【回顧録】 里やう物語
2021年2月12日 16:28:04 作成
里やう物語
配布されたテキストを見て、わが目を疑った。 そこには「清兵衛」と明確に書
かれていた。 古文書講座に参加して間もない頃だったが、それはよく読め読
めた。 しかし後で先生に確認に行った。
配布されたテキストは、今では差別を助長するとか言って考えられないが、当時
の宗門帳という現在の戸籍簿に相当するもので、我が家の北隣の久保田傳助が庄
屋の時に書いたもの。 当時の庄屋は現在の市役所の役割を担っていた非常に重
要な役割で、だいたい3月頃にその宗門帳を書いて代官所に届け出るということ
になっていたらしい。
宗門帳と言うので宗派別に書かれていて、当家の宗派は当時から大念仏であった
ので大念仏に属する戸籍が書かれていた。 さらには現在でいう固定資産台帳
の役割も果たしていて、屋敷の大きさや家屋の大きさが書かれていて、これで年
貢が決まっていく。
当時の税制は全て石高で課税され、田や畑は検地の際に、田などは上々田、上田、
中田、下田などという風に評価が決まっていて、それごとに課税割合が決まって
いた。 土地や固定資産も評価されて石高換算で出てくる。
ちなみに八幡神社は、ずっと以前の太閤検地の際にも、これは神社であるので非
課税とする旨の記録が残っている。 太閤検地というのはほとんど以前の室町
幕府が決めた土地の評価をあまり変えていなかったので、おそらくもっと以前の
室町幕府の時代から神社は存在していて非課税扱いを受けていたものと思われる。
庄屋の屋敷面積は狭くて、家屋を置いていくとほとんど目いっぱいになってしま
って、これは年貢を少なくするために意図的に屋敷面積を狭くしてあるのだと思
う。 従って、当時の屋敷地の面積は過小評価と言うか、減少評価後の面積と認
識ないと間違えることになる。
清兵衛は代々同じ名前を継承しているので、ややこしいので、酒屋を始めた観月
院清兵衛、その父親は池島清兵衛、観月院清兵衛の次男は酒店清兵衛と呼ぶこと
にする。
件の宗門帳は、嘉永5年で戸主が池島清兵衛で妻は13年前の天保10年に亡くなっ
ていてヤモメ、20才代後半の観月院清兵衛と妻の里やう(りょう、リウ)、生ま
れたばかりの長男安平が記載されいている。
宗門帳の記載は庄屋の傳助がトップで、その後に池島清兵衛、他にも数世帯と、
今ではなくなったお寺の境内の記述もあった。 清兵衛は良く分かったが、
「里やう」がわからなかったので、後で調べてみると、過去帳に「リウ」という
名前で載っていた。 要するに坂本竜馬で有名な「おりょう」さんと同じ名前
だった。 これで俄然興味が湧いてきた。
父親の池島清兵衛は池島の小川という家から婿養子で来たことになっているので、
池島の現地を見に行った。 池島神社の前に大きな小川という家が複数あったの
で、ここから婿入りしたものと思われる。 一度訪問して話を聞けば良いと思
うのだが、なかなか決心が湧かない。
明治時代に納税のランキングを書いた文書があるが、この中で増田と小川という
のが同じレベルの納税額だったので、家柄が似ているところから婿入りしたんで
あろうと思われる。 戒名もガチガチと本融義誓禅定門とかになっていて、何
とか増田家を再建しようという意気が感じられる。
文化5年1808年ごろから、現在のご回在が始まる。 この頃から本格的に大念仏
が復活してきた。 文化13年1816年には、傳助の父傳兵衛が八幡神社に、灯篭
を寄進。 宗教に対して配慮する余裕が出てきたと思われる。
池島清兵衛の妻、増田家の一人娘は、寛政2年1790年に誕生する。 父22歳、母19歳。
その10年後、寛政12年1801年に池島清兵衛が誕生。 父32歳、母29歳。
文政4年1821年に増田家の一人娘の父が亡くなる。 記録は無いが、父親の死去を
契機に文政5年に増田家は池島清兵衛を婿取りしたと推定できる。その後の文政6
年に観月院清兵衛が誕生。 幼名は常右衛門という。一人娘の母は、これを見届
けて文政8年に亡くなる。 非常に慌ただしい日々が続く。
池島清兵衛夫婦間に文政10年娘が、文政12年には息子が生まれて亡くなって、天
保12年には双子と思われる男の子2人が同時に死去。
翌年の天保2年には為衛門が誕生、増田由松の祖父となる。ほぼ毎年子供が出来
ては死んでいる。 同じ年に、後に観月院清兵衛の妻となる里やうが衣摺山野家
で誕生。
天保6年には、最後の子供らしい名前の登女(トメ、トミが誕生する。 池島清兵
