最初は4ビットと8ビットのコンピュータらしいのを作りたかったんで、やることになった。 OMRAC4は PPS と言う ロックウェルのチップで 4 bit のやつがあってこれを使って作った。 バージョンは2つ作って、シーケンス図のとおりにプログラム出来るのと裸のPPSの2つを作った。 単発で売れるのと量産で流れるもの。 結局、やはり裸のPPSのの方がよく売れたと思う。ずっと後になってデジタルの誰かが買いましたよと言っていた。
シーケンスコードを読んでそれをエミュレートして実行する方式は、カウンターを内部で作るとメモリ容量も足りないし、速度も出ないので、それだけ外付けのハードを付けた。 処理プログラムであるエミュレータは64バイトx4バンクの256バイトの紫外線消去のPROMに入れてることにしたが、どうやっても入らない。 一週間かけて1バイトづつ押し込んでいった。 バンク毎に入れないといけないので、ますます制約が多い。 押し込む決め手は、PPSがマルチファンクションの命令を持っていたので、そのマルチを最大限に使うように組み直していった。 一種のパズルのようなもので、最後にパチっと入った時は感動した。
大きな紙に64バイトx4バンクの表を書いて、毎日眺めて過ごした。その時に、不便だと思って、ついでに作ったのがPROM書き込み器。 これのほうがヒットしたらしい。 書き込み可能なROMでプログラマブルロムと言うのがあってこれは紫外線で消去するようになっていて、石英ガラスの窓が付いている。 ここから紫外線を当てて消去して、また書き込む。 後に電気的に書き換え可能なEEPROMというもの出てきたが、今で言うフラッシュメモリみたいなものだった。 しかし最初物は256バイトしかない代物だった。それにプログラムを焼き付けて、実機でデバックするが、書き込むのに5分以上かかって、デバックして直して、消去したものにまた書き込んでと、これを繰り返すことになる。
従って、書き込みの時間は、何もすることなく、じっと待っているしかない状態となる。 消去は紫外線ランプの下に並べて放っておけば良いのであまり問題にならないが、書き込み時間は待っているだけでイライラする。書き込みの方法は書き込み手順を複数回行うもので、これが時間のかかる要因で、1回書き込むと結果を検査して、書き込めたら、その後の書き込み回数をプログラム出来るようにした。 書き込み回数で消去の時間も変わるので、テストの時は少しだけ書く。 本番の製品の場合は、仕様通りの書き込み回数までとことん書き込む。 これで書き込み時間が5分から数十秒まで短縮できて、ヒット商品になった。
仕様通りの書き込みならやはり元の5分はかかる。 これをアタッシュケースに入れて、持ち運びできるようにした。これは元々私の担当ではなくて、隣の座っていた森くんの担当だったが、彼はハード屋だったので、ソフト処理に不安を感じてあまり乗り気ではなかったが、毎日囁いて、その気にさせてしまった。 あれが最初のヒット作やという風に思うが、入社した最初から何かプロデューサー的なことをずっとやってたような気がして、自分でゴリゴリものを作ったことは、そんなにたくさんないような気がする。
ビジネス的には、サイバネの何とか言う営業の人がやってきて、当時は営業は自分で商材を探してきて、それを売り込むと言うスタイルで、面白い営業に当たると売り込んでくれる。 課長の内海さんはちょっと変わった人で何もしない人で、当時はセクレタリという女性事務員が課長と机を並べるというのが習慣になっていて、それが丸1日中おしゃべりをしているという状態で、毎日よく喋ることがあるなあというところで皆で噂をしていた。
途中でこの人がねずみ講マルチ販売に引っかかってしまって、それで結構色々あって結果的にも会社は辞めてしまった。その前にOMRAC4の後にOMRAC8というの作ったが、これバンキング金融部門が入ってたOMROC-Bと字体も似てるし仕様も似てるが二弾を作ってしまった。OMROC-Bを作ったのは西村さんで、最後は技術者でATMの事業部長までやった人で、ハード屋さんとしては一枚上手で非常によくできていて、かなわないと感じた。そんな状況で、OMRAC8は使い道がないんで止めるって話になってしまって、課長といろいろ議論と言うか喧嘩になってしまった。
