【回顧録】 里やう物語
2021年2月15日 9:53:28 作成
里やう物語
【嘉永5年2月 家数人別帳】
古文書講座で配布されたテキストの嘉永5年の宗門帳(家数人別帳)を見て、わが目を疑った。 そこには「清兵衛」と明確に書かれていた。 古文書
講座に参加して間もない頃だったが、それはしっかり読めた。
宗門帳と言うのは宗派別に書かれていて、当家の宗派は当時から大念仏であったので大念仏の信者に属する戸籍が書かれていた。 現在の戸籍謄本
に相当する。 当時は大念仏の信者は少なかったので、清兵衛もトップにあって見つけやすかった。 宗門帳は、現在でいう固定資産台帳
の役割も果たしていて、屋敷の大きさや家屋の大きさが書かれていて、これで年貢と言う所得税+固定資産税が決まっていく。
宗門帳の記載は、これを書いた庄屋の傳助がトップで、その後に清兵衛、他にも数世帯と、今ではなくなったお寺の境内の記述もあった。 清兵
衛は良く分かったが、「里やう」がわからなかったので、後で調べてみると、過去帳に「リウ」という名前で載っていた。 要するに坂本竜馬で有名な「おりょう」さんと同じ名前
だった。 過去帳の80歳前後の「リウ」と20歳の「里やう」とでは、同じ名前だが印象が全く違う。 これで俄然興味が湧いてきた。
書いたのは、北隣の庄屋久保田伝助、推定42歳で、油の乗り切った時に書いた。 隣家の若い嫁に好印象を持っていたことは間違いなく、清兵衛
の字に比べて、力の入った文字で書いている。 正本は代官所に出しているので、久保田家に残っている宗門帳は、控えであるが、達筆でキチン
と書かれている。 この後は文久4年1864年と明治2年1869年の宗門帳が残されているが、後の宗門帳では、あっさりと「リウ」と記されている。 伝助か子供の伝二
が書いたと思われる。
配布されたテキストは、今では差別を助長するとか言って公開は考えられないので、なかなか見ることは出来ないが、当時の宗門帳という現在の戸
籍簿に相当するもので、我が家の北隣の久保田傳助が庄屋の時に書いたもの。 当時の庄屋は現在の市役所の役割を担っていた非常に重要な役割で、
だいたい毎年年明けに、その宗門帳を書いて代官所に届け出るということになっていたらしい。
一般に、庄屋にはお触書などが回覧形式で届けられる。 現在と同じように、回覧先と回覧が終わった後の処理、保管先とか、代官所に戻すとかが
指定されていることがある。 回覧途中では、今ではコピー機でコピーを取れば良いが、当時は手書きで書き写す。 控えなので、あまり丁寧ではな
くて、殴り書きが多く、間違いも多い。 正本と比べる研究もある。 久保田家は総じてまじめな家系なので、控えもキチンと書かれている。 そ
のため初級の古文書テキストとしては適している。
庄屋の久保田伝助は八幡神社の灯篭を寄進した伝兵衛の孫。 伝助の子は伝二、貴族議員で顕彰碑のある真吾、村に凱旋した美瑛、現在の当
主はその孫にあたる。 久保田家は伝兵衛の時代くらいに、神立の辺りから移動してきたらしい。 当主から聞いたことがある。 その為か、神立
の玉親神社には、伝兵衛寄進の狛犬や、玉垣が残っている。
万願寺村は比較的大きな村で、有力者も居たので、庄屋は久保田と森田が交互に担当していたらしい。 森田家は、住吉神社西側の広大な敷地だっ
たらしいが、だんだんと分割されて、最後に土蔵が残っていたが、最近取り壊されてしまって、森田家の痕跡はなくなってしまった。 総じて、
久保田家はまじめな家系で、土木工事とかが得意だった。 近代になって玉串川に並行して鉄道を建設するプロジェクトが複数あったらしいが、こ
の一つにも発起人を務めている。 中高橋のところの 顕彰碑は、水害に悩まされていた水路を付け替えたことに対する顕彰で、増田安平も発起人に名を連ねている。
一方の森田氏は豪放な性格だったらしく、古文書も残っていない。 玉親神社に寄進が残る。
