【回顧録】 試作センターの設立 その5 リタイヤ
2022年3月26日 16:39:20 作成
2008年は急に忙しくなって、売り上げは2億に達して、創業費を除くと累計で黒
字になった。 最初から売り上げゼロを覚悟していたので、これにはビックリし
た。 大きなテーマは自分と板野君でこなしたので、利益はそれなりに出た。
採用もハローワークでどんどん採って、どんどん辞めた。 3か月の試用とした
が、これは法的には厳密にはダメだそうな。 98年の年度が終わると、とうと
うリーマンショックがやってきて、その秋にはあまり案件がなくなった。 それ
でも他は半減と言うところが多かったが20%減ぐらいで収まった。 サラヤの大
型案件もあったので、そこそこで終われた。
サラヤは大きな案件で、1年以上かかった。 やってくれたプロテックもシンド
そうだった。 最後の緒性検査ツールまで作ったので、担当した木下電子はそれ
なりに参考になったはずだが、イマイチ下請け感覚から抜け出せなかったと思う。
それでも中国寧波に行ったりして、金型は中国で造って、なかなか面白かった。
辞める1年ぐらい前に治子のリンパ腫が発覚。 その時に社長になる話があって、
悩んだが、しょうがないので板野君に言って、主力を任せることにした。 その
後オムロンに戻ることになって、こちらも面倒になって、同時に辞めることにし
た。 2人同時と言うのは少し無理があるかと思ったが、その前に来た寒川さん
が実務ではしっかりしているし、システムで日常業務は動くので、思い切って辞
めた。 サラヤのプロジェクトは続いていたので、工場立ち合いなどは、木下
電子に行った。
その後1年は非常勤の役員で残った。 後任は島津の監査役で、もう一人の候補
は中小企業の役員だったので、こちらが良いと思ったが、みんな島津の名前にひ
かれて、監査役にした。 最初にASTEMで会って話をした時に、給料の話をす
るので、こりゃダメだと思った。 まず決算書を見て、説明を求めるのが、経
営として当たり前だと思っていた。
しかも当時の会長である服部さんが、給与を50万と決めていて、子会社扱いだっ
たのもビックリ。 役員報酬の上限に達してしまって、上限をあげる話になっ
て、ついでに何千万かにする話になった。 零細企業ばかりの株主総会で、そ
れを提案するのは如何と、流石に他の案件には賛成したが、これには反対した。
結局足りない分は、私の給与を引いて渡した。 まあ社宅相当の金額だったの
で、これから不要になるので良いかと思ったが、本人からは何の挨拶も無かった。
新しい社長は早速給与の昇給表を作って取締役会に出してくる。 若いころに人
事をやっていたらしいが、それから進歩していないことになる。 服部さんも
取締役会は法律で定められた決定を形式的にやる儀式だと思っているらしくて、
わずかしかいない役員を相手に、経営会議を開きたまえ、と言う。 バカバカし
いが、オムロンの部長クラスが何を言うかと言う感じで、上から目線となり、こ
れも不快で早期に辞める原因となる。
案の定、次の期は、ちょうど社長の給与分だけ赤字になり、その後は黒字になら
ずに、補助金に頼り、最後はペーパーカンパニーになってしまった。 数字にこ
だわるのなら社長の給与ぐらい経費否認すれば良いと思うが、そう言う覚悟も頭
もないと思う。
自分が辞めたときは、先斗町で芸者を揚げて送別会をしたが、だれも選別をくれ
なかった。 会社の金でやっていると思ったのかもしれないが、会社で飲み食い
は一切しなかった。 後任はどんどん使っていたようだ。
組合総会での会費とか、慶弔費もルールを作って厳密にやったが、後任はズルズ
ルだったと思う。 決定的に黒字に出来たはずだが、経費管理が甘すぎた。
辞めたときは清々した。 その後まもなく寒川さんも辞めてしまって、これはサ
スガに京都のがんこで送別会をした。
それまで社宅代わりに住んでいた市場のところのマンションを引き払って、その
まま鳥羽マンションに送った。 途中で八尾に寄って、買っておいた60インチの
TVを積んで、八尾で降ろす荷物は降ろした。
治子は、家財道具一切が鳥羽に行ったので、機嫌が良かった。 確かにもう入れ
る場所がない。

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