その日は気分が悪くなってきて医務室で寝込んでしまって、それからしばらくはちょっとノイローゼ気味になってしまった。 心臓もドキドキするのでおかしいと思って医者に行ったら心臓病の薬を処方されて、結果的に神経的な問題だったが、なんか妙な薬を処方されたので、それからちょっとおかしくなったような気もする。 ある時は夜中にドキドキしてきて救急車を呼んだが病院に着くとけろっとして、帰りは電車で帰ってきてなんか気まずい感じがした。 要するに今で言うパニック症候群やったんだが当時は全く分らなかった。 当時やってたパソコン通信でも、そういうそういう人がいてどうしたらいいでしょうかみたいな話で、適当に答えていた。 今で言うとパニック症候群でかなり一般的になったんじゃないかと思うが、これで大体30歳ぐらいまで色々あったと言うこと。
その後は思い出すのはOMROC8を作ってリアルタイムモニタを入れてたが、この時に BIOS 的なものあったら良いなと思って、いろいろと分離して書いてコードを変えてたが、後ではっと気がつくと当時アメリカでは Microsoft がそれを作ってた。ほとんど同じ事やってたような気がするが、その時は全く世の中を見てなかったなと反省した。 それでとリアルタイムモニタのベースは扇谷さんという、交通の先輩だけど、DECのなんとかモニタの焼き直しみたいなのを必死になって勉強して自分なりに作り変えた。
これは OS というよりはモニタみたいなものの一番最初の話でこうを作るのかというのはよく分かったような気がしたが、それまでは全く知らなかった。 なかなかか面白くて、待ち行列なんか割と丁寧に作ってて待ち行列の入れ替え方みたいなことに面白いやり方があった。
その後なんでこうなったのかあまり記憶ないが岩本さんが持ち込んできたゼネラルオートメーションという会社のマシンがあって、これをコピーしろと言う話になって、今の中国を偉そうに言えない状態だが、それをコピーして作った。最初はいくつかは導入したが、その後はコピーして OS なんかも、その当時の著作権というのはどうなってたのか、いずれにしても中央研究所 岩本体制では大きなテーマになっていた。
ハードは一部をIC で作ってあったが、これを解析して全く同じものをディスクリートでコピーを作ってしまったというのは、さすがにビックリした。 交通のハード屋さんの実力は大したものだった。 詳細はわからないが非常に大きな基盤で作って、全部ディスクリート で作ってそれでいて、ちゃんと動いていた。
OS もリアルタイムモニタとあとは今のDOSみたいなものが両方あったが、DOSの 方はほぼ MS DOS と似たような感じだった。使っているディスクは何と確か1メガをパックで 2つ目が固定で10メガバイトで、大きなそのラック幅いっぱいの機械が入ってい た。 それでも今のマイコンよりずっと遅い処理をしていたが最終的にあちこち入ったと思う。
当時は、入社して3年で辞めるつもりが、ちょうど石油ショックが起きて、辞めるに辞められず、仕事も予算がつかないので、することもなく、体育館のような長岡の本館で暗いので蛍光灯の照明をそれぞれ点けて仕事をしていた。 することも無いので、ゼネラルオートメーションの説明書を片端から日本語にし ていった。 出来たのは、セクレタリの女性が清書して完成させていた。 周りも暗く、することも面白くなく、良い時代ではなかった。 しかし、翻訳して日本語を書くようになって、少しは日本語が書けるようになった気がする。 文体はこのあたりで確立したような気がする。
最終的に草津の金融工場の森さんと言う人が声をかけてきてくれて、ここの工程管理に使いたいということでそこへ入れた。 ディ スクは大きなものが要るということで パック のディスクで80メガで大きな洗濯機か冷蔵庫みたいな大きさの代物。 これはすごい音がして地下鉄をの電車が走るような音がごーっとしていた。 またヘッドがしょっちゅう壊れて、一 回壊れると20万円ぐらいかかり、工場が全部ストップするんで非常に怖かった と思う。 森さんはなかなか気の多い人で、オムロンをやめて自分でホロンと言う会社を 作ったが途中でおかしくなって、助けてくれと言う話になったが、それには乗れなかった。