乳幼児の死亡率は当時は極めて高かったので、生まれた年の次の年の正月を過ぎたころに宗門帳が書かれるので数え歳2歳になる。 このせいか、
記録と年齢が1‐2歳違うのが散見される。 以下の記述でも年齢が合わないことがある。
また清兵衛は代々同じ名前を継承しているので、ややこしいので、酒造り屋を始めた観月院清兵衛、その父親は池島清兵衛、観月院清兵衛の次男は酒店清兵衛と
呼ぶことにする。
文化5年1808年ごろから、現在のご回在が始まる。 この頃から本格的に大念仏が復活してきた。 文化13年1816年には、傳助の父傳兵衛が八幡神社に、灯篭
を寄進。 宗教に対して配慮する余裕が出てきたと思われる。
【池島清兵衛】
里やうの誕生に遡る40年前、増田家の一人娘で、里やうの姑となる池島清兵衛の妻が誕生。 増田家の父22歳、母19歳。
増田家に婿入りする池島清兵衛は、妻の誕生から10年後、寛政12年 1801年に池島小川家に次男として生まれる。 小川家の 父32歳、母29
歳。
しかし、増田家の一人娘の妻は壮絶な跡継ぎ活動ともいうべき数の妊娠出産で天保10年に50歳で死去。 池島清兵衛は、この後里やうが嫁いで来る
まで、10年ほど男ヤモメで過ごすことになる。
池島清兵衛は池島の小川という家から婿養子で来たことになっているので、池島の現地を見に行った。 池島神社の前に大きな小川という家が複数あっ
たので、ここから婿入りしたものと思う。 一度訪問して話を聞けば良いと思うのだが、なかなか決心が湧かない。
明治時代に納税のランキングを書いた文書を見つけたが、この中で万願寺増田と池島小川というのが同じレベルの納税額だったので、家柄が似ているところから婿取りした
んであろうと思われる。 戒名もガチガチと本融義誓禅定門とかになっていて、何とか増田家を再建しようという意思が感じられる。
【池島清兵衛婚姻と妻死去】
文政5年に2人は結婚した。 10歳も年上の姉さん女房。 池島清兵衛23歳、妻33歳。 前年には婿入り先の増田家の母親がこれも50歳で死去。 池島
清兵衛の婿入りもこれと関連があるのかもしれない。 さらに婚姻の3年後には、父親も死去してしまう。
結婚翌年の文政6年には長男観月院清兵衛が誕生。 幼名は常右衛門と言う。 ここから跡継ぎ脅迫症のようにになった妻は、次々と子供を産む。 乳幼児死亡率の極めて高い時代で、生んでは亡くすと言うことを繰り返す。
文政7年に生まれたと思われる娘が3歳で没。 文政11年には、長女が誕生するが、のち天保11年13歳で亡くなる。 文政12年には、男の子が生まれてすぐ亡くなる。 さらに翌天保元年には、双子と思われる男の子が同日に亡くなる。 このあたりは、観月院清兵衛の兄弟であるためか
、清兵衛がまとめた過去帳には他家に嫁いだものの記載はあまりないが、幼児の死去はそれぞれ戒名がキチンと書かれている。
里やうが山野家で生まれたのは、この一連の騒動の中の天保2年である。 同じ年には次男為衛門が誕生、増田由松の祖父となる。
天保6年には、最後の子供らしい名前の三女登女(トメ、トミ)が誕生する。 池島清兵衛36歳、妻 46歳。 当時としては超高齢出産だった。 養女だったかもしれない。
登女は、時期は不明だが、小山村に嫁ぐ。
小山村は藤井寺津堂なので、増田家は前から津堂とは関係が深かったようだ。 その関連で、父親鼎の弟は津堂の藤井家養子になったのかも知れない。
登女は、その後文久3年1863年に弱冠29歳で死去してしまう。
天保10年には、次女の娘が死去、誕生は天保4年前後かと思われる。 推定6歳。
これだけの子供を生んだ池島清兵衛の妻は、天保10年4月15日に50歳で死去してしまう。 分かっているだけで9人も生んだ。 観月院清兵衛 多感な17歳。その翌
年には、文政11年生まれ、少し長生きした推定13歳と思われる娘も後を追うように天保11年に死去してしまう。
9人も生んで、結局生き残ったのは、観月院清兵衛、為右衛門、登女の3人だけだった。
【里やう誕生と観月院清兵衛婚姻】
