【回顧録】 ルナ開発 と収束 @kaikoroku
2021年2月3日 15:25:22 作成
スーパーメイトもあまりパッとせずシグマワークステーションに移行したが、それもあまりパッとしませんでした。 元々はスーパーメイトはマルチバスシステムで開発していのですがこれでは面積も小さいし開発に制約が大きいので、シグマワークステーションは当時の流行であったらVME バスに変えました。 おまけにそれを最大のコネクタが三つ付いた最大の面積のボードを作ってそれを筐体の後ろから刺すようにしました。 結局これはコストアップにつながり典型的なセカンドシステムになって軽快さが失われたような気がします。
シグマワークステーションで思い出すのは野村総合研究所NRIにかなりの台数を収めたことです。 要するに金融分野ではこういう高性能の、今で言うパソコン当時のワークステーションの需要が大きかったので、そこに導入したのですが、導入計画が凄い。 壁一面にパートチャートが貼られていて、その通り導入していてないといけない。 リーダーはもう徹夜に次ぐ徹夜でやっているという、我々はちょっと付いていけない状況でありました。 何かちょっとあるとすぐクレームで飛んで行くということになって、それでもやはり導入して野村総研の役には立ったんじゃないか思います。 他にもいろんなことがあったんでしょうが大きな案件で私が立ち上がったのは野村総研ぐらいです
しかしビジネス的にはあまりパッとしないしソニーのNEWSが出てきたので、マーケットも立ち上がり、それに対抗すべくLUNAを作ろうと、もっと小型のワークステーションを作ろうということになりました。 それでハードウエアをどうするかを、確か何年かの正月に八尾の自宅の二階で寝てる時に、紙にゴソゴソ書いてブロックダイアグラムを書き上げました。 その時は後追いなので短期開発をしないといけないと言うことで、問題は私があまり得意じゃなかった分野 DMA ダイレクトメモリアクセスの部分がネックになりました。
通常はLSIを開発しないといけないのですが、ソニーはそこにもメイン CPU と同じ68030を使ってそれでDMA機能を果たして、デュアル CPU という風に宣伝しておりました。 しかしその真似をするのは時間的に足りないのでもうそこは目をつぶって、なんとプログラム IO PIO でディスクをアクセスすることにしました。 これは当時の常識から言うと非常識極まりない選択だったと思いますが、ハードの開発が非常に楽になるということになります。 それと非常に短いループで書けばプログラムはキャッシュに入り、メモリーバスに関しては同じ条件なのでネックにならないだろうという風に思いました。 試しにアセンブラで短いループをOSKの堀君に書いてもらって計測してみました。 CPU のキャッシュが効いて小さなループはキャッシュの中で動けばメモリーますはあまり問題ならないだろうとの想定。 しかし結果的に負荷の軽い時シングルタスクで動く時はあまり目立たないんですがマルチタスクで負荷をかけると、その欠点が露わになって来るということで営業は遅いと言われてしょげ�て帰って�来たことがありました。
いずれにしても初代のルナは、大きさは当時の一番小さなパソコンである PC100をモデルにしました。 このサイズにしようと思ったんですがちょっとそれより大きなったんですがほぼそれに匹敵する大きさになりました。
PC100は NEC から出てたんですが、ずっと後になって京セラの本社にに展示場があるんですが、そこへ行くと PC100があって、ビックリして展示場の人に聞いたら、これは京セラの OEM であったということをその時初めて知りました。 道理で作りが全く他の PC‐ 9800とか全く違うと思いました。 いずれにしてもハードウェアとしては非常に良く出来たのですがなぜかビジネス的にはあまり成功しなかった PC 100です。 それをモデルに作ったのですが、デザインは当時独立していたソリデックの大内田さんにお願いしました。 彼とはずっとスーパーメイトもやってもらっていて、これを真っ先にお願いして言ったことは、とりあえず後発なので目立つようにしよう。 グッドデザイン賞は取れない取らなくても良いから、取り敢えず目立つようにしようということで、ガンダムと言われるようなデザインになりました。 それと液晶表示をつけましたこれはバックライト光らして、その後もずーっとルナの名前忘れている人でも、あの液晶のついたマシンと言うことで記憶に残すことができました��で、こ��は正解だったと思います。 ちなみにソニーは、前面はカバーで覆ってしまって、SONYのロゴだけあると言う、ソニーらしいデザインでした。
それとサイドは本来はファンの形状を丸いちょっと出っ張った格好で作ったんですが、ファンの位置が変更になって位置をずらさないといけないことになりました。 新しい場所は中途半端なので、動いた後の位置までずっと引っ張って楕円形にしましたこれも正解で、サイドから見た時のインパクトは上がりました。
拡張スロットとして PC- 98のスロットを使いました。 このおかげでこのマシンの紹介が PC雑誌に載りました。 さらにはNEC から著作権違反だというクレームが来ましたが幸か不幸か PC- 98の全ての機能を使ってたわけじゃないので、あまりこれは問題にならなかったと思います。 ビジネス的には例えば DMA がないとかで後々の使う拡張性に疑問が残りました。 それとちょっと小さく作ったので電源を小さなところに押し込めないといけないので電源のコストの上がり、更には熱的な問題も出てきたということになりますが最初のマシンとしては私は成功したんではないかという風に思っています。