他に自分でやったのは成田空港の ジェット燃料パイプラインの漏洩検知。 当時の成田空港反対運動の影響で、空港に運ぶジェット燃料のパイプラインを作る時に、漏洩検知装置が義務付けられれて、この話が落ちてきた。 自然の漏れは確率的に20年に一回とか言われていたが、過激派が破壊する可能性もあるとのことだった。 ジェット燃料のケロシンと言っても所詮は灯油で、ガソリンほどは危険ではないものの、市街地を抜けるパイプラインはほとんど例が無いらしい。 おまけに通常のパイプラインは地上に敷設するが、成田は市街地を通るので、そこは地中に埋めるらしい。 そうすると漏洩が起きた時には掘削をしないといけないので、それなりの精度が必要と説明された。 実際の現場には行かなかったが、最近ユーチューブで、このパイプラインを紹介している動画を発見して、懐かしかったし、だいたい想像していたものと同じと感じた。
それまでは貨車で運んでおり、流通に問題があった。パイプラインは全長が45 km あるが精度は1mとのことで、一気には無理なので、1km毎に端末を置いて、精度0.1%で1mの精度を確保しようということでした。 センサーは同軸ケーブルみたいなもので、灯油が染み込むとインピーダンスがわずかに変化して、その変化を検知して位置を割り出すというもの。 ハードは確か同期で入った内藤くんが担当した。 私はシステムの担当で、岩崎さんというおとなしいソフト屋さんと一緒に作ったが、いつもの癖で少し複雑に作りすぎた。
何処かのセグメントだけ止めるとか、複数のセグメントとかでややこしくなった。 何かあれば全体を一発で止めれば良いが、何故かこまごましてしまった。 この癖はずっと抜けずに、最後の大きなシステムの試作センターのシステムも飛んでもなく複雑になってしまた。コンピュータは、それまでやっていたゼネラルオートメーションのコピーを使って組んだ。 言語はFORTRANだったと思う。
実際の現地調整には行っていないが設置工事は結構大変で、機動隊と一緒に朝出ても昼過ぎには終わって帰らないといけないということらしく、設置も結構かかったよう。
ずっと後の10年後ぐらいだったが、そこの保守部品、特にディスクの部品がないとかいう話になって、草津まで行って探したが出てこなかった。 まだ現役で使っているだと思って、その分は嬉しかった。窓口はなんとか言う別会社で、当時の役所の担当は国土省だと思うが、そこの部門が立会検査に来ると言う話になって、祇園のお茶屋と琵琶湖を見たいと言うので雄琴とセットして接待していた。 それで私も参加することになって、確かお茶屋と言っても普通の家だったが、そこで料理を食べた記憶がある。 なにかの都合で客先はこなかったようだ。 そこで若い若いと散々言われて、こっちは30を超えたので、年取ったと思ったが、今思うとたしかに若かった。
ソフトウェアに関しては自分は全く才能が無いと思っている。 IBMのソフト適性試験でも藤田君は合格してIBMに入社したが、私は不合格だった。 ああいうコードを書くということに対してはなかなかうまくいかないが、システム全体のことを考えるのは、多少複雑でも全部頭の中で処理できる。 しかし何故かコードは書けないと言うのが私のトラウマ。 それで全生涯で書いたコードと言うのは、おそらく1万行も行かないと思う。 前に触れたモニターのコードは全部自分で書いたが、それでもそれはそんなに大した量ではない。
それでソフトをやっぱり書いてもらう人が要るので色々集めてたのですが、富士通の割と偉い部長だった井上さんに手伝っていてくれることになって、その人に色々書いてもらった。 井上さんは A4の用紙に縦一直線にフローチャートを書くという方法論の持ち主で、これは非常に役に立ったと言うか助かった。 まっすぐ書く、それとジャンプはちゃんとジャンプでできるように書くとかなかなか面白かった。 妙なスパゲッティにしない昔のアセンブラの書き方だが、これを徹底してて、なかなか気持ちよかった。 コメントも全部書いて、実際のコードに入れるかどうかは別にして後のドキュメントとしては非常に良いということにある。 この人はずっとやってもらってたが、最後になって他に仕事をしたかったらしくて、難題をぶつけてきたんで、縁が切れた。
