【回顧録】 試作センターの立ち上げ その3 募集設立と出資
2022年3月19日 13:36:48 作成
2006年の年明けから本格的に設立の準備をした。 周りと言うか役所的には、
拙速だとか速すぎるとかのクレームがついた。 特に商工部長は後ろ向きだった。
産業21の中村専務は、割と前向きだった。 少し変わったところのある人だった
が、それなりに力はあったし話もうまい。 斎藤さんのところに行ったときも
話してくれた。
会社の名前を決めるのも頭が痛い。 産業21の理事会にも諮って、少なくとも
勝手に決めたとは言われたくないので、何案かだして意見をもらった。 試作な
のでシサクックスにしようかと思ったが、カラオケのシダックスと言うのがあっ
て対抗馬にした。 意見を踏まえて、京都試作センターと言う仮称で使ってい
た名前をそのまま使うことにした。 ベタな名前だがすぐに分かるので、その意
味では良いと思った。 試作ネットからは紛らわしいととの注文があったが、
もともと紛らわしくするのも目的だったので、そのままにした。 しかしその
後の実際の商売では間違って注文したり問い合わせてきたのは1ー2件だけだった
ので、お客は良く分かっていると思った。
その後は出資のお願いにずっと回った。 これは山下さんと私とで手分けして、
あとは宮川さんも入って出資をお願いにあがった。 大きなところは2000万から
3000万小さい所は200万から300万でお願いした。 真っ先に行ったのはやはり島
津製作所で先に入れてもらわないと、後が進まないということで行った。 やは
り何処が出しましたか? と良く聞かれれるので、順番が重要とは山下さんの持
論。
GSも行って例の島津源蔵の電気自動車を置いてあるとこにもいった。 あと思
い出すのは日本電産で担当者が出てきて客先はどれくらいですかとか、それなり
に聞いていた。 他に行ったときには日本電産は出しまたか? と良く聞かれた。
当時は今と違って、こう言うものには一切お金を出さないと言う事だったが、永
守さんの心境が少し変わってきたころだったらしくて、珍しく出資してくれた。
日本ケミコンにも初めて行ったけども、あの半円形の窓のあるところでお願いし
た。 社長の武田さんは義雄さんと友人で、先に電話してくれていたらしくて、
何も言わずに出資してくれた。 日写にも行った。 あと一番困ったのが出資
の期限。 期限ぎりぎりだと間に合わないので、本来の期限より1週間前倒しで
払い込み期限を設定していた。
これで役に立ったのは京セラ。 稲盛さんが居なくなってからは集団指導体制な
ので、動きは悪いと聞いていた。 オムロンも知り合いがあまり居ない。 お
まけに京セラの年度が2月末とかの変則で、この出資を取締役会で承認するタイ
ミングに合ってしまった。 最初はこんなチンケな決裁は株主総会時の取締役
会では取り上げられないと一蹴されたが、アチコチのルートを使ってお願いした。
産業21に出向していた人にも頼んだし、他にもいろいろ頼んだ。
結局承認は得られたが、時期がずれて、最初にサバを読んでいた1週間にピッタ
リ収まった。 これが一番際どい出資だった。 結果的に、京セラの出資が不
足でもなんとか設立できたが、設立できないと、再度の募集設立は精神的に出来
ないと思った。 出資も次の出資段階を考えていたが、まったく動く気がしな
かった。
他はNTT。 最初に話したときは、こんな出資は決済に3か月はかかりますよと言
われた。 それでちょうど京都新聞の記者それも社会部の記者だったらしいが、
来たので出資をリークした。 どんな記事になるのか物凄く心配した。 一生で
これくらい緊張したのは初めて。 どんな結果になるのか想定が全くできなかっ
た。
次の朝に山下さんから電話があって、どんなに怒られるのかと聞いたら、中信が
名前が出ていないとのクレームがあったとのこと。 出資者は見せただけなの
で記者はメモし忘れたらしい。 山下さん曰く、リストを渡せば良かったのに
と。 こちらはそこまでの勇気はない。 情報漏洩につながる証拠になるが、
役所的には良くあるらしい。
結局、これ以上のハレーションはなく、しかもその後NTTから電話で、出資を決
めたとのことで、結局こちらの思惑通りに進んだ。 マスコミを使うと言うの
は良くニュースで見るが、自分でやったのは初めてで、2度とやりたくない。
後の難題は京都銀行。 例の5%ルールにひっかかるので、何とかしてくれという。
子会社のリース会社と少し差をつけて、辻褄を合わせて解決。 これで資本政
策は完了して、最終的に100点満点になった。 オーバーした2000万は資本準備
金にしておいた。 資本金に居れても良いが、一応2億と公言していたので、そ