天保2年1831年に里やうが衣摺の 山野惣右衛門次女として生まれ、20歳まで衣摺で育つ。 この時代から姓を名乗れるのは余程レベルの高い家柄
と思われるがどのような家柄か未調査。 後で付けたのかもしれない。
観月院清兵衛は、嘉永3年5月15日に里やうと結婚。 清兵衛28歳、里やう20歳。 翌年には長男安太良が生まれる。 明治の徴兵の資料に2月2日生
まれとなっている。 後の初代安平となる。 安平が成人となる明治期には、長男は兵役免除となっていたらしくて、その資料が八尾市史に残っていた。 また嘉永3年は飢饉の年だが、そのような影響は見られない。
この翌年にテキストの嘉永5年宗門帳(家数人別長)が書かれたので、その時の増田家の状態が良くわかる。 家族は、
戸主で男やもめの池島清兵衛53歳、
観月院清兵衛となる常右衛門30歳
妻の里やう20歳
孫の安太良2歳
弟の為右衛門22歳も同居。
この男4人と女1人が、2.5間x6.5間の居宅に住んでいたことになり、里やうも、子育てと家事で大変だったと思う。 当時の間取りは土間が半分を占めるので、7
畳半が2間しかない。 土蔵が2間x3間と大きいので、こちらでも寝起きしたのかもしれない。 当時は身分によって、家屋の建て方は決まってい
て、7畳半は、百姓の居宅の部屋としては割と一般的であったらしい。
為衛門は、こののち結婚して分家する。 現在の自宅を建てた大工だった由松の祖父となる。
【嘉永の税制】
当時の税制は全て石高で課税され、田や畑は検地の際に、田などは上々田、上田、中田、下田などという風に評価が決まっていて、それごとに課税割合が決まって
いた。 屋敷地や固定資産も評価されて石高換算で合算される。
嘉永5年宗門帳に書かれている庄屋の屋敷面積は狭くて、家屋を配置していくとほとんど目いっぱいになってしまって、これは年貢を少なくするために意図的に屋敷面積を狭くしてあるのか、各
種の控除が効いたあとなのか、いずれにしても田地の石高が実際の収穫量とは異なるように、屋敷地も実際の面積とは異なるようだ。
反面家屋は、見ただけで桁行と軒行きは分かるので、実際の大きさだと思われる。 従って、当時の屋敷地の面積は過小評価と言うか、減少評価後の面積と認識しないと
間違えることになる。
現在の所得税申告所得と固定資産税に相当する石高は庄屋の伝助が15石余りの所、清兵衛は2石余り。 現在価値は、幕末の頃はインフレであったので、10万円/石とすると
伝助150万円余り、清兵衛20万円余りと課税所得としては極めて少ない。 他はほとんどが無高と言う、課税所得はゼロであった。 一般に江戸時代は年貢が厳しかったと言う印象があるが、あれは明治政府が江戸
幕府を過小評価するための印象操作だと思う。 実際はそんなに重くなかった。 しかし他に、いろいろな臨時の出費や堤防工事の手伝いなどをしないといけないので、負担は年貢だけではなかった。
しかし現代では社会保険料を含めた負担率は40%以上になっており、江戸時代の租税負担率と遜色ない。
清兵衛は嘉永5年の小堀勝太郎に宛てた五人組の改め帳にも組頭として登場する。 それなりの地位を築いていたようだ。
一方、伊登と言う独り身46歳は、55石余と言う庄屋の3倍以上の石高がある。 余程の田地を相続して所有していたのか。 五人組には出てこない。
万願寺村全体では約700石の石高で、中から大サイズの村だったことがわかる。 しかし庄屋で15石しかないのに、村全体でどうして700石になるのか不明。
ちなみに八幡神社は、ずっと以前の太閤検地の際にも、これは神社であるので非課税とする旨の記録が残っている。 太閤検地というのはほとんど以前の室町
幕府が決めた土地の評価をあまり変えていなかったので、おそらくもっと以前の室町幕府の時代から神社は存在していて非課税扱いを受けていたものと思われる。
【観月院清兵衛子育て】
宗門帳が書かれた翌嘉永6年には長女シゲが誕生し、喜びもつかの間の翌年安政元年に安政南海東海大地震が起きる。 その後の記録を見ても、家屋に変化は無
