【回顧録】 大学時代の通学とスバルサンバー
2020年3月14日 13:58:51 作成
大学の1年は近鉄で上六、バスでなんば、そこから南海で中百舌鳥まで行くルー
トで通学した。 軽音楽部でベースを担当していたので、クラブの大きなウッド
ベースを持ってそのまま電車とバスで持って帰ったことを思い出す。
運転免許は昭和42年の4月4日で、この年から晴れて車で通学をした。 最初はパ
ブリカで、その後は箱型のコロナだったと思う。 中央環状が出来るまえで、八
尾飛行場のアンダーパスを通っていった。 学校からは夜が遅いので、最速は50
分ぐらいで戻ったと思う。 学内は、自動車部以外は誰も自動車を持っていなく
て、何処に停めても問題なかった。 ガソリンは一律リッター当り50円で、ツ
ケで買うと何故か49円とか48円になった。
北海道にはスバルサンバーで行ったが、その後は学内に停めてあった。 サンバー
はモノコックではなくて、シャーシーが入っていたので、車体を外してステアリ
ンギアを逆にして、ロールバーを溶接してバギーにして学内を走り回った。 後
輪は、コロナの14インチのガワを2つ溶接してダブルにしたが、これからの土砂
の巻き上げが激しくて、真上から土砂が降ってくるようになった。
どっかに停めておいたが、そのうちに行方不明になってしまった。
溶接は電気溶接したが、溶接のお面ののぞき窓は殆ど見えないので、裸眼でやっ
ていて角膜焼けを起こしてしまって眼科に行く羽目になった。

コメント