次の話題のCATが進行している途中の話だったと思うが、組合が2つに別れて分裂していたので、それを統一すると言うことで、インフォーマルグループが作られた。 最初の一期生みたいだったので、鎌倉まで極秘で行って、そこで3日ほどの研修があって、次のグループの中核になるはずだったらしい。 どうもサイバネ時代の上司の清水さんが引いたらしいし、話をしてきたのも清水さん。 他は長野、香月、齋ぐらいか。 毎週、興正会館に集まって話をした。 ただでさえ忙しいのに、仕事を終わってから出かけた。 途中の王将で夕食を食べるのが習慣になった。 戻るのは夜中すぎ。
しかしこのグループは最悪のグループで、最後はみんなに見放されたらしい。 次は若手の福島くんとかの世代で、これは伏見の方に行ってこれも夜中にやった。 結局10年ほどやって、全金の組合をひっくり返した。 当時の主要メンバーは定年を過ぎて、70を過ぎたはず。 福島とか安田とかは、管理職になったら自分の組織で面倒を見た。 ずっと後になって、定年頃に用件があって京阪奈に行った時に、資料室で老眼鏡をかけて本を読んでいる安田氏を見かけて、時代も過ぎたと思った。
オムロンは私が入社した後は新卒を採らなくて、ずっと新入社員だった。 10年後ぐらいに福島くんの世代が入社して、その次の世代が入ってきて、その面倒までは見たが、その後は、ほとんど知らない。ゼネラルオートメーションの後は特にする事もなくあまり体の調子も良くないんでぶらぶらしてたが、ある時田崎さんが CAT の案件をアメリカの会社のボブ・ガウディオVPから話を持ってきた。 営業はポメランツで ポメポメとみんな言ってたが、彼が持ち込んできた話でそれを言うと周りから、深入りするとやらされるぞと言いいていたが、私はもうすることないし、案件としては手頃だし、これしかやることないと思って、サンプルを取り寄せたが、みんなサンプルと言っても試作品ばかりで、その試作品も非常に酷かったので、これはれは絶対勝てると思ってスタートした。
その直前に康之が生まれたし、この辺りが人生のターニングポイントのような気がする。 当時 EL パネルをオムロンでもやろうとしいて、ELパネルが光らないと言ってるんで、日経エレクトロニクスの記事を見て、原理はわかったので、それを回路で組んだらちゃんと光った。 要するにかける電圧を上げたり下げたりひっくり返したりしたら光ったので、みんなびっくりしていた。
そのうちにCATの話が来たのでスタートした。 これは確か9月ぐらいにスタートして、これも手がないんでどうしようかとなって、経戦に預かりになって後の越尾さんが担当になって外注先を探すということになって、新小岩の、今潰れてしまったがSORDと言う会社の佐久間さんにお願いに行った。 東京から JR で行くが、越尾さんはJR に乗った途端にかばん広げ報告書にコメントを書き出したのでビックリした。 ソードも手がないのでさらに下請けを紹介するということでテレデータを紹介してもらった。 そこでスタートしたのは確か10月ぐらいであったと思う。 社長は日立の人で歯が全部入れ歯で、これは柔道で歯が折れたと言うてました。 その数人しかいないテレデータで神さんと言うのがハード担当で、今野?とか言う若いのがソフト担当でした。
最初に設計してくれたのは物凄い教科書的な回路で、これは絶対コスト合わないと思って、以前に交通の事務所で居たところが全部実験室になっていて、この中をぶらぶらと何か参考になるものが無いかと見て歩いたら、非常に簡単な表示とキーと基盤しかしかないようなエントリーレベルのECRがあって、これで良いと思って、それを参考にしたら、極めて簡単な回路になった。 表示とキーの取り込み CPU とモデムで出来てしまって、最終的にコストは営業の指値より2割ぐらい安くてきた。 普通はだいたい営業の指値より20%高いのは当たり前だったので、これには皆びっくり。
それをとりあえず手作りで一個作ってその上でソフトを作り始めた。 11月11月ぐらいから作り始めたソフトを作った。 今野君はセンスが良かったので、割と良いのが出来たと思う。 結局年末の大晦日も年始も全部も缶詰なって作ったが収束しないので、これはいかんと思ってアメリカ行きのチケットを買って、1月15日だと思うが、それを行くぞと渡して取り敢えず完成した。