のままにした。 資本金の額はあまり意味がない。 1億以下だと中小企業にな
るので、少し有利で、2億は中途半端。
京都府の役割としては予算をつけるということだが、これが何につけるのかは
なかなか難しいが色々頭をひねって、結局は試作の発注システムを作ることにし
た。 これで予算を2000万か3000万かつけてもらうことになったが、良く分か
らないと言ううことで京都府庁の財務部長に説明に行った。 役人で無いのが
説明に行くのは前例がないそうな。 財務部長はデータベースの本を持ってき
てお前はデータベースをよくわかってないようだから、これをよく読めと言われ
てしまった。 苦笑いして帰ってきた。
その前に京都府の岡本さんから、財務部長は口が悪いからキレないでくださいね、
と念を押されていたが、少し言いたいことを言うが、たいしたことは無かった。
それで結果的に予算は降りて、こういう新たに付く予算とと言うのは非常に珍し
いことだったらしくて、すごいですねと産業21の人には言われたが、こちらはあ
まり実感が湧いてこなかった。
資本政策はいろいろ考えたが、やはり分かっている株式会社でやろうとした。
鈴木さんは、煮え切らずに、抽象論ばかりで、結局NPOにしたかったようだ。
しかしNPOではガバナンスが不透明だし、運用のノウハウもないので、何かあっ
た時の拠り所がない。 NPOで利益を上げても良いが、何かスッキリしない。
そこでNPOに限りなく近い株式会社として、「ソーシャルエンタープライズ」な
る言葉を発明して、これを使うことにした。 協力会社をパートナーと呼んで、
対等と考えることにした。 他の例では、資本関係を作ってしまうものもあっ
たが、結局うまく行かなかった様だ。
この歳になって。自分の会社でも無いのに、資金の心配をするのも面白くないの
で、5億ぐらいの出資を考えていたが、結局ギリギリの2億になって、少しオーバー
ユーとして2.2億あつまった。 この時から出口戦略は考えていて、IPOは出来な
いので、最悪の会社清算を出来るように資金を配分した。 実際には清算は出
来ないと思うが、自分の代だけでも用意しておいた。
また資本金の振り込みもなかなか難しくて、案の定オムロンだかどこか忘れたが
そこは請求書を送ってくれと言ってきた。 これは想定内だったが1ー2社あった。
ATMで振り込みたいと言う話もあって、暗証番号は8888か何かだったと思うが、
これもやってみてやっとわかった。
面白かったのは設立者の実印が必要だが義雄さんの実印は三文判で、これは立石
電機設立の時からの判子ではないかと思ったけど面白かった。
株式の出資方式も、発起人設立と募集設立があるが、数が30社ぐらいになるので、
募集設立しかない。 ここで問題となったのは、予定の資本金とぴったり集ま
るならないといけないことで、もしオーバーしたらそれは設立会社つまり立石義
雄さんが断らないといけないというのがルールだったが、こういう寄付に限りな
く近い出資では断れない。
そこで新会社法をよくよく読んでみると、最低限の金額を決めれば、その上はオー
バーしても良いと読めるので、ちょうど新会社法の切り替え時期と当たったので、
これを最大限活用した。
ちょうどこの時に新会社法との切り替えで登記所が5月の連休の間にシステムの
入れ替えをするので、その直後に登記した。 しかし登記官も忙しく、新法にも
慣れていなくて、一度は拒絶された。
担当した司法書士はオムロンの定款を弄っている(その時正に株主総会前で定款
を変更しようとしていた)高山司法書士で、御所の南の方の門の前に事務所があっ
て、小さな桜の木に花が咲いていた。 高山さんに連休明けにすぐに持って
いってもらったが、10時ごろに電話がかかり、拒絶されたとのこと。
「そんなことはない。 あれだけ連休中に何回も打ち合わせをして問題ないはず
だから、もう一度行ってくれ」と言って電話を切ったが、これで本当に拒絶され
たらどうしようかといろいろ考えていると、通ったとの電話でやれやれ、一段落
して、へなへなとなった。
出資金の扱いも初めてで、京銀の人に聞きまくった。 それ専用の口座を作って
そこに振り込みをするらしい。 さらに最初の仕仕訳けも、なかなかやることは
無いので、調べて仕訳た。
会社設立はもっと簡単と思っていたので、公的な募集設立する会社の設立は意外
に難しいと思った。 そもそも会社法を眺めてみると、元は個人が7人集まって
法人を設立するのが始まりだったので、今回のような法人が子会社ではなく、全
く別の法人を単独で立ち上げるのは意外に難しいと感じた。 いずれにしても、
会社設立は綱渡りに次ぐ綱渡りで、非常にラッキーだった。

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