いので、意外に被害は少なかったのかもしれない。 記録によると堤防が崩れたりと、大きな被害があったようだ。 家屋の変化は、年貢の基礎資料なので、敢えて変化させていないのかもしれないが、大きな被害な
ら年貢の軽減を狙って、不動産評価を下げるのが一般的だったので、あまり被害がなかったとする方が妥当だろう。 またこの時期は人別帳に記載されいている土蔵で酒造りを行っていたと思われ、土蔵の大きさはも
う少し大きかったのではないかと思われる。 明治直前には、 梁行 四間 桁行八間 の 造家が存在している。
2年後の安政3年2月13日に父親の池島清兵衛が57歳で死去。 記録では55歳となっているが、当時の人別帳には2年ぐらい記載しない誤差があるので、そのた
めと思われる。 妻は体を酷使したのか約10年前に50歳ですでに死去。 当時、観月院清兵衛34歳、妻26歳。 若くして父を失った。
安政5年に次男の酒店清兵衛が誕生、幼名は菊松、のち常松に改名。 これも後の資料と年齢が2年合わない。
【常楽寺寄進】
父親は亡くなったし、次男も出来たので、ここで一息付いたのか、翌年の安政6年に常楽寺へ羅漢を寄進している。 37歳、意気軒高だったことが感じられ
る。 酒造りが成功して、財産もそれなりにあったことがうかがわれる。 五百羅漢は連作になっていて、第9羅漢を寄進。 常楽寺の本堂須弥壇の左手に棚があって、そこに並んでいる。 以前に父
親と一緒に見に行ったが、写真がなかったし、歴史資料間ののメンバーと押しかけたが、手持ちがなくて、お布施もなにも置かなかったので、改めて訪問して、見せても
らった。 他にも逗子の扉の裏とか、曼荼羅の軸とかに清兵衛の名前があるかと思ったが、ここは全て久保田氏の寄進だった。
【清兵衛の酒造り】
観月院清兵衛が、造り酒屋を始めたのは、いつなのか不明だが、増田通夫さんによると、免許制になったころだと思うが、権利を買うために、銭を天秤棒で担い
で持って行ったと言うことだ。 隣の久保田の屋号が酒屋と言うのも関係があるのかもしれない。 いずれにしても、嘉永5年の時期において、それなりの財産があったはずなので、この前後から酒造りを始めたと思
われる。 ピークは明治5年頃で、下火になった明治8年は96石で624円、インフレを考慮して、2万円/明治の円とすると、清酒だけで1200万円余り。
八尾市史に記載されている記録には以下のようになっている。 少なくとも明治2年には140石の免許を持っていたことなる。 ちなみに、河内の酒造りを仕切っ
ていたのは、富田林の酒造大行司 佐渡屋 徳兵衛 だった。 用木さんの近くに仲村家と言う庄屋の古民家があって、ここに古文書が残っていて、その記録であ
る。 特に明治3年の記録は造り桶や造屋の大きさまで詳しくかかれている。 庄屋の伝助も名前を連ねている。
河内国酒造株高書上帳
明治二年巳九月
河州石川郡富田林村
酒造大行司
佐渡屋 徳兵衛
明治二巳十一月廿七日切替
同 十二月七日御聞済
河州高安郡万願寺
酒造株高百四拾石 清兵衛
ほかに
高安郡大窪 庄蔵
若江郡木戸村 熊次郎
大県郡平野村 重治郎
明治三年午六月
酒造株高並ニ造桶造家書上帳
河州石川郡富田林村
酒造大行司
佐渡屋 徳兵衛
酒造渡世
一、 酒造高 百四拾石
一、 造桶 口径七尺五寸
敷径六尺五寸
深六尺五寸 七本
此造 百四拾石 但壱本ニ付弐拾石
一、 造家 梁行 四間
桁行八間 壱ヶ所
明治三年六月
清兵衛、伝助、徳兵衛
明治七年の頃、富田林仲村家文書に140石とある
木戸村の熊次郎(500石)
大窪村の庄蔵(140石)
万願寺の清兵衛(140石)
八尾東本町 木戸村278石
明治七年九月 万願寺村一村限調帳
酒 百四拾石 年中出高
造酒税 金三拾円九拾九銭二厘五毛
明治八年万願寺村物産取調書
清酒中 九拾六石 金六百廿四円
清酒粕 四百八拾貫目 金参拾壱円廿銭
明治九年万願寺村物産取調書
清酒 八拾五石 金四百四拾弐円