最後のアメリカでの打ち合わせの時に20桁表示の所をこれでは大きくなるし、コストも上がるので16桁表示にして、オムロンのキーを並べて、電話のハンドセットを置いたら大体の構成が決まったので、飛行機の中で黄色いファックス用紙の裏側に手書きでスケッチを描いて、日本に着いたときにファックスで送って、これが最終系になった。
それを受け取った当時の工業デザイン担当の小林さんが見ていて、あの原稿は無いのかと未だに言っていた。 彼のすごいところは、それにぴったりの受話器をきちんと探してきてデザイン的にはピシャと合った。
それで年明けにアメリカに持っていったのは、少なくとも外観はいかにも出来てるという感じにした。 最終系と比べて、手前が少し厚くて、その後修正してまともなった。 外形は最終的には射出成型にするが、サンプルは手作業の削出しが常識だったが、これで20台も作るのは天文学的なコストがかかるので、当時始まっていた真空成形でやることになった。 また技術が未熟だったので、ボスとか細かいところに、ちゃんと流れてなくって出来上がってもボスの頭がショートしているのが沢山あって、これを手加工で修正しなければならなかった。
だいたい20台ぐらい作ったと思うが結構手間がかかって大変だったがとりあえず1台か2台前に合わせて持って行った。 持って行く時に当時境さんというのが経戦担当だったが Northwest かどっかのファーストに乗せてもらえるはずだったが、結局エコノミーだった。 ロスでの乗り換えがちょっときついなあと思って、シカゴに着いたら荷物が来てなくて。大騒ぎなった。 荷物の中には当然サンプルも入っているのでサンプルがなくなったら何しに来たかわからんということになって、
それでは明くる日の朝には当然着いたんですけど朝は、 OBS 池田社長のところへ顔を出したが、何もなかったので、そのまま髭剃りなしで行きました。 前来た時にそういえば3か月か6か月で持って来るって言ったけど、本当に持ってきた、という話になった。 依然の9月には物がなかったので情けない話だったが、今回はそれなりのものがあるので、そのせいか家に招いてもらって、アラスカカニとかの夕食をご馳走していただきました。 アメリカの担当は竹村さんで、これはCATはすぐに何億の事業になるよと言っていたが、私は半信半疑で本当かなと思っていた。 しかし実際にそうなった。
現地で回線に繋いでテストすると動かない。 私の単純なコードの解釈ミスだったが、それとモデムの感度の調整とで、何晩も徹夜に近くなった。 詳細は別稿にあると思う。
彼らと一緒に今度はサンフランシスコに行って、一番最初に行ったのはバンクオブアメリカだったが、ここは女のマネージャーでけんもほろろで、全然取り合ってくれずしょんぼりホテルに戻った。 お客さんはやっぱり銀行で銀行に買ってもらって銀行が配布するということになってたのだが全然駄目だ愕然としてしょんぼりとして帰ってきた。
この後に今度は ハーフムーンベイへ行く途中にあるVISAの本社行った。 別荘みたいな本社で、ここはどうせあまり反応してくれないだろうと思っていたが、そこの副社長が技術系で、サンプルと言うので、バラックと思っていたが、これは完成しとるではないか、すぐにでも持ってきてくれと言う話になった。 こっちが仕込んでおいたモデムのスピーカーもちゃんと理解してくれて、非常に歓待してくれた。
モデムの音をわざわざスピーカーつけてたが、それもちゃんと評価してくれて素晴らしいという事言ってくれて非常に安心したことを覚えている。 それで後は動作テストをしたが何故か動かない。 一つはモデムのレベルが低いこと、もう一つはデータがセンターに認識されないのこの二つだった。 それでシカゴに戻って国際電話を繋ぎぱなしにして神さんにテストしてもらって、オペアンプの抵抗の問題なので抵抗の値を教えてもらってそれを当時はそこのアメリカの会社の倉庫で作業していたので、その倉庫の中をあちこち抵抗を探して出して、やっとアンプのゲインを上げて完成した。
後はセンターのデータなのだが、これは要するに通信コードを取り間違えてたことが原因で、それにある時はっと気が付いて、直したら一発で動いた。
