【回顧録】 屋敷の周り 東側と南側
【回顧録】 屋敷の周り 東側と南側
作成日時 2018年3月11日 13:47:40
東側は、枯れてしまったが大きな何とか(忘れた)の木で、子供のころは落ちた実
を拾ってよく食べた。 他でも書いたが、この木は久保田と隣の何とかさん(忘
れた)の境界になっていたことが後で分かった。 当時はウチの塀にもたれかかっ
て、空き地の正面にあって、その左側に隣の家の掃き出窓が直接あった。 そ
れをその土地を買った木元さんの父親が、裁判を起こして今の境界つまり元の木
のところまで戻したということだった。 ウチの土塀ももう少し南側まであっ
て、その基礎を壊す段になって、それも面倒なので、少しブロックを積んで花壇
にしたもので、ここまで土塀はあったし、隣の敷地もここまでしかなかったこと
になる。 その南は今から考えると風呂の焚口があったためか、隣との境はト
タン板が張られていた。 それも高いもので、上のほうはこちら側に傾斜がつ
いていたと思う。 隣が藁葺だったので、火事を恐れたのかもしれない。 その
南は細い下水の排水路を挟んで隣の敷地となっていた。 現在の境界の屈曲し
ているところがそうなのかもしれない。
井戸館とその南の納屋の板壁が、隣から見えていたことになる。 南側は三上
さんと坂上さんの家が並んでいたが、両方を併せてタンポポ保育園になっている。
三上さんのところからは井戸が出てきた。 最近まで使っていた。 さらに東
の田中と言う家の西側に空き地があって、ここに共同井戸があって、おばさん連
中がここで、文字通りの井戸端会議をやっていた。 その北側は、現在は公園
になっているが、元は久保田の土蔵があった。 その北側は久保田の門の前の広
場になる。 子の土蔵は、我が家の古い写真にも屋根の一部が映っている。
坂上さんの元の家はあまり記憶にないが、だいぶ前に取り壊して、モルタル葺き
の2階建てに代わっていて、北西の角は少し水路に出ていた。 父親は、あれは
違法建築だと言っていた。
その西は、西光寺で、元は久保田屋敷の中にあって、久保田屋敷を拡張したとき
に、ここに移転したとのこと。 名前のとおり西本願寺派。 ここの敷地の北
側の道に面している部分は、元々細長い土地が別にあって、現在の東側の玄関の
北端と北西の隅を結んだくらいが、元の三角の土地で、お寺が修復したときに、
取り込んで土塀をつくったものと思う。 お寺の西側は、新田まで水田だった。

コメント