ある時展示会で出して、ずっと離れたとこから見てたら前に学生の二人連れが居てゴソゴソ喋っているのを聞くと、「あれオムロンがコンピューター出してるなあ、オムロンは体温計の会社やなかったっけ? 何で体温計の会社がコンピューターだしてるんだ?」 みたいな会話が聞こえてきまして、なかなか世の中に対してインパクトがあったんじゃないかと思いました。
ハードウェアはこれで良いとして、問題はソフトやOSです。 当時関係ができた京大数理解析研究所の中島先生のグループと協業することになりました。 それで先生のグループは非常にユニークなグループで、京大の兄弟の数理解析研究所のすぐ横にのアパートを借りてそこでも徹夜に着く徹夜でいわゆるホワイトハッカーがOS の移植をしました。KABAと言います。 Kyoto Artifical Brain Association だったと思います。 当時専務であった義雄さんも訪問したことがあるそうです。 私は同席はしなかったのですが。
それで単に UNIX BSD を移植するだけなら面白くないのでと、さらにはシステム5を動かさないと通産省との関係が悪くなるので両方を移植しないといけないので、システム5はオムロンの方で、BSDは数理解析研究所のメンバーが作業したと思います。さらにはアメリカでデュアルサポートの OS があるということを見つけてきたので、京大の学生をシリコンバレーに引き連れて見に行って、それを導入することにしました。 現地での作業をしてる最中に例のカリフォルニア地震が起きこれはもう大変な目をしました。曖昧な形で学生が入ってたので、これで死者が必ず出るはずで、この時は引いていたと思った風邪が一気に治りました。 詳細は別章にします。
先生のグループは非常に有能な人ばかりで、すごかったです。 萩谷さん、萩野さん、桜川さんが、この3大トップで萩野さんはエジンバラ大学から帰って来たばかりで別名は宇宙人と呼ばれてました。 ソースコードを読みながら寝るのが好きだという非常に変わった人です。 桜川さんはその後若くして亡くなってしまいました。 萩野さんはその後日本中のコンピューターサイエンスのトップを集めたSFC藤沢キャンパスに行きました。 萩谷さんは、この間見るとちゃんとと東大の教授に収まっていました。
その後、第2世代のルナ2を作ることになったのですが、その前に色々なシリーズを作りました。 その中にLUNA/88K と言うのがあって、これは4 CPU を載せたマルチ CPU のシステムで、現在ではマルチCPUはおろかマルチコアのCPUが溢れていますが、当時は世界中でマルチCPUワークステーションとしては、これしかありませんでした。 1CPU当たり25MIPSなので、x4で世界最速の100MIPSと宣伝しました。 当時オムロンがスポンサーをしていたプロトタイプ自動車レースのポルシェを展示会場に持ち込んで、主催者からクレームを付けられました。 シリコンバレーの会社一覧ポスターに開設したOAS Omron Advanced Systems, Inc. のところにレーシングカーを載せたら、オムロンは車の会社なのかと言われました。
当時 X ウィンドウのプロポーザルにマルチ CPU というのがあったのですが、これはLUNA/88K しかありませんでした。 当時Xウインドウプロジェクトを主催していたMITのシャイフラー教授と一緒になって、さらにはチップの供給元のモトローラ、そのユーザーのData Genaralと一緒になって、いわば世界のコンピューター技術を牽引していたわけです。 日本なので、マルチ言語サポート技術を推進して、i18n(Internationarization)とかl10n(Localization)とか言う技術を提案していました。 これの相手は主に日本の会社で富士通とかNECとかSonyとやりあっていたようです。 オムロンはXX君が主体となって対応していました。 詳細は別章とします。
この後にルナ2を出したのですが、セカンドシステムは駄目だという明確な例となりました。 まずデザインと言うことで、デザインコンセプトから始まって、2000万を投入しましたが、結局中止して、LUNA1の改善版としてロゴを変更しただけにしました。 2000万は無駄になりましたが、結果的にはこれで良く、その後にバブル崩壊でワークステーションビジネスも終息を迎えます。
ルナのビジネスは一時は60億とか70億の売り上げに達したのですが、ちょうどバブル崩壊の時期に重なったので、リストラの対象になりました。 それで結果的には1993年に公表せずに収束しました。 それ以後をオムロンではこういうシステム開発はもうやらなくなったと言うかできなくなりました。
LUNA2は、その後ずっと後になって京都府庁の入室管理システムに使われていて、それを入れ替える事が分かって Omron Field Engineering OFE に交渉したのですが、全く埒が明かず、結局府の小林さんにお願いして、うまく処理して頂いて引き上げることが出来ました。 事務所にはUNIXを操作出来る人がいたので、立ち上げて動作を確認して、持って帰りました。 今は自宅に置いてありますが、どっかへオムロンミュージアムみたいなところに置けたら良いのではないかなと思っています。 他には大内田さんの事務所を整理して、その時に出てきた資料とかモックアップを一応全て引き取って保管してあります。今でもネットを検索するとルナとかルナ2は出てくるのでそれなりに知られた存在であったのはないかと思いますが、コンピューターの歴史にはあまり出てこないようです。 ちょっとこれは残念です。

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