【回顧録】 大和実業とディージェシー

【回顧録】 大和実業とディージェシー

【回顧録】 大和実業とディージェシー
2018年2月12日 11:54:37 作成
父親は、先生になりたかったらしいし、確かにその方が合っていたと思うが、戦
後の状況の中で成和貿易と言うところに就職した。 ここが潰れたか何かで、
自立しないと行けなくなって、大和実業を創業した。 当時は取締役は7人とか、
資本金の制限とかいろいろな制約があったらしい。 当時の設立時の書類を見
つけたが、いつか法事の時に話が出たが、富田林の用木さんも名を連ねていた。
初期の頃は住友倉庫にあって、休みの日には、一緒に付いていったこともある。
父親は円光寺からの養子なので、家には居づらいのか、休みでも何でも事務所に
行っていた。
大和実業株式会社設立  昭和28年4月11日    1953年
大阪市西区江戸堀1丁目23番14号
平成14年5月11日 商号並びに本店移転
法人番号 1220-01-021532
その後江戸堀の事務所に移転し、ここが最後となって、しばらくは置いておいた
が、ここにある理由も無くなって、3回忌ごろに八尾に移した。
江戸堀の事務所は教会の隣で、年末には歌声が聞こえてきた。 その後ごく近
くのYMCAの予備校に行くことになったので、ますます近くなった。
個人の輸出専門業者で、インクとか針とか活字の母型とか、要するに雑貨を扱っ
ていた。 治さんは、医療品を扱っていた。 今では商社が扱うので、このよ
うな業態は無くなってしまった。 今ならむしろネットを使った個人輸入業者
になるのかも知れない。
一時は、輸出振興策もあったのか、良く儲かったらしい。 札の束を神棚に供
えるのを見たことがある。
一番良く会ったのは、田中母型で、木津の活字の母型を作る会社で、ここの田中
さんは良くやってきた。 懐かしいので、父親が死んだ後に連絡したが、無し
のつぶてだった。
大学時代は、車で通学していたので、帰りに事務所に寄って、一緒に帰る事が多
かった。 夜食に細麺のうどんを食べて戻るのがいつもだった。 今のよう
にケータイが無かったので、無線のアンテナを屋上に付けて、タクシー無線の機
器で連絡を取った。
会社の従業員は女の子1名で、辞めるとその後が大変だった。 父親はあまり面
倒を見ないので、母親から言われていた。 その後、治子が行くことになって、
康之が生まれるまで続いた。
治子の前は、助松に住む子が居たので、助松まで車で行って、その家まで行った
ことがある。 その後も年賀状は来ていたと思う。
その後、叔父さんの治さんが一緒になって、同じ事務所で仕事をしていた。
八尾に移した頃は、会社名の制約がきつくて、少しでも類似のものがあると認め
られなかった。 もっとも、元の大和実業も、エスカイヤークラブの大和実業
と同じ名前で、良く間違い電話がかかってきた。 他でも九州のXXさんからも、
聞かれたことがある。
当時増田マンションの1階の事務所に入居していた司法書士の金沢さんにやって
もらったが、大和不動産とか言うのが八尾にあって、これが駄目という。 しょ
うが無いので、Daiwa Jityugyo Corporation の頭文字を取って、DJC ディージェ
イシー株式会社とした。 今は取り壊してしまった文化の209号室を事務所にし
て、ここに荷物を運び込んで、取り壊すときに、書類を整理して、最後の残りは
増田マンションの事務所に保管した。 この時に自筆の手紙も捨てたが、これ
は置いておくべきだったと思っている。

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