衛36歳、妻 46歳。 当時としては超高齢出産だったと思う。 登女は、時期は
不明だが、小山村に嫁ぐ。 小山村は藤井寺津堂なので、増田家はずっと前から
津堂とは関係が深かったようだ。 その関連で、父親鼎の弟は津堂の藤井家養子
になったのかも知れない。 登女は、その後文久3年1863年に弱冠29歳で死去してしまう。
天保10年には、娘が死去、誕生日は不明だが、登女の前に日が空いているので、
天保4年前後かと思われる。 推定6歳。
これだけの子供を生んだ池島清兵衛の妻も天保10年4月15日に50歳で死去してし
まう。 分かっているだけで9人も生んだ。 観月院清兵衛 多感な17歳。その翌
年には、文政11年生まれと思われ、少し長生きした推定13歳と思われる娘も後を
追うように死去してしまう。
観月院清兵衛は、嘉永3年5月15日に里やうと結婚。 清兵衛28歳、里やう20歳。
翌年には長男安太良が生まれる。 徴兵の資料に2月2日生まれとなっている。
後の初代安平となる。 安平が成人となる明治期には、長男は兵役免除となって
いたらしくて、その資料が八尾市史にあった。
この翌年嘉永5年に、件の宗門帳(家数人別長)が書かれたので、その時の増田家
の状態が良くわかる。 家族は、戸主の池島清兵衛53歳、観月院清兵衛の常右衛
門30歳、妻の里やう20歳、孫の安太良2歳、弟の為右衛門22歳も同居。 この男
4人と女1人が、2.5間x6.5間の居宅に住んでいたことになり、里やうも大変だっ
た。 当時の間取りは土間が半分を占めるので、7畳半が2間しかない。 土蔵が
大きいので、こちらでも寝起きしたのかもしれない。
現在の所得税申告所得に相当する石高は庄屋の伝助が15石余りの所、清兵衛は2
石余り。他は無高である。 嘉永5年の小堀勝太郎に宛てた五人組の改め帳にも
組頭として登場する。 それなりの地位を築いていたようだ。
翌嘉永6年には長女シゲが誕生し、喜びもつかの間の翌年安政元年に安政南海東
海大地震が起きる。 その後の記録を見ても、家屋に変化は無いので、意外に
被害は少なかったのかもしれない。
2年後の安政3年2月13日に父親の池島清兵衛が57歳で死去。 記録では55歳と
なっているが、当時の人別帳には2年ぐらい記載しない誤差があるので、そのた
めと思われる。 妻は体を酷使したのか約10年前に50歳ですでに死去。 当時、
観月院清兵衛34歳、妻26歳。 若くして父を失った。
安政5年に次男の酒店清兵衛が誕生、幼名は菊松。 これも後の資料と年齢が2年合わない。
父親は亡くなったし、次男も出来たので、ここで一息付いたのか、翌年の安政6
年に常楽寺へ五百羅漢を寄進している。 37歳、意気軒高だったことが感じられ
る。 お金もそれなりにあった。 五百羅漢は連作になっていて、第9羅漢を寄
進。 常楽寺の本堂須弥壇の左手に棚があって、そこに並んでいる。 以前に父
親と一緒に見に行ったが、写真がなかったし、れきみんのメンバーと押しかけて、
手持ちがなくて、お布施もなにも置かなかったので、改めて訪問して、見せても
らった。 他にも逗子の扉の裏とか、曼荼羅の軸とかに清兵衛の名前があるか
と思ったが、ここは全て久保田氏の寄進だった。
観月院清兵衛が、造り酒屋を始めたのは、いつなのか不明だが、増田通夫さんに
よると、免許制になったころだと思うが、権利を買うために、銭を天秤棒で担い
で持って行ったと言うことだ。 隣の久保田の屋号が酒屋と言うのも関係があ
るのかもしれない。
八尾市史に記載されている記録には以下のようになっている。 少なくとも明治2
年には140石の免許を持っていたことなる。 ちなみに、河内の酒造りを仕切っ
ていたのは、富田林の酒造大行司 佐渡屋 徳兵衛 だった。 用木さんの近くに
仲村家と言う庄屋の古民家があって、ここに古文書が残っていて、その記録であ
る。 特に明治3年の記録は造り桶や造屋の大きさまで詳しくかかれている。 庄
屋の伝助も名前を連ねている。
河内国酒造株高書上帳
明治二年巳九月
河州石川郡富田林村
酒造大行司
佐渡屋 徳兵衛
明治二巳十一月廿七日切替
同 十二月七日御聞済
河州高安郡万願寺
酒造株高百四拾石 清兵衛
ほかに
高安郡大窪 庄蔵
若江郡木戸村 熊次郎
大県郡平野村 重治郎
明治三年午六月
酒造株高並ニ造桶造家書上帳
河州石川郡富田林村
酒造大行司
佐渡屋 徳兵衛
酒造渡世
一、 酒造高 百四拾石
一、 造桶 口径七尺五寸
敷径六尺五寸
深六尺五寸 七本