それから量産に持ち込むのが大変で、1月に戻って結局、初回のロットが9月ぐらいにやっと出せた。 その間の4月に田中君がやってきて田中君が新人ながら量産の対応して、ついでに一緒に流通に異動してしまい、未だに恨みを持ってるんじゃないかと思うが彼はちょっとそういうセンスがあまりなかったんで、ちょっと大変だったんじゃないか。
今は能関係でがんばっているみたいだけど、そういう方面の方が得意みたい。 量産してる間に今度は国内を何とかしろと言う話になって、当時の吉田事業部長がやってきて食堂の清皇館に連れ出されて、なんとかしてくれという話をひざ詰めでやられた。 疲れてたんでもあまりやりたくなかったが、それと日本の使用に厳しい決済をする必要があるので、大丈夫かなと思った。 アメリカは単にチェックするだけなので大したことがないが、決裁するとなると信頼性が重要で、伝票も印刷するプリンタも付けないといけない。 それでも言われるままに作ったが、あまり満足のいくものではなかった。
結局その後金融かどっかが引き継いで仕上げたみたいだが、だいぶ違ったものになっていた。 伝票そのものは私が作ったものそのままで、最近まで同じものを使っていました。
アメリカのCATは、9月にぐらいに初出荷したが、その時に大変なニュースが飛び込んできて、竹村さんが死んでしまったということになり、境さんが電話してきて「竹村君死んじゃった」とか言うんでびっくりしました。 よく聞くと初出荷で届いたんで、その時にミシガン湖の最後のシーズンだった週末にヨットに遊びに行って、ヨットのブームがぐるっと回って頭に当たって水に落ちてしまったとのこと。 岸では奥さんとか子供が見てたことなんで非常になんか劇的なシーンだと思うが、オムロンのアメリカ事業の方向は大分変わってしまったのではないかなと思う。
竹村さんで思い出すのは途中で8051というチップを使っていたが、その書き込み機が無い。 出たてのチップなので書き込み機はあまり出回ってなかった。 それで向こうに行った時に日本でも一応借り出して、今日1日とか半日とか言って借りて行ってたんですがアメリカに行った時はどこからか入手しないといけないが、竹村さんにお願いしたところ、彼は曰く今日オヘア空港に着くやつが持っていると言うニュースを何処かで聞き込んできて、今から行ってくると言うてオヘヤ空港に行って、その人にそれ貸してくれって言ったらしいです。 突然空港で知らん人間が現れてそれを寄越せと言われたら、みんなびっくりすると思うんですけど、それでも彼はちゃんとそれを取っていてくれてそれで書き込みをして修正し出来た。
当時は時差ぼけもあったので夜中まで平気で仕事してたが、彼もそれに付き合ってくれて、いつも遅いので最後帰る時にアラームを仕掛けて帰らないといけないが、それがある時うまくいかなかった。 それで結局外へ出て鍵はかけたけどセット出来ない。このむちゃくちゃ寒い100年代の寒さで火事も凍るというような新聞記事があったが、その中でそこの警備の担当者が来るのを待ってたことを思い出す。
この街は本当にもう冬はもう本当に凍りついて幹線道路は除雪してるが、ちょっと脇に入るとほとんど道が氷で覆われてると思った方が良い。 だからちょっとしたことで、車が追突してるものは、よくあった。 こちらも車で下宿してベルサイユとか言うコンドミニアムで、そこから会社へ通勤するが当然車の上にも雪が積もっるが、もうめんどくさいので雪も下さないで、そのまま突っ走っていて、池田社長に今度の出張で来たのは、アメリカ人みたいに雪も降ろさないと、ビルの上の事務所から見ていて言ったそうな。 どうせ後ろが見えないして変にブレーキ踏んでもダメ出し、カーブでもブレーキ踏まずに回って行った。 それを上から見て池田さんが今度出張で来たやつは雪も降ろさんと言ったらしいが、そういうこともあったということ。
車は空港で借りたらよかったのですが、その暇がなかったので、街のレンタ事務所で借りたら、サンダーバードしかなかったので、それに乗っていました。 重い車体のFRでノーマルのタイヤで、氷の道路を走っていました。