清酒粕 六百貫目 金参拾六円
婚姻前の嘉永元年(1848年)ころから酒造りを始めていたとすると、免許通り140石を造っていたが、明治4年に、免許制が導入(改定?)され、明治8年には免許料
が2倍になる。 さらに明治11年には酒造り税になって、増税が一気に進む。 明治政府には資金がなく、当時の最大の徴税元は酒税だったので、それを手っ取り
早く増やした。 おかげで全国の造り酒屋は10分の1に激減したと言われている。 その中で清兵衛も酒造りを止めてしまったようだ。
万願寺には酒屋は清兵衛しかなかったので、物産取調書の数字は清兵衛のものである。 明治7年 140石、明治8年 96石、明治9年 85石 と年々生産量は下がって
いく。 明治13年(1880年)の記録からは酒造り小売りから名前が消える。 山本新田のみとなる。 創業嘉永元年とすると、30年余りの酒造りだった。
弟の為右衛門は、嘉永5年の人別帳のあと分家したのか、記載はされなくなっている。
【清兵衛人生後半】
文久2年、里やう32歳で次女ベン(婦さ)誕生。 翌文久3年には小山村に嫁いだ清兵衛妹登女(トミ)が死去。
文久4年?(元治元年)の人別帳には、
清兵衛42歳、
リウ34歳、
安太良14歳、
シゲ12歳、
菊松5歳、
婦さ2歳、
法松2歳
が記載されている。 屋敷の記載は嘉永5年と同じだった。
安太良はこの後分家するが理由は不明。 跡継ぎ問題が出てきたのかと思うが、安太良は14歳、次男は5歳で、問題が表面化するのは早すぎると思う。 法松は、
例の如く誕生日が合わないが、没年はあうので、通夫祖父の重威と思われる。
婦さは次女ベンのことで、三男法松は年子。 三女カジは、慶応2年生まれと思われるが、生まれてすぐに道明寺田中茂平養女となる。 従って宗門帳には記載されていない。 古文書には、このほかに人別送状と
言うものもあって、他所へ移籍して、元の人別帳から外れる時は、相手側の同じ宗派に連絡するのが通常なので、もし送状が出てきたら、他の村とのやり取りがハッキリする。 しかし、カジのように生まれてすぐに
出すのは含まれないかも知れない。 池島清兵衛や里やうの場合はキチンと送状があったはずである。
【観月院清兵衛本宅を建てる】
明治目前の慶応2年には三女カジが誕生、同じ年に居宅の棟上げを6月5日に挙行。 これは現在の自宅の前の居宅であろうと思う。 自宅をリフォームしたときに棟札が出
てきた。 清兵衛43歳。
文久4年(元治元年、1864年)の人別帳では、屋敷や居宅の記述に変化は無いが、課税元になる文書なので、実態と同じとは限らない。 酒造りは嘉永5年
の人別帳の土蔵2間x3間で、始めて明治直前に 梁行 四間 桁行八間 の造屋を建てたと思う。 元の土蔵では140石を作るのは少し無理がある。
一方、酒店清兵衛の居宅を再現して、明治3年記載のの造桶を並べるとちょうどピッタリにはいるので、この時点では、ここで酒造りをしていたことは間
違いないと思う。
元々酒店のところで、生活をして酒も造っていたが、資産も溜まった慶応3年に新たに土地を取得して、居宅を建てて、そちらに移る。 酒店は次
男酒店清兵衛が継いで、造屋を建て直す。 新しい居宅は、長男安平に継がせる。 と言うことではなかったか。
現在の自宅が、村の外れにあること、一時は新宅と呼ばれていたこともあると思うので、元々酒店清兵衛の居宅から分かれて、現在の屋敷地で自宅を新築
したのだと思う。 元の造屋は、住宅に改装して住み続けたのではないかと思われる。 観月院清兵衛が隠居したのは明治22年であるから、こ
の時点では、酒造りは止めていたはずで、造屋は不要になっていたはずである。
【酒店清兵衛の居宅と造屋】
造屋を改装したと思われる酒店清兵衛の居宅兼酒屋は、子供のころに酒を買いに行かされたが、通りに面したところから入って、広い通り庭とその左に広々とした式台があって、その奥は田の字の部屋になっ
