【回顧録】 大阪府立大学 その4 大学院

【回顧録】 大阪府立大学 その4 大学院
2018年7月23日 17:30:32 作成
大学院に入る前後から大阪万博があった。 藤田の紹介で、ペプシ館の技術スタッ
フとして館の設営から運営までやることになった。 時給は当時としては破格の
800円。 駐車料金は1日500円で痛いが、それよりも遙かに多い。 ぶらぶらと
居るだけでももらえたので、お金が無くなると、フラッと行って小遣い稼ぎをし
ていた。 館長の秘書によると、我々の報酬は館長に次いで高いそうな。
プロジェクトを主導したのは、E.A.T. (Experiments in Art & Technology )
最初に簡単な英会話の試験があったが、ほとんど通じなかった。 当時はハロー
さえキチンと言えなかった。 ロボットとかミサイルが聞き取れず、ロボッとか
ミサッとしか聞こえなかった。
アーティストとエンジニア/科学者の協働を基本的な運動理念として、そのため
の人材と情報、技術の供給をはかることを目的とした非営利組織。1966年から67
年にかけて、当時ベル電話研究所に在籍していたエンジニアのB・クルーヴァー
を中心として、R・ラウシェンバーグ、R・ホイットマンらによって結成された。
名称は「Experiments in Art and Technology」の略。科学者を中心に組織され
た運動であるE.A.T.の目的は、テクノロジーを通じて芸術活動を支援することは
もちろん、芸術生産を通じて科学技術の持つ本来的な性質や方向性を検証し、従
来の科学的なシステムの批判・脱領域化をはかることにもあった。代表的なプロ
ジェクトとしてはE.A.T.結成直前に、10人のアーティストと30人以上の技術者が
参加した「九つの夕べ——演劇とエンジニアリング」(1966)や「大阪万博ペプ
シ館」(1970)がある。70年代半ばに組織としての事実上の活動は終息に向かっ
たが、芸術と技術の協働により、インターメディア、パフォーマンス、コラボレー
ションなどの新たな芸術形態に先駆性を示した功績が高く評価されている。
日本での主導は、雪の研究で有名な中谷先生の娘がやっていた。 最近になって
ネットで検索したらYoutubeで出てきて、懐かしかった。 試作センター時代に
は、京都芸術大学の講演を頼まれて、そこで万博のEATの話をした。
ペプシ館の外部は細かい多面体で、頂点にはノズルが付いていて、ここから高圧で水を噴霧
すると霧で覆われると言う設定だが、水圧が低いのかノズルが不備なのか、恐ら
く両方で、雨が降ったようになり、下にある土産物屋がずぶ濡れになると言う問
題があって、ほとんど動作させなかった。
一時はノズルが破損したので、似たようなモノを、知り合いの工場で作ってもらっ
たのを覚えている。 値段はあってなきがごとしだが、工数から適当に計算して
払ったが、向こうはあきれていた。 試作の初期段階であったと思う。
内部は、当時は月の石が最大の話題で、宇宙服の素材である薄いアルミをコーティ
ングしたシートを張ってあり、内部の気圧は少し上げてあるので、球体になる。
シートと外郭のあいだに大きなスピーカーを30台ほど置いて、これを制御する。
この回路が全く出来ていなくて、日本橋に部品を買いに行って、それぞれ組み立
てた。
ベル研から来ていると言う名前は忘れたが、若い技術者がいて、いろいろ教えて
くれた。 シュミット回路やラッチの回路をを教えてくれたのもこの時。
みんなが日本橋に買い物に行ってしまって、残っていたら、連絡したいという。
広い日本橋のどこに居るか分からないが、大体行き先は推測できるので、電話し
たら繋がって、何で分かったのかと、こっちの人はビックリしていた。 当時は
英語でこの状況は説明できず、頭を指で差しておいたら分かった様子。
途中で、あまりにお金を使いすぎるので、EATメンバーとペプシ館が揉めて、結
局EATは全員が辞めてしまった。それでは運営が出来ないので、我々スタッフが
やることになって、それまでの高給も維持されることになった。
お金も十分に貯まったので、その夏に藤田と一緒に軽四で、東日本60日間一周の
度に出た。 詳細は別稿にする。
コンパニオンも赤い服を着て沢山居た。 内部の床は床材料が異なっていて、板
張りとか石畳とかになっていて、これをレシーバーを耳に当てると、それぞれの
違う足音が聞こえると言うだけだが、これを使う度に充電しないと行けなくて、
これを渡すのがコンパニオンの役割。 こっちはレシーバーを入れた箱を運ぶ役
目。 ある時、この箱をコンパニオンに当ててしまって、うずくまってしまった。
宇宙服の素材の球体は、要するに凹面鏡になっているので、反対側が大きく見え
たりする。 また音を反射するので、意外な聞こえ方をしたりする。 音の制御
で、例えばジェット機が頭上を通過すると言うような音の体験も出来る。 実際
の運用中の音はどうなっていたのか、余り記憶が無い。
この音の切り替えは、ハードの配線でやっていたので、当時はすでに使えたマイ
コンでやれば、もっと簡単と言う話をしていた。
ある時は、ダンスのパフォーマンスを、内部の中央でやっていた。 取り憑かれ
たようにダンスをしている演者が、時々こっちを向いた時に真面目な小声で、音
楽とか、次とか言うので、その落差に笑うというかビックリした。
外の広場では、オバQみたいなのが、勝手に動いて、ぶつかると別の方向に動く
と言うデモをやっていた。 これはYoutubeに残っていた。 夜になるとEATのメ
ンバーが、この場所に大きなスピーカーとアンプの予備を持ってきて、ディスコ
会場に早変わり。 当時はディスコと言う概念も無かったので、ビックリした。
ある時は、当時の皇太子夫妻がやってきて、途中の通路で見ていたら、美智子さ
んがやってきて、礼をしていった。
会期が終わると、ペプシ館はどこかに身売りすることになり、韓国も候補にあがっ
たので、韓国に行けるかと言う話にもなったが、結局取り壊されることになった。
終わりの頃に、ビンを壁に向かって投げて割っていると、誰か忘れたが酷く叱ら
れてしまった。
建物は取り壊すとしても、機材は使えるので、アンプとスピーカーは持って帰っ
た。 最大の財産は多色が出るキセノンレーザーだったが、これは他の誰かが持っ
て帰ったと思う。
大きなスピーカーは、2階の六畳の座敷の四隅に置いて、当時流行の4chにして音
楽を聴いていた。 その後、水無瀬に持って行ったが、余りに大きいし分厚いの
で、奥行きをカットして使っていたが、4つとも誰かにやってしまった。 アン
プも真空管の今では貴重品だが、これも誰かにやってしまって、今は1台だけ残っ
ている。
音源のテープレコーダーもTEACの4010?と6010? を持って帰って使っていたが、
4010は早々に誰かにあげて、6010もブレーキの効きが甘いのでテープが伸びてし
まったりしたし、当時はカセットが流行ってきたので、これも誰かにあげてしまっ
た。
当時の技術スタッフは数人居たが、自分と藤田とあと2人ぐらいしか思い出さな
い。 再会したら面白い話になると思うが、全く連絡不能。
試作センター時代に京都芸術大学に講演に行った時に、この話をしたが、その時
に思い出したことも多い。 大学の中を見て回った時には、当時の関係者が居た。
詳細は忘れた。

コメント