会社の向かいはショッピングモールになっているが、そこはあったかくて皆Tシャツでいるようなところですが、外でちょっと立ちションして、しばらくしても別にあんまり寒くないんでいいかと思ってしばらくウロウロして戻ったら、このモールが暖かいので、おそらく血管が抹消結果開いたんやと思うけど心臓がドキドキしてきて、あこれは倒れるんじゃないかと思っていたが何とか持ちこたえた。
ちなみにアメリカの0度カッシの0℃で、摂氏でマイナス20℃ぐらいなので、摂氏0℃は温暖と言う感じがする。 何でカッシを使うかと言うのをやっとここで理解出来ました。 要するに塩を撒いた道路が凍る温度なので、車で外に出れない温度だと言う事。 またカッシ100度は体温で、これ以上だと外に出るのは危険だと言う事。 いつかサンフランシスコでタクシーに乗った時に、黒人の運転手が何処に行くのか聞くので、ロスだと言うと、100度以上だぜー!! と冷やかしたのが印象に残っています。
アメリカのシカゴの場所はシャンバーグと言うんですがシャンバーグビレッジと言う小さな町だった感じですが、最近行ったら非常に大きな街になっていて、ショッピングモールが他にもいっぱいできていて、当時の日本食堂は日光という韓国人がやってたが、そういうレストランがあって、偶には行った。 やはり疲れてくるとどうしても日本食でないとだめだと。 他の時はあまり苦にならないが疲れてくると、どうにも日本食になるという感じ。
ゴルフという通りがあってゴルフをずーっと行くと出たような記憶がある。 一番最初に行った時に空港からホテルへ行く時にタクシーに乗ったが、どうもなんか逆の方へ行くと思ったら、そのダウンタウンの方へ来てしまって、他のお客を降ろして、引き返して結構なお金になった。 会社は空港と反対側にあるのでホテルがあってハイヤットががあってそこにはよく泊まっていた。
ある時に遅く着くとマネージャーがいて予約してギャランティしてるはずなのにないと言う。 黙って無料券みたいの作り出したので頭に来ましたが、それでも代わりのホテルに行くと道が分からない。 同じ道でもNorthとWestと違う方向が書いてある場合があって、結局行きつけなかったので、戻って無茶苦茶言って、お前とか二度と来ないと言って出て近くのマリオットかに行ったが、次の日はそこに帰ってみると真っ暗になっていて、聞くと停電で電気設備が壊れてどうしようもない、今夜はもうどうしようもなくコンピュータも止まっていると言うので、とりあえずセキュリティと一緒に懐中電灯を持って部屋に入ったんですけど、セキュリティは部屋の前までで、室内はもう真っ暗だったが、どうも何か他の荷物を置いてあるような感じで、いつもだいたい荷物をまとめててる様にしているので、そのまま荷物持って出て、どこも駄目だと言ったらコンピューターも止まっているので、無料で良いととのことで、どこ行ったら良いかと言うと元のホテルになってしまった。 他に戻るホテルもないので、しょんぼり昨夜のホテルに戻ったら、昨日のマ��ージャ��が顔を見るなり、「You are so happy last night」。 言われてしょうがないなぁということでチェックインしが、一番いい部屋に入れてくれて、後でワインが手紙と共に届いた。 丁寧なお詫びの手紙がついていて、最初からちゃんとやっとけばいいのにと思った。 それでこのチェックアウトするときに一泊分と言うから、その時はカウンターにマネージャーは居なかったが、全部無料だろって言うたら、少々お待ち下さいと奥に引っ込んで、結果的に無料でいいです、と言うことで結局2泊共無料になった。 あまり嬉しくはなかったが、まあ良い経験だったなと思った。
それで怒り方は、その来る前にサンフランシスコにいたが、いつものセブンスクリークの端にある小さなイタリアンレストランに行ったが、そこで、あまり遅いので、他のお客がエラク怒って、子供に渡した風船まで突き返して大声で何とか文句言って帰ったが、どうもそれが残ってたみたいで、それと同じような事を言ったような気がする。何しても言うべき時に言わないかんというのが、これでよく分かった。