ていたらしい。 井戸も2つあって、酒造りにはピッタリだった。 その後に屋敷を買い取って立て直した大東氏に聞き取りをして、元の居宅の間取りを教えてもらった。 売買の仲介は川中氏だったそうな。
村の中は、複数の水脈があって、現在の自宅から八幡神社にかけて大きな水脈があったらしい。 八幡神社の奥は池になっていたとのことで、名残りの
井戸があったが、この井戸は、池を埋めたときの名残りで、末広がりになっていて、先日埋め立てたときには、見積もりより何倍もの大量の土砂
が必要になった。 自宅にも水が良く出る井戸があり、向かいの家にも建て替えたときに井戸が出てきた。 自宅と八幡神社の間に酒店清兵衛の
井戸がある。
その東にも共同の井戸場があって、おばちゃんが洗い物をしながら喋っていたのを思い出す。 自宅から西の方にも、村の財産区に井戸が残っている。 先日覗いてみたら、地表近くまで水があった。
明治2年の人別帳には、
清兵衛47歳、
リウ39歳、
安太良19歳、
シゲ17歳、
常松10歳
婦さ7歳
法松6歳 となっている。
清兵衛は割と常の字が好きと見えて、複数の名前に常を当てている。
屋敷に関しては、明治から記述がなくなった。 固定資産として別に扱うようになったからではないか。
【清兵衛、長男婚姻】
明治2年、清兵衛は過去帳の整理をする。 以前の過去帳を保存してほしかったが、現存しない。 抜けている世代も多く、元の旦那寺の常楽寺の
過去帳を参照して、万ノ清兵衛由来の記にまとめてある。 恐らく、新宅の落成記念を明治維新を挟んで、遅ればせなら開催して、そのための会席膳などの什器を整えたのではないか。
長男の結婚を目指したものにしては、少し時期が早すぎる。 大きな燭台が2つ残っているが、これは安太良の結婚式の時に使われたと思う。 金屏風も残っている。
分家した酒店清兵衛が、文書を含めて重要なものを持ちだしたと思われるので、現在残っているのは、安平所縁のものだと思う。
明治3年 通夫祖母となるダイ誕生。 さらに明くる年には酒造りに免許制が導入される。 それ以前にも組合的な組織はあったようだが、この年
から公式に免許となったようだ。
明治7年9月22日、長男安太良改め安平23歳・トミ24歳 婚姻。 トミは安平の妹のシゲが嫁いだ先の中山惣十郎の妹で、別名アイとも言う。 同年の9月に戸主
として徴兵免役簿が出たので、際どい結婚だったのかもしれない。 父親清兵衛51歳、母親里やう43歳。
2年後の明治9年には長男 才二郎 誕生、のちの2代目安平になる。 その後、やっと生まれた女の子 ツキも明治12年3歳で死亡。 中山カメに入り婿した次男竹五郎が明治13年に生まれ、 乳幼児期で死去した三男 蓉
讃童子、 離縁された次女 クニが明治15年生まれ、村井家に嫁いだ三女 マサ明治17年生まれと続く。 孫がどんどん生まれて、里やうも忙しかった。
長女シゲは、衣摺中山惣十郎に嫁す。 安平婚姻前なので、推定明治5年ごろ20歳。 昭和11年3月20日没 1936年 87歳の長寿を全う。
次女 ベンは、これも衣摺の中山万次郎に嫁す。 昭和11年1月25日没 1936年 74歳。
三女 カジは
慶応2年11月15日 1866 出生、同時に道明寺田中茂平養女となる
明治7年2月10日 1874 8歳 カジ養母死亡
明治24年8月22日 1891 25歳 縁組解消
明治24年8月22日 1891 25歳 道明寺松尾源三郎と婚姻
明治33年1月4日 1900 34歳 カジ養父茂平死亡
大正14年1月22日 1925 59歳 カジ 午前11時死亡
明治11年に、明治5年生まれの芳蔵を養子としてもらっている。 明治になると戸籍がハッキリしてきて、情報も多い。
明治5年3月12日 1872 出生
明治11年5月7日 1878 6歳 万願寺安平養子
明治18年1月31日 1885 13歳 養子離縁(8年→18年の間違い?)
明治24年9月4日 1891 19歳 阿波堀裏町へ分家
明治29年1月3日 1896 24歳 死亡 行年29歳?
