【回顧録】 祖父安平
2018年1月15日 18:09:48 作成
謎の人は祖父の安平。 他の人からは「あんぺい」さんと呼ばれていて、大きく
なってからも「あんぺいさんの孫かいな」と言われたことがあってビックリ。
どうも仏のあんぺいだったよう。 酒屋の清兵衛とは性格が全く反対だったよ
うに見える。 声は聞いたことが無い。
現在のリビングは元々土間で、椅子の置いてあるところに3連のかまどがあった。
その奥は、風呂の焚き口があったので、煙突を共用していたのかも知れない。
その北に流しがあって、土間の周りには狭い式台がずっと巡らされていて、その
北側の現在の台所に食堂があった。 そこに桜の一枚板の大きなテーブルがあっ
て、そこで食事をしていた。 東西に置いてあり、東の端には祖父が座っていた。
そこからは当時は東の方が開けていて、祖父は毎朝柏手を打つのが週間になって
いた。
当時はもの凄く大きなテーブルだと思っていたが、良く見るとそんなに大きくな
くて、良くこんなので、一家6人が食事をしていたとビックリする。
東が見える所は、この建物の鬼門に当たるためなのか、一段下がっていて、そこ
に小さな欄干を作ってあった。 この辺をリフォームするときに、これも壊して
部屋を広げてしまった。 少し罪悪感がある。
ここの東塀には、窓がついていて、そこから当時は広場であった久保田屋敷の前
が見えた。 ここに時々紙芝居がやってきたので、塀から覗いていると、その内
に見えない角度で演じるようになってしまった。
また、この場所は太鼓の休憩所になっていて、ここで太鼓を叩いていた。 昭和
25年の写真が残っている。 ここには安平、悦三、久保田が顔をそろえている。
中之町・御領のメンバーが顔をそろえている。
安平は、日露戦争に出征して、まもなく右手を負傷して軍の病院に入院する。
この時の写真が残っていて、ロシア人と覚しき人々と一緒に写っている。 写真
では右手を隠している。
当時は、出征した人間に非常に手厚かった様子がうかがえる。 大きな作戦では、
ちゃんと記録を残して、印刷製本して配布している。 太平洋戦争とは大きな違
いがある。
安平は、保険業を初めて、これで成功する。 南のはす向かいの岩本の先代は、
保険の払い戻して少し配慮したとのことで、増田の家には足を向けて寝れないと
言っていたと、南の和子さんに聞いたことがある。
どっちにしても、悪い話は聞いたことがないので、本当に仏のあんぺいだったよ
うだ。 しかし、これだけの歴史のある家なので古文書がどっかに残っているは
ずと思うが、何処にもない。 リフォームをしたときに、土蔵もほとんどをひっ
くり返してチェックしたが、大きな箱にはお札が入っていただけで、金庫の中も
結局は、墓地関連の書類が2ー3通あっただけ。
どうも初代清兵衛関連は、酒屋の清兵衛が持って行ったのではないかと思う。
さらに引っ越したときに恐らく捨てているので、現在は何も残っていないのは無
いかと残念に思っている。 いつか酒屋の子孫を探しだし、聞いてみようと思う
が、手がかりが無い。
祖父は、自分で建てた自宅の縁側で新聞や地図を読むのが日課になっていた様子
で、時々大黒さんの像の後ろに穴が空いているので、ここからタバコの煙を吹き
込むと大黒さんの口から煙が出ると言うのが面白くて、何回も見た印象がある。
ある時は、居間でコマを回そうとして、方向が違って、廊下側のガラスが割れて
しまった。 子供ながらビックリしたので、覚えている。
当時のトイレは玄関横は客用だが使っていて、土蔵の東北に元々のトイレがあっ
て、祖父や祖母はここを使っていた。 ある時に大きな音がして、ここで祖父が
倒れたとのことで、仏間に運ばれて、そのまま死去した。 脳溢血だと言う話だっ
た。 久宝寺の火葬場で火葬にした。

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