その後でオーストラリアへ旅行に行った時に買い物に行くと、そこに私の作ったCATがばっちり置いてあったので、冗談でこれは私が作ったんだよ、私のカードは全部通るよって言ったのですけどあまり通じてなくっ、2件目ではちゃんと通じてウケました。 そういうのはては、まだ使われてるんだと思いました。 もともと汎用的に使えるように色んな仕込みをしてあったので、一時シンガポールで株の取引の端末に使うみたいなこと話があったので、これはしめたと思ったが、なかなかそれは広がらなかったみたい。
直方工場に行ったときに10万台記念の金のCATがあったので、10万台を超えてに20万とか行ったのではないかと思うが、一時はクレームを起こしてジャンボを借り切って持って帰ってきたらしいが、それくらいしてもいいというレベルで儲かっていた。 アメリカの会社のCAT担当は何とか言うのお兄さんが一人しかいなかったが、彼の稼ぎが他の部門全体の稼ぎより多いということになって、なにしろ営業の指値より20%も安く、250ドルぐらいの工場仕切りで800ドルで銀行に直売していたので、おお儲かりのはず。 それで、そこの会社の暦年の赤字が一気に解消されたということを聞いた。
最初持って行った時に皆えらく喜んでるんで、何を喜んでるのかと思って聞いてみたらオムロンのロゴ入ってると、それに何が珍しいんだと思ったが、それまでのビジネスがOEMばかりで、オムロンのロゴは入っていないかったので、営業としては士気が上がらなかったらしい。 最初にしては割と大きなヒット作やったと思う。 これ以来短納期でものを作るというベースができたように思うが、オムロンの作り方は、あまりにも時間かかりすぎる。 時間をかけて作るべきものもあるのでしょうが、短期間でできるものはできるはずで、最短3ヶ月でできるはずで、これやってるのは今の韓国中国でやっている。
これでは日本は太刀打ちできないと思うが、それに顧客の要求レベルに合ったものが作れるかどうかだと思う。 あまりにも高品質ばっかり追い求めて時間もかかって良くないということ。 時間かかって良くないのは、別に開発コストがかかることもさることながら、出荷しようとした時のマーケティング情報がもう古くなってしまう。 だから短期で作らないといけない。 欲しいなと思った時はやっぱり3ヶ月ぐらいで物を出す、量産するということが非常に大事。 そしてタイムリーに物が出せるということになる。
この時以来、割と車内での発言力が増したように思うので、この後のスーパーメイト・ワークステーションに繋がっていくことになる。 まあこれが良かったのか悪かったのか難しいところだが、特に日本のものづくりのベースというのをどこに求めるのかというのは非常にポイントになると思う。 やはり今見てたら、やはり素材などが日本は強い、私が素材は作り込みが非常に重要なので競争力も出ると思うが、ああいうアップル的なものの作り方は日本では向かないだろうと思う。 やっぱりマーケティングからの情報で即ものを出すもしくは全く違うインパクトのあるものを出すのはなかなか日本では難しい。
部品とか素材は割と得意で韓国の輸出管理強化の問題でもあり素材が問題あって、ます韓国にはできない、中国でも同じだと思うが、ただ Huawei なんかの作りこみがやっぱり驚異的です。 あれは凄いものがあるんで日本ではまずまず対抗できないんじゃないかなと思う。 だんだんそれが基幹部品にまで及んできてるので、そこもだんだん押し込まれてるような感じがする。 だから本当の素材とかのレベルではいいと思うがリエンジニアリングしても突き止められない所で、そこは非常に強いと思うが、ただそれが根底から崩れるとどうしようもなくなるという風に思う。
います例えば CDプレーヤーの後に MD プレーヤーが出てきたが日本では MD プレイヤーを一生懸命に作ってメカ的に素晴らしいもの作ったが、これは他の国では真似ができないと思うが、アメリカで見てると mp3のプレイヤーが売っていて、それも思わず買ったけど、何でこんなものは要るんだと思ったら、ジョギングしながら聴きたいという要望があってメカではどうしても、そういう衝撃振動に弱いので mp3がいいということだが、mp3は基本的にはすぐ出来てしまうのです、それが浸透してきて結果的にアップルの iPod みたいなものに繋がっていくということになる。

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