その間、明治8年には、免許料が2倍となり、明治11年には酒造税が課せられて、 酒造りはだんだんやりにくくなっていく。 明治15年の記録からは、とうとう酒造・小売から名前が消えてしまって、小売は 山本
新田のみになってしまう。 従って、酒店清兵衛の酒店開業はこの後と言うことになる。
【清兵衛隠居と死去】
明治22年、観月院清兵衛は隠居して、名前を酒店清兵衛譲り、自分は清平を名乗る。翌明治23年、安平に家督相続を行う。 長男と次男を痛み分けにした様子が
伺える。 清兵衛67歳、古希目前、里やう60歳還暦。
三男重威は、明治24年9月15日1891年に大阪農人橋の増田伊助のところに入婿し、長女のダイ(変体かなの「だ」を使う)(明治3年2月6日
1870生)と婚姻、時に重威25歳、ダイ21歳。翌明治25年1月25日1892年に生まれた長女シズ(田鶴、東平野町にて出生)は次の代に分
家をした茂三郎の妻となる。 しかし、重威は明治26年10月6日1893年午前1時行年33歳(生年月日からは二七歳)で父の後を追うように早世し
てしまう。
相続の3年後明治26年、隠居を待っていたかのように、清平没、71歳。 觀月院真覺良如禅定門。 しかも同じ年に為衛門63歳、重威31歳が死去
してしまう。 一説ではチフスが流行ったからとも言われている。 3人同時期は前代未聞。 明治26年の大阪では赤痢が大流行したので、これが死因かも知れない。
ダイは、重威の死後5年ほど増田の本宅に身を寄せていたらしいので、子供のシズも一緒だったはずで、タカと一緒に明治41年に撮った写真があ
るので、その頃までは、シズも本宅に居た。 ダイは増田泰三の養母となり、明治34年2月23日1901年増田泰三方へ入嫁している。 都合8年ほ
ど居たことになる。
明くる年には、法蔵寺の墓地は約15坪で、明治27年にこれを2畝22歩(82坪)の畑地を売却してその代金で永代使用権を得て、清兵衛の墓を建てた。
息子連名の契約書が残る。 その後、観月院清兵衛の左隣には、 酒店清兵衛の墓が、右には初代安平の墓が建立された。
安平長男才次郎は動員令を受け歩兵第八連隊第四中隊として日露戦争に参戦 明治37年3月6日 1903年 右手に負傷、入院。 血気盛んな29歳。
安平次女クニは前年の明治39年12月10日1906年 弓削吉内定太郎長男葭三郎と婚姻するが、4年後には協議離婚して、本宅に戻ってくる。
安平三女マサも競うように同年12月25日1906年 亀井村井栄吉弟、父和五郎四男万蔵と婚姻。 52歳で天寿を全うする。
里やうの死ぬ直前に孫、安平長男才二郎がタカと明治40年6月4日1907年結婚。 才二郎は 明治9年3月19日1876年に出生。 後に安平と名乗るが、
明治20年1月1日1887年に道明寺遠藤平治良三女として生まれたタカと明治40年6月4日1907年結婚。 タカとシズは仲が良かったらしい。 5つ違い。
【里やうの最後】
若いころには苦労を重ね、3人の男の子と3人の女の子を産んで、1人の養子を育て上げた里やうは、日露戦争も乗り越え、孫の3回の結婚を見届け
て、安心したのか直後の明治40年9月15日 午後10時 多くの子と新嫁や孫に囲まれて、その波乱の生涯を閉じる。 真応妙覚禅定尼。 墓石を建てた
後に、乗正院の院号がおくられた。 77歳の喜寿だが81歳との説もある。 幸運なことに、先代とは異なり、乳幼児の死亡は無く、全員生き残っ
た。
家を継いだ長男安平 56歳、トミ(アイ) 57歳
分家した次男清兵衛 49歳
衣摺中山惣十郎に嫁した 長女シゲ 56歳
衣摺中山万次郎に嫁した 次女ベン 45歳
養女のうえ道明寺松尾源三郎と婚姻した 三女カジ 41歳
安平次男竹五郎 27歳、9年前衣摺中山カメに入り婿した。
安平の長男才次郎31歳、結婚したばかりのタカ20歳。
翌年の明治41年8月25日に長男安男が誕生。 少しのところでひ孫には会えなかった。
安平四男茂三郎 16歳
安平次女で弓削吉内定太郎長男葭三郎と婚姻、後に協議離婚するクニは25歳。 こののち29歳で死去してしまう。
14年前に27歳で清平、為衛門と同時に死去した三男重威、妻のダイは養母に出るが、子のシズは同居していた。
25年前に生まれた長女ツキも3歳で死去
20年前に生まれた安平の三男 蓉讃童子は生まれてすぐに死亡。
全員が同居していたわけでもないが、平屋のあの狭いところに良く住んでいたものだと思う。
【里やうの子供のその後】
次男 酒店清兵衛