此造 百四拾石 但壱本ニ付弐拾石
一、 造家 梁行 四間
桁行八間 壱ヶ所
明治三年六月
清兵衛、伝助、徳兵衛
明治七年の頃、富田林仲村家文書に140石とある
木戸村の熊次郎(500石)
大窪村の庄蔵(140石)
万願寺の清兵衛(140石)
八尾東本町 木戸村278石
明治七年九月 万願寺村一村限調帳
酒 百四拾石 年中出高
造酒税 金三拾円九拾九銭二厘五毛
明治八年万願寺村物産取調書
清酒中 九拾六石 金六百廿四円
清酒粕 四百八拾貫目 金参拾壱円廿銭
明治九年万願寺村物産取調書
清酒 八拾五石 金四百四拾弐円
清酒粕 六百貫目 金参拾六円
婚姻前の嘉永元年(1848年)ころから酒造りを始めていたとすると、免許通り140
石を造っていたが、明治4年に、免許制が導入(改定?)され、明治8年には免許料
が2倍になる。 さらに明治11年には酒造り税になって、増税が一気に進む。 明
治政府には資金がなく、当時の最大の徴税元は酒税だったので、それを手っ取り
早く増やした。 おかげで全国の造り酒屋は10分の1に激減したと言われている。
その中で清兵衛も酒造りを止めてしまったようだ。
万願寺には酒屋は清兵衛しかなかったので、物産取調帳の数字は清兵衛のもので
ある。 明治7年 140石、明治8年 96石、明治9年 85石 と年々生産量は下がって
いく。 明治13年(1880年)の記録からは酒造り小売りから名前が消える。 山本新田のみ
となる。 創業嘉永元年とすると、30年余りの酒造りだった。
文久2年に次女ベン(婦さ)誕生。 翌文久3年には小山村に嫁いだ登女(トミ)が死去。
文久4年(元治元年)の人別帳には、清兵衛42歳、リウ34歳、安太良14歳、シゲ12
歳、菊松5歳、婦さ2歳、法松2歳が記載されている。 屋敷は変化していない。
安太良はこの後分家するが理由は不明。 跡継ぎ問題が出てきたのかと思うが、
安太良は14歳、次男は5歳で、問題が表面化するのは早すぎると思う。 法松は、
例の如く誕生日が合わないが、没年はあうので、通夫祖父の重威と思われる。
明治目前の慶応3年には三女カジが誕生、同じ年に居宅の棟上げを6月5日に挙行。
これは現在の自宅であろうと思う。
明治2年の人別帳には、清兵衛47歳、 リウ39歳、 安太良19歳、 シゲ17歳、 常
松10歳 婦さ7歳 法松6歳となっている。 清兵衛は割と常の字が好きと見えて、
複数に名前を付けている。 屋敷に関しては、明治から記述がなくなった。
固定資産として別に扱うようになったからではないか。
明治3年 通夫祖母となるダイ誕生。 さらに明くる年には酒造りに免許制が導
入される。 それ以前にも組合的な組織はあったようだが、この年から公式に免
許となったようだ。
明治7年9月22日、長男安太良改め安平23歳・トミ24歳 婚姻。 トミは安平の妹
のシゲが嫁いだ先の中山惣十郎の妹で、別名アイとも言う。 同年の9月に戸主
として徴兵免役簿が出たので、際どい結婚だったのかもしれない。
2年後の明治9年には長男 才二郎 誕生、のちの2代目安平になる。
その間、明治8年には、免許料が2倍となり、明治11年には酒造税が課せられて、
酒造りはだんだんやりにくくなっていく。
明治13年に次男竹五郎、明治15年には次女クニ誕生、明治17年には三女マサ誕生。
同年の記録からは、とうとう酒造・小売から名前が消えてしまう。小売は 山本
新田のみになってしまう。
明治22年、観月院清兵衛は隠居して、名前を酒店清兵衛譲り、自分は清平を名乗
る。翌明治23年、安平に家督相続を行う。 長男と次男を痛み分けにした様子が
伺える。
相続の3年後明治26年、それを待っていたかのように、清平没、71歳。 しかも同
じ年に為衛門63歳、重威31歳が死去してしまう。 一説ではチフスが流行ったか
らとも言われている。 3人同時期は前代未聞。 明治26年の大阪では赤痢が大
流行したので、これが死因かも知れない。
明くる年の明治27年には、法蔵寺に田畑を売ったお金を寄進して、墓地の永代供
養を得て、清兵衛の墓を建てる。 80坪ほどの高安付近の田地で20坪ほどの墓地
を得た。 その後、観月院清兵衛の左隣には、酒店清兵衛の墓が、右には初代安
平の墓が建立された。
若いころには苦労を重ねた里やうは、明治40年9月15日 その波乱の生涯を閉じる。
77歳の喜寿だが81歳との説もある。
以上

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