次男は「清兵衛」の名前をもらって同村で酒屋として分家。 増田悦三の父。 昭和3年10月5日(1928)行年70歳で死去。 記録をいろいろ調べていくうち
に、どうも清平は清兵衛に家督を譲ろうとした形跡がある。 安平より出来が良かったようだ。 現に代々の当主の名前である伝統の「清兵衛」を継がせている
し、安平は13歳のとき元治元年10月5日(1864)に分家させられている。 明治27年に観月院清兵衛を葬った法蔵寺の墓地の永代使用契約も2人が併記で署名している。
里やうが死んだ明治40年5月には、現在も残る久保田真吾顕彰碑の除幕式があり、それを祝して久保田屋敷を解放した、一大イベントが行われた。 その時の料理は山徳、酒
は増田酒店から仕入れたと記録にある。 明治15年には酒造り、小売りから名前が消えてしまったが、この時点では酒屋をやっていたことになる。
また、酒店清兵衛が大正15年3月に20円で寄進した石灯篭が玉祖神社に残っている。
当家の酒蔵の2階部分を移築したと言う漆喰塗りの土蔵が居宅にむかって右側の通りに並んで建っていた。 その後酒屋を閉めて奈良のほうへ転宅してしまった
ので、後地は大東と言う人が川中さんの仲介で入手し、現在はその居宅が建っている。 子供の頃は使いで酒を買いに行ったものである。
酒屋と清兵衛を引き継いだので、本家はこちらと言う悶着が持ち上がって、 法蔵寺の墓地が問題になったそうだ。 清兵衛の子孫が母親(寿子)が死んだとき
も調査にきたとの事。 元は観月院の左側に清兵衛の墓があったが昭和40年ごろに移設した。 安平の墓石の右側には、分家した重威の子孫の墓石もあったが、これも下の
法蔵寺境内に移設した。
三男 重威
三男重威は、明治二四年9月15日(1891)に大阪農人橋の増田伊助のところに入婿し、長女のダイ(変体かなの「だ」を使う)(明治3年2月6日1870生)と婚
姻、時に重威25歳、ダイ21歳。 翌明治二五年1月25日(1892)に生まれた長女シズ(田鶴、東平野町にて出生)は次の代に分家をした茂三郎の妻となる。
つまり従兄弟同士で結婚したことになる。 記録によると重威は明治21年4月25日(1888)22歳で万願寺村上キサ養子離縁をしているが、当時は養子縁組をし
たり、離縁したりと言うのはかなり頻繁に行われていたらしい。
伊助は増田の縁続きかと思われるが、その確証はない。 重威は明治26年10月6日(1893)年 午前1時 行年32歳(生年月日からは27歳)で父の後を追うように
2ヵ月後に早世してしまう。
重威は父清平の死後2週間後に榛原まで行った時に体調を崩して、そのまま病死したとも言われている(通夫氏談)。 この年は、7月に為右エ門、8月に清平、
10月に重威と連続して亡くなったことになる。
茂三郎は増田通夫の父親である。 筆者も小さい頃は近くでもあるし、良く遊びに行った事を覚えている。 家の奥には大きな土蔵があって、入るのにためらい
があったような気がする。
ダイは、重威の死後5年ほど増田の本宅に身を寄せていたらしいが、その後増田泰三の養母となり、明治34年2月23日(1901)増田泰三方へ入嫁している。
四男 芳蔵
四男 芳蔵 は明治五年3月12日(1872)生れで、明治11年5月7日(1878)6歳のときに養子となる。 明治18年1月31日(1885)に養子離縁とし、明治24
年9月4日(1891)に阿波堀裏町へ分家したが、明治29年1月3日(1896)29歳(生年月日からは24歳)で死去。
長女 シゲ
長女 シゲ は母親(里やう、リウ、山野惣右ェ門の次女)の兄弟(山野惣右ェ門の長男)(の子供か?) である中山惣十郎へ嫁す。 この辺りから衣摺中山家との関係が深くなって行き、
親子、兄弟の関係がしだいに複雑になっていく。 昭和11年3月20日(1936)シゲ死去、行年87歳。
次女 ベン (婦さ)
次女 ベン はこれまた衣摺の中山万次郎へ嫁す。 昭和11年1月25日(1936)ベン死去、行年74歳。 中山家は大きな薬屋で、父親の葬儀の時に2人ほどで
お参りに来ていただいた。 その後は年賀状のやり取りをしている。
三女 カジ
三女 カジ は明治24年8月22日(1891)25歳で道明寺松尾源三郎と婚姻。 カジは養女に出されていたらしくて、同年同日道明寺田中茂平養女を離縁。 明治
7年2月10日(1874)カジ養母死亡、明治33年1月4日(1900)にはカジ養父茂平死亡。 カジは大正14年1月22日(1925)午前11時死亡、行年